1789年以前におけるフランスの労働階級および産業の歴史(8)
Ⅱ 工業(l‘Industrie)
先史時代は墳墓の発掘と開鑿が明らかにした工業の基盤によってのみ知られている。すなわち、その産業は極めて初歩的なものであるが、しかし、その発展はサン=タシュル(Saint-Acheul)の重くて粗末な斧の時代から、鉄と青銅の武器、宝石およびシャンパーニュの墓地における芸術的に飾られた馬車に到るまで非常に著しいものである。カエサルの時代にはガリア人は鉱山を掘り、鉄をつくり、貨幣を鋳造し、陶器と羊毛の織物の交易をおこなった。
ローマの征服はガリアにあらゆるイタリア芸術品を導き入れた。地中海地方ではそこの芸術がローマの美しい建築物のそれに等しい記念物が出現した。他の諸州はそれほど繊細ではないが、その同じ芸術を模倣する。すなわち、ガリアの特異性は南部の作品よりも北部のそれに特に顕著である。しかし、手芸は増大し、ガリアはイタリアがおこなっていたあらゆるもの、そして、富裕な民と洗練された文明の必要を満足するすべての物ごとを行なったように思われる。
国立の鉱山およびマニュファクチュアとは別に、これらすべての職業は小工業に属した。p.910 原史料や記念碑はほとんど到る処で小さな作業場を構えた小職人と小商人の存在を一致してわれわれに示してくれる。
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ゲルマンの侵入ののち、工業は長い間衰微した。蛮族によって打倒されたローマ文明は瓦解し、しだいに消滅した。それとともに芸術も消えた。つまり、記録に値する多くの記念碑、多くの芸術品などがそれだ。その支配がローマ化されたガリアを深く究めたのは多数の蛮族である。その反対を支えるためには逆説を愛好せねばならない。明らかにすべての産業生活が麻痺したのではなかった。しかし、都市は遺棄され、非常に小さくなった。その権勢は土地所有者の邸宅、荘園に移り、工業労働はきわめて家内的特徴を帯びた。すなわち、人々は売却するためよりはむしろ消費するために製造した。メロヴィング朝のもとでの富者の贅沢は美しい物を所有することにではなく、多くの金貨を陳列することにあった。
世紀が進むにつれ闇は薄れ、11世紀初には5世紀よりはかなり劣るが有る水準が現れはじめた。いうならば、修道院以上に芸術感情の豊かな場所はなかった。そして専ら教会のために奉仕する修道士自身は写本の書類および彩色挿画または石と象牙の彫刻以外にはほとんど創意性ないしは熟練を見せなかったが、ビザンツ式の模倣者であった。
12世紀、13世紀はルネサンスの時代であり、もっと正確な言い方をすれば、真にオリジナルにしてフランス的な新しい芸術の目覚めた時代であるが、そうした芸術は宗教的な啓示から生まれたものである。1千年を鼓吹した民衆の恐怖が去ったとき、感謝の念を懐く人々はすべての境界の側から高尚になった。この運動はこの時代以前にも同じように始まっていた。修道院の秩序はその土台を拡げ、その教会堂や修道院、殊にクリニュー修道院を建てることによりモデルを提供した。司教は美しい聖堂を建立するために贈り物と寄進を懇請する。ロマネスクの名のもとに呼ばれ、その背後にビザンツ式を模倣した建造物を従える建築様式が出現した。ロマネスク自体も変形し、尖塔式が12世紀前半に姿を現わした。しかし、交差穹窿を支える尖塔の十字およびmairesse-vouteと、控え壁(contre-forts)の間の圧力を支える飛迫控(arc-boutant)とに基礎を置く形式はこの世紀の後半になってようやくその固有の装飾をもつようになった。13世紀になると、ゴチック式はあらゆる教会建築物における支配的となり、信者の敬虔はあらゆる面において今日なお我々の激賞の対象となり、いかなる他の芸術といえども神性へ昇華する信仰の表明において匹敵するもののない、素晴らしい聖堂を築くのである。p.911 このような芸術が生まれ発展したのは北仏特にセーヌ河の流域である。そこから、その芸術はフランスの残りの地域と全キリスト教世界へ拡散していった。これはフランス人の創造物であり、そうした創造物は今日でもそのものとして承認されている。その父たることについてはもはやほとんど議論の余地はない。その芸術は国民の魂の発露であり反映でもある。1095年から1270年にいたる十字軍にフランク族を赴かせた信仰の熱意はまた、キリスト教的感情に十分に適合せしめられたこの建築様式を想像させる熱意でもある。高身分の者も低身分の者もすべてがこうした建築物の建造に対してはらった競争はこの感情を証明するものである。ゴチック式教会は肖像、立像、レリーフで満艦飾となった。石柱は読むことのできない大衆に語りかけ、その宗教の歴史と信者の執るべき義務を説明した。建築物と並んで立像術も12世紀以降極めて実際的な芸術となった。ビザンツ式から解放された立像術は自然的であると同時に神秘的となり、急激にして目覚ましい発展をみた。なおまた細長い形式は古代の肉付きぐあいに接近しなかった。しかし、その表現は厳粛で飾りは多様で賑やかだった。芸術家の気紛れが自由な運用を可能にした。
宗教建築物に対してはフレスコ絵画と焼絵ガラスが結合された。柱頭、円柱、フリーズに絵が描かれ、立像にも装飾とともに絵が描かれた。ゴチック様式の建造物の大きな窓口には飾り絵ガラス、窓または円形花窓が嵌められ、聖像による教えが完成され、華麗であるとともに控え目な光線が神殿全体を貫き通した。
当時の芸術家は職人から区別されなかった。建築家は石工親方、石材師と見なされていた。しかし、彼らがおこなったのはひとつの芸術であり、巧妙であるとともに複雑な芸術であった。なぜというに、ゴチック建築の聖堂の建造は静力学の微妙な問題の解決を含んでいたからだ。その秘術を伝授するためには長い徒弟期間を必須とした。多くの地方でその形式の真似られた学校がつくられ、フリーメーソン団の萌芽となる組合が結成された。各建築は同一の仕様に多年を要するところの数多くの労働者を集めることを要した。人々はその教会に関心を払い、いろいろな条件をもつ人々がその腕で協力するために信仰からやってきた。全体的であるとともに自発的な運動が大きな結果に従属した建築物と芸術において結実するのは未だかつて見られなかったことだ。
建築術はいかなる時代においても偉大な芸術であり、その業績はまず最初に大衆の注視を惹き、建物と備品のすべての付帯的芸術にその典型を見た。p.912 おそらくそれは中世以上に権威をもってそれを課したことはなかったであろう。というのは、教会はすべての装飾芸術の中心だったからだ。立像、絵画、ガラスが造られたのは外ならぬ教会のためである。指物師たちが集まり、彫刻師たちがその祈祷席を彫り、宝石細工人らが聖遺物をつくり、祭壇を飾るのも外ならぬ教会のためであった。したがって、彼らが俗生活または宗教生活に予定されているすべての仕事は聖なる形式の刻印を示している。ゴチック式はその形式に由来するすべての産物、たとえば家具、綴れ織、エナメル、他の宝石、錠前の上にその印を捺した。
13世紀に非常に重要度を増し、完成された原史料と彩色挿画の写しは他の芸術作品の側からも引き合いにだされる。
城砦 ― その建造は11世紀から12世紀にかけて軍事的見地から大きく修正されたが ― 芸術的革新の枠外ではほとんど痕跡をとどめていない。しかし、内部的には、その傾向はより一般的となり、室内装飾はより変化に富み豊かになった。
工業が発展しはじめ、多様化を開始する。ラシャおよび他の毛織物の産業 ― 多くの都市で名声を博した ―北部諸州での上質亜麻織物産業、鞣し皮と毛皮の調整、武器製造、小間物取引、並びに芸術産業などはルイ聖王の世紀にはフィリップ・オーギュスト以前にはなかったほどにきわめて活発となった。人口は増大し、開墾地は拡大する。土地の産物の価格、したがって土地の価格も騰貴する。都市はかなり重要にして充実した経済生活の拠点となった。ルイ聖王のこの世紀は壮大な芸術と産業繁栄の時代であった。もちろん、相対的な繁栄ではあったが、そのことはフランスが当時すでに現代フランスに等しいほど多量の農産物または工業製品を産出したことを意味しない。歴史家や経済学者にとって生産者の数やとりわけ生産方法の違いのある2つの文明社会の間に対照をうち立てることが問題となるはずがない。繁栄はそれ以前の時代と比較すれば、生産の増大を意味したのである。このように理解すると、その繁栄は13世紀、殊に14世紀の3分の1半世紀のフランスにおいて極めて顕著であった。建築物に関連して既述のように、これはルネサンス以上のものがある。つまり、その原因であると同時に結果であるところのブルジョワジーの解放と一致する目覚めであるからだ。
逆に、百年戦争はフランス史のなかで不吉な時代となった。つまり、人口減少と貧窮は真っ先にその時代を特徴づける2つのカテゴリーである。しかし、それは技芸の絶滅の時代ではなかった。
いうまでもなく、偉大な芸術、すなわち建築術はその発展を示さなかった。宗教思想の最も完全なる表明に放射状のゴチック式を以て達成した建築術はp.913 その原理の誇張によって自ら意味することによって姿を変えた。石材を切り抜くことを過度に欲することで建築家と彫刻師はそれぞれ切り込み、装飾を過剰に施すことによって教会の内部を重くした。このような過重費用は華麗な形式の特徴のひとつである。ゴチック式はほっそりとした上品な簡潔さを失い、その尖塔を偏円にし、支柱の脚部と穹窿から出る穹稜の網によって穹窿を塞ぎ、そのことによって高さの効果を弱めた。信仰の鼓吹は以前ほど純粋ではなくなったように思われる。
しかし、同時に芸術家の彫刻術はより巧みになり、より繊細となった。彫刻は一般に活力に満ち、変化に富むようになった。フランドル、ブルゴーニュ派はルネサンス式の魁をなした。
彩色挿画は最も完成し、そして、最も魅力ある作品を残した。たとえば、ジャン・フーケ(Jean Fouquet)は偉大な画家である。フレスコ絵画は教会においても城砦においても重要な位置を占めている。宗教的感情によって13世紀のガラス絵を超えることなく、ガラス工芸はその方法を完成させた。釉と金銀細工術が発達する。家具類は領主およびブルジョアの居所においてより豊富に、かつより多様化した。銀器の贅沢は儀式の宴会の豪奢に対応する。衣装の形式は変わりやすくなった。織物産業はその時代の終り頃まであらゆる絹製品はイタリア起源だが、その結果を感得した。フランスの多数の都市は大きな消費量をもつラシャゆえに有名となった。
発明はそれ以前の時代の隠された需要を刺激し、そのために新しい産業を生みだした。騎士の装備は一変する。14世紀末の甲冑は鍛冶と襲合冶金の複雑な作品となった。弓術は武具の中で当時すでに重要な位置を占めるようになった。木版術は大いに普及。それは印刷術の発明をもたらしたが、ルイ十二世が王位に就いたとき、フランスの多くの都市ですでに印刷業が始まっていた。
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