1789年以前におけるフランスの労働階級および産業の歴史(9) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

1789年以前におけるフランスの労働階級および産業の歴史(9)

 

 15世紀末以降、イタリア遠征はフランス人に対し、彼らの知らない芸術の光輝と贅沢さの洗練ぶりを明示した。アヴィニヨンやブルゴーニュを通ってイタリア風の浸透が幾つかの北部の作業場ですでに行われていたのだ。建築家、彫刻師、あらゆる種の装飾師らは魅せられ、その方法を変えた。ローマの伝統の権威をもって自らの義務としたより熟練したスタイルに魅了され彼らは古代崇拝に身を捧げる。ゴチック式は軽侮され、不当にも野蛮な様式と蔑まされた。それにもかかわらず、なおまだ半世紀以上ものあいだ、その建築様式はその揺籃であるところの境界に残り、p.914 そこではそれにとって代わることは困難であった。しかし、民間の建物においては古典趣味が早くも支配的となった。フランソア一世の治世よりのちルネサンスが咲きほころびはじめる。だが、それは真実の意味における再生(ルネサンス)ではなかったといいうる。というのは、ルネサンス式芸術はフランスでは完全には死滅していなかったのだから。けれども、それは熱狂的な躍動によって少なくとも驚かされた変形であったため、13世紀以降ともなると、前者が全くの宗教的啓示であるのに対し、後者が本質的に異教的という違いゆえにそのことが見抜かれなかったのだ。その形式は宗教思想を支配する。16世紀はその形式を崇め、優美さの表現において特に秀でている。眺めのよい城、その装飾、立像、そのエナメル画、そのガラス細工などは絵画となり、彫刻を施された家具となったが、それこそ、以上のことの証拠ともなる。芸術から興ったすべての産業は次々と、その作品をルネサンス式に適合させるために古い形式を振り棄てた。すなわち、指物細工、金銀細工、陶器、エナメル工芸品、ガラス製品などすべての物がそれよりのちは古代を模倣するにいたる。しかし、フランス人が15世紀のイタリアを横切ることによって初めて垣間見て、彼らが己の天分に従って解釈したのは古代である。そこにこそフランス=ルネサンスの独創性が宿る。

 農業と製造業は互いに固く結ばれている。したがって、この時代おいて製造業が十分に発展するのが見られる。加工食品業(métiers de bouche)が特にパリに溢れた。新工業も創設された。15世紀に始まる印刷業がその後大発展し、フランスは、殊にパリとリヨンはイタリアと争うようになった。家具製造は非常に多様化した。陶器製造業も生まれた。織物特にラシャ産業が発達し、それもまた多様化した。ルイ十一世がツールに導入した絹織物業がリヨンに移設され、16世紀半ば以降そこで繁栄する。王立マニュファクチュアが最初に胚胎され、フォンテーヌブローのつづれ織業がその代表例となる。

  動産資本が明確に成長し、製造業・商業的企画においてかなり重要な役割を演じるようになった。国王貨幣が統一されたため、両替商という古い業種は割に合わなくなったが、その一方で、イタリアの例に倣って銀行が開設された。フランスと外国との通商関係は主として大トルコ帝国において拡大したが、スレイマンとフランソア一世の盟約は特に優れたものであり、その当時、非常に富裕で一大消費国だったスペインとの商業関係が拡大した。保護関税という朧げな思想が姿を現わしはじめた。

 高位高官に奢侈をとどめさせなかったものの、この大きな経済的発展を麻痺させた宗教戦争が突発した。p.915 農村は荒廃させられ、製造業はアンリ二世の息子の治世下で長期に及ぶ衰微を被った。

 光明と活気がアンリ四世とともに再興する。この君主のもとで王立マニュファクチュアの創設は産業保護の全体的制度が編制された。コルベール執政下における王立マニュファクチュアはこの制度の本質的特徴となる。その大臣がレヴァント向けの毛糸とラシャ、綴れ織、上質絹レース、幾つかの絹織物、毛編み靴下、絹靴下、あらゆる種の靴下編物類、ガラス製品の製造を導入し発展させ、あるいは改良したのは王立マニュファクチュアまたは特権マニュファクチュアの設立という手段によってである。ゴブラン王立マニュファクチュアとボーヴェ王立マニュファクチュアは国王のために仕事をおこない、民営企業に対してはその美しい製品をもってモデルを提供した。大工業がフランスにおいてスタートしたのは17世紀、特にコルベールの保護を受けてのものだった。

 同世紀の半ば頃、発展したのはマニュファクチュアにとどまらない。工業生産全体が大いに増大した。というのは、王国はフロンドの乱の末期からナント勅令の廃止までのあいだ国内的な平和を享受しており、また、人口と国富が増大したからだ。芸術は繁栄を極めた。流行を支配した国王は芸術に対し、その厳めしい栄耀の何某かを伝えた。マンサール(Mansard)の建築術とルブラン(Lebrun)の絵画は富かで厳めしく華美な、かつ少しばかり冷淡なルイ十四世の古典的スタイルを特徴づける。外国人に対して普及する利点をもつのは明確なスタイルである。ルイ十四世とともにフランスはヨーロッパに流行を与えはじめた。

 その絵画に陰鬱さがないわけではない。農業 ― その取引は規制により拘束され、食糧は安値で売られたが ― は製造業ほどには恩恵を施されなかった。農業は多くの飢餓をもたらした。それは税負担の増徴により特に被害を被ったのだ。農村の悲惨な状態は消費の面に表れる。それにひきつづいて工業生産にも跳ね返る。それはすでにコルベールの死去する以前に不平が鳴らされた。彼の没後、2つの最後の戦争のあいだ、特にルイ十四世治下の最後の戦争のあいだ、害悪が猛威を揮った。コルベールが創設した多くの王立マニュファクチュアは姿を消した。都市ではある織物業はもはや機を打たなくなっていた。多くの労働者が失業し、1709年、フェヌロン(Fénelon)が発した嘆きの声は社会的苦悩の表明そのものであった。

 国家が再建され、工業がルイ十四世治下のいつの日か保持していた顧客を再び見出すためには多年を要した。けれども、摂政時代は衣装と同じように御殿の装飾にその特性をとどめている逸楽と奢侈の時代でもあった。p.916 そして、ローシステムは商業に対して一時的な活況をもたらした。摂政スタイルはルイ14世紀スタイルに対する対抗流儀である。変わった風俗特にブルジョアの邸宅と家屋の設備は徐々に変わっていき、厳粛さから上品さへと昇華されゆく。ロココ式がその絶頂にさしかかったのは、ポンパドゥール夫人の影響下におけるフルーリの執政期においてである。絵画ではワット―(Watteau)が先駆者となり、ブシェ(Boucher)は新派の惣領であり、建築の輪郭(装飾・室内装飾)は歪んだロカイユ式、膨らんだものの愛好、シナ産の小装飾品趣味が溢れた。フランスは依然として建築家や彫刻家を保持していたが、彼らは古典主義の純粋感情を懐いていた。しかし、流行はルイ十六世がより厳しいとは言わないまでも、より純粋な習俗の宮廷を治めさせる頃までは不変だった。

 18世紀の3番目のスタイル、すなわちおそらく3つのスタイルの中で最も繊細なルイ十六世スタイルはダビッド(David)よりはグルーズ(Greuze)に近いが、当時栄えた。

 それ以前と同じように、芸術家によって連続的につくられたそうしたスタイルはそれらを製造業、職人、金銀細工師、彫金師、高級家具師その他らが適合させることによって一つの範型となった。

 芸術はある点までは国民の精神状態の表現であり、国民の側からも建築術、彫刻、絵画における造形美のあらゆる形態を与える教えによって、そして、それが工業に提供するモデルによって習俗に対しても影響を与えた。工業は芸術を反映し、国民教育にとって補助者となった。それゆえ、芸術はひとつの文明を特徴づけ、芸術の中ではこの点ではあらゆるものの首位にして合唱隊の指揮者はすでに述べたように建築術である。中世とりわけ第二次ゴチック期において建築術は他のすべての芸術や工業に対し君臨する。けれども、近代になると徐々に、より小さな芸術が自らを解放し、その特性が目立つにつれてその固有のスタイルをかたちづくる権利を主張するようになる。18世紀になると、この独立性はすでに一部分存在していた。しかし、すべての自由にして工業的な芸術が何らかの共通の原理からスタートしていることは明らかだ。つまり、各時代は固有のスタイルを保持していた。最も一般的にして最も鮮明な思想を与えるのは建築術、それも外観の装飾と同様に室内装備品の建造術である。

 農村の疲弊にもかかわらず、そして、うち続く飢餓やポーランド継承戦争とオーストリア継承戦争にもかかわらず、18世紀に産業は発展した。小さな仕事場と同様、大工場でもそうだった。リヨンの絹織物業は速射砲のごとくその数を増す。時計製造業と青銅業は暖炉の振り子時計において特に要求される物品を見出した。p.917 陶器・磁器、新発明は金銀細工業および錫食器製造業と競争関係に入った。製紙業は知識熱を大いに利用した。ランプによる照明は完璧なものとなった。大工業はその道具の改良と機械の導入、そしてアンシアンレジーム末期にその姿を現わした蒸気機関の導入によって、より合理的な労働制度によって真にその名にふさわしいものとなっていく。けれども、これらはなおまだこうした状況を以てしては臆病なデビューにすぎなかった。しかし、七年戦争ののち、脚光を浴びた農業と耕作農民に裕福をもたらした食料品価格の高騰、マニュファクチュア製品の需要が成長し、工業発展はこれまで以上に強化された。イギリスは革新者が模倣しようとするモデルとなった。

 外国貿易が拡大した。すでに作成された統計表はいかに不十分あるとはいえ、この時期における経済変動の全般的拡大の思想を与える。すなわち、ルイ十五世治世の初めには2億1500万、世紀半ばには6億1600万、大革命前夜には10億リーヴルを超えた。1786年、エコノミストおよび他の政論家が自由思想の影響のもとに政府は軽い税を課すことでイギリス商業に対して王国の辺境を開いた。この事件で不意を襲われたフランスの製造業者はイーデン条約の結果に驚嘆しただけに、そのモードがイギリスの新奇さに目を奪われたが、彼らは悲痛の思いで苦情を申し述べた。けれども、同じころ、たたかいに抗するために工場はその道具を改良した。混乱から解放されるのを妨げた大革命の到来は、かの条約の時代とともに起こしたであろうようなあまりに突然の事件を惹き起こしたのである。

 工業は過去にも現在にもつねに科学と芸術の教育者であり、指揮者でもあった2人の偉大な親方たちであった。

 科学についていうと、自然現象およびこうした現象の原因に関する理論的知識 ― 人がそれらを何と定義しようとも、科学を形づくるものであるが ― だけでなく、力と権利の利用についてのありとあらゆる手段、方法、したがって工場のすべての道具およびすべての処方についても理解しなければならない。皮に突き刺し、そこに裁縫により両端を合わせるため腸線を通させる目的で骨を鋭く尖らせた先史時代の人々が工業的科学を興したのである。織る仕事を配列した最初の人物はp.918 それ以上に洗練された科学的業績および鉱石の熱によって金属に変換してしまう仕事を興したのだ。したがって、科学は過去幾世紀にもわたって工業に霊感を与えつづけてきた。

 中世において、そして近代もそうだが、18世紀半ば頃までこの科学は、ほとんどすべての推理というよりは経験は仕事場での実験によって形成されたものであって、自然科学者の実験室で形成されたものではない。そして、この科学は学校によってではなく徒弟制度の伝統によって伝播された。それにもかかわらず、科学は何らかの成果を与え、中世の遠い昔から、道具・材料の使用と方法において数多くの改良をもたらした。しかし、語の狭い意味での科学は実際家に法則を説くほどには十分に発展しておらず、実践家の方もそれを理解するにはあまり教育を受けていなかった。科学がこの力を発揮するのは19世紀になってからのことだ。したがって、昔ながらの方法が永続し、進歩は極めて緩慢だった。すなわち、18世紀半ばごろ、ほとんど13世紀と同じようなやり方で織物が織られていた。機械と仕事がマニュファクチュアと工場に有用な方向を提供しはじめるのは19世紀後半以降のことである。

 芸術の事情は同じではなかった。芸術は科学以上に自然発生的に生まれた。先史時代の石器と骨剣から芸術はひとつの形、ひとつの色彩を作られた対象に与えるところのすべての人々を揺り動かした。芸術は徐々に発展する。芸術は過去において幾度か繰り返し、批評家が論議するが、その長所については異議を挿むことが出来ない卓越さに基礎を据える著しいスタイルを形づくった。ローマ芸術、ゲルマン芸術、古典芸術はルネサンス、ルイ十四世、ルイ十五世、ルイ十六世の各スタイルを包含する。芸術家はこれらのお手本から次々と霊感を受け、そして、フランスの芸術家の特性のひとつであるところの嗜好(gout)によって他の者から区別されるのである。

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