1789年以前におけるフランスの労働階級および産業の歴史(7) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

1789年以前におけるフランスの労働階級および産業の歴史(7)

 

(IX 18世紀、改革の精神)

 ルイ十四世の長い治世の悲しむべき結果はフランスの源泉を汲みつくすと同時に、フランス人を飽き飽きさせた。宮廷は大王政治の窒息しそうな盛儀からの脱出を願った。p.904 摂政政治は宮廷と都市に対し放蕩の見本を提供した。しかし、摂政政治は、根本的にあまりに貴族的だった官房の権威の破壊を願い、参事会(conseils)を設置した。だが、その設置は一時的で表面的なものにとどまった。ルイ十五世の執政はその期間中、ルイ十四世の政治の誤謬をくり返し、それを追従した。

 ロ―システムは3年間、同時代人を幻惑する一時的に華々しい現象であった。ローは紙幣が金属貨幣に取って代わりうること、そして、貨幣の増発はそれが受取人を見出すかぎりにおいて、一国家を富ますものと主張した。フランスはそれを信じ、投機に無我夢中となる。この紙幣を以てローは国家の負債、僧侶の負債、官職を償還し、流通を多くの桎梏から解放した。すなわち、安易な恩恵、それに紙幣は只であった。それが実現されると、今度は幻惑が現れる。それは莫大な財産、多くの財産の大激動、フランスの商業と資本がそれまでフランスで受けたもののなかで最も不幸な財政措置だった。それにもかかわらず、手工業ギルドの負債清算は続行する。しかし、4半世紀後になってもその清算は達成されなかった。

1700年に新しい基礎の上に再建され、ルイ十五世治世の初期に修正された商業会議所は、少なくとも商業局についていうかぎり、経済的秩序に関する問題について審議し、手工業ギルドの創設または既存ギルドの法規に関する修正要求について検討した。会議所はそれら要求の多くを承認した。しかし、自由と改革 ― 書籍やサロンによって広められた ― の影響下で公共の精神はしだいに変わっていき、会議所はしばしばギルド独占に関する職人階層の要求と、王立マニュファクチュアの特権に関する企業家の要求を退けた。18世紀前半に時おり現れはじめるこのような自由への傾斜は後半になると公然と表明されるようになる。すなわち、それを最も顕著なかたちで代表した人物は商業会議所のヴァンサン・ド・グルネー(Vincent de Gourney)である。商業会議所以外に世論を喚起したのは特にエコノミストと百科全書派である。産業が拡大し、その清算が多様化し、また印刷術が濫用を掘り崩し、政治家の政治の合理的条件を探し求めにつれて、その成員が自らの特権にしがみつくことに執着するギルドの独占が攻撃されないわけにはいかなかった。全人が労働の自由権をもつという政策は自由にとって論理的基礎をもち、哲学者をもっていた。それは一度ならず諸大臣の耳を傾けさせた。すなわち、柄物亜麻を処罰した禁令の解除、王国内での穀物の自由流通、時おり許可された国外輸出、農村において都市ギルドを無視して機織りを許可した1762年、1765年、1766年の布告などp.905 がそれの証左となる。

 ルイ十六世が即位したとき、この政策はテュルゴーとともに支配的となった。ギルドの根本的抑圧はそのような産業制度がもはや思想や必要と合致しなくなった過去と一緒に葬り去る真正の手段となったし、余計なものまたは障害物となった。1776年2月の勅令は技芸・工芸のギルドを廃止したが、それは早計すぎたようだ。同勅令は、啓蒙された世論が要求し、そして他の国でも見られるように、王権によって、しかも革命的暴力を行使することなく、政治的・財政的・行政的・経済的改革を成就した数多くの改革のうちに数え入れられるべきものだった。(たとえフランスがその頃から堅固な王権と理性の乱によっても絶対に譲歩はしないと決意を固めていた特権階級をもっていたとしても)。特権階級はそれを奪取し、ギルドは再建され、余計なものを除去したが、いく分かは開放的となった。しかし、その成員は営業独占の精神を捨てきれず、その幹の上に乗ってくつろぐ一刻が濫用を斥けた。すなわち、多くのギルドはそれらを切除する労を執らず、以前と同じ状態を維持した。この結果は予測されえた。それを端的に言うならば致命的だった。というのは、この独占的精神はその制度そのものに由来したからである。王権は1581年の布告とそれ以前からさえ、それに枷を嵌めるようつとめてきた。王権はギルドの数を増やすことにこそ成功をおさめたが、労働の自由を尊重させることには失敗した。

 自由は一般または特別規則によって、そして程度の差こそあれ、厳格さと叡智を以て適用された査察官によって拘束された。しかし、そうした規則は増えて複雑化する一方にあった。テュルゴーは諸改革を通してそれを十分に理解する機会に恵まれなかった。ネッケルはそれを鋳なおすとともに、手工業ギルドを再建し、随意な適用をおこなった。これはひとつの発展でもあった。しかし、ギルドの問題と同程度に規制について保守・革新の両派に半々の満足を与えることを欲した折衷的な制度は全部を満足させるにほど遠かったものの、マニュファクチュア経営者が新たに規制をもつことは一般に稀であったように思われる。

 マニュファクチュアにおいて17世紀と同じく18世紀も労働者はその雇用主から孤立していた。それは大工業が大きな地所を占めるにつれて大きくなった。小工業においてさえ、このような分裂はそれがたとえ目立たないものであったにせよ、特定の親方たちが富むかまたは贅沢な習慣を身につけるか、または大多数の労働者が職人組合に参加するにつれて際立つようになった。ギルド法規は常時労働者を親方に対する依存状態においていた。王権が仕事場の警備に干渉するようになって以来p.906 王権は労働者について法規と同一の義務を定めた。18世紀には、たとえば1749年および1781年の勅令に示されるように、王権は極めて厳格で細部まで定めた法規を作成した。というのは、労働者たちは非常に数を増し、集団を成し反抗的だったからだ。その起源が非常に遠い昔のものと思われる職工手帳(Livrets)は1781年以降は行政的に必須のものとなった。

 これらの桎梏にもかかわらず、工業は17世紀と同様に18世紀に発展しつづけた。工業は18世紀後半になると驚嘆すべき発展さえ見せた。王立マニュファクチュアと特権マニュファクチュアは数の面で増大し、前半には度々助成金を受け、後半になると多数の行政区画を以て優遇された。発明の精神はより活発となり、それは特にルイ十六世治世下で奨励された。陶器と同じく新産業が創設された。工場の整備は改善された。機械が、そして絶対王政末期ともなると蒸気機関がなおまだ目立たない程度ではあったが設備の一環に組み込まれた。しかし、イギリスの範型にもとづいてそれが完成するのは19世紀中を待たねばならなかったものの、産業革命の序曲はすでに奏でられていた。この点についていうと、コルベール主義は実りある結果をもたらした。つまり、コルベールの執拗な才覚によってフランスの土壌に移植された大工業はかなり大きな推進力となったのである。

 工芸産業では18世紀は17世紀とはまた異なった性質を帯びる。しかし、さほど荘重ではないにしても、18世紀は趣味の面で17世紀に劣っていたのではなかったし、優美さと変化の面ではむしろ勝っていた。摂政スタイル、ポンパドゥール様式、ルイ十六世様式などはフランス芸術王国の華といえる。

 七年戦争の敗戦にもかかわらず、国外貿易特に植民地貿易は奇妙なことに拡大した。それにもかかわらず、確かに不十分ではあるが、この貿易の概要を与えるところの明細書はルイ十五世治世の初めの1716~1720年の平均として輸出入合わせて2億1,500万リーヴルとしているのに対し、絶対王政期の1784~1788年の時期平均として10億6,100万それ以上と明記している。重商主義関税によって百年以上ものあいだ管理されてきた植民地貿易は1786年の条約によって突然イギリスに対し門戸を開くことになった。流行が支えるイギリス製品の波が押し寄せるのを放置したことによってそうした開放はフランスの製造業者を仰天させ危機を招いた。しかも悪天候と初期の革命的行動が重なって起きた危機のせいで、自由闊達な国際関係という途絶することのない制度が樹立できたかもしれない経済的な効果を十分に認識するのを許さなかった。

 外国貿易の数字は国内商業や一国の経済的繁栄の尺度を与えない。しかし、その数値は特に他の史料が欠損しているときに参考に資する凡その指標とはなりうる。p.907 ところで、外国貿易は1784~1788年のあいだは上昇したが、やがて大革命とナポレオン帝政の期間中に降下した。それは1824年頃になって再び到達するのである。そこから、すでに大革命前夜において工業が保持していた発展の思想を懐くことができる。

 赤字損失を穴埋めし、収入支出の均衡を呼び戻す課徴金制度を受け入れさせるため大臣と名士の無能ぶりが示されたのち、三部会はあらゆる労働制度、ギルド、規則、査察、マニュファクチュアの特権を単に一掃するにとどまらず、封建制と絶対王政の諸制度すべてをうち壊し、まったく新しい政治・社会制度と自由と平等の2つの原理を基礎に据えることによって完全に構築することを企図するために参集したのである。われわれがこの再建の仕事を研究するのは、それに続くその業績をみるためである。

 もっと簡潔にいえば、これらの新しい時期を文明の3つの大きな画期に還元することができる。すなわち奴隷制とコレギアにより特徴づけられるガリア=ローマ時代。大侵入ののち5~6世紀になって初めて開始され、農奴制・統治権の細分化によって、また、手工業ギルドに特徴づけられる封建時代。最後の3世紀に亘り、その全期間中、王権が手工業ギルドを管理し、生誕間もない大工業を保護し、その制度と経済的立法を主宰する絶対王政時代。

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 時間の鎖を撒き戻すことによって歴史家は容易に円環の連続性を承認した。このような連続性は各世代が己を育み育て、土壌をもってその制度と思想を遺贈した世代を継承しているゆえに存在しないことは不可能である。こういうわけで、一つの伝統、一つの国民、一つの国家が存在するのである。19世紀のフランス人はガリアの子孫であるわけだが、前者の中に後者の性質の特徴を認めることができる。

 しかし、その土壌はつねに同じようなやり方で耕作されたのではなく、また、その数の大小に比例し等量の食物と材料を提供していたのではない。その環はまちがいなく今なお保持されている。しかし、それらは均質ではない。時おり、ひとつの事件、たとえば侵入または大戦争のような事件がそれらを見間違えるほどに変形してしまう。また、非常に頻繁にその時代の緩慢な行動が少しずつそれを変形していく。その結果、そうした変化は一つの環から他の環を知覚できないようにしたが、それにもかかわらず、長さにおいて比較される環に対してまったく異なった様相を与えるのである。p.908 しばしば、同じ名称の存続のもとに制度が変わる。ルイ聖王の王権はルイ16世の王権とは異なる。同じようなことは13世紀の手工業ギルドとルイ15世治下のそれについてもいえる。

 伝統が被ったなかで最も突然にして最も深刻な歪曲は5世紀の大侵入に起因する変形である。ローマ文明は崩壊し、コレギアは消滅した。このことは幾つかの点において奴隷制と同じくけっして哀惜すべき制度ではなかった。労働者、耕作民または職人、自由人または奴隷はその大部分が農奴の状態に留め置かれ、幾世紀ものあいだ農奴身分に留め置かれたのである。

 解放およびコミューンによって出現した時、労働者たちは道徳人となり、封建世界の中で浮上した王権がその司法権の保護を労働者たちのうえに被せはじめたとき、彼らは自発的に結束し、彼らの揺籃、もっと正確な言い方をすれば、生誕間もない工業の要塞―労働を特権という城砦の背後に隠す―となった一種の組合を創設した。手工業ギルドはまず最初に幾つかの都市に存在し、その特権は一般にまったく制限的でないか、あるいはほとんどそうでないかのどちらかであった。しかし、独占の精神がその制度の中に育まれた。それは、その制度が自律的に普及するとともに発展した。一つの理由は、そこに身を寄せることは親方の利益であったからだ。さらに王権が勢力を伸ばすにつれて、王権の影響下においてそれが秩序と統一の要素としてギルドを評価したからである。このようなギルドの拡散は百年戦争ののち、16世紀に急激に進んだ。1581年と1597年の布告はこうした政策の兆候となる。

 宗教戦争の時代は、ギルド制度の害悪が表面に溢れ出た時代でもあった。17世紀の絶対王権はそれらを秩序の中に回帰させた。しかし、王権は警備と並んで財政上の目的から技芸・工芸のギルドの数を増やしつづけた。王権はギルドから貨幣を引き出し、特権を維持させることで(課税を通して)負債を与え、その主権の高さから製造方法にまで規程を定めることによって、さらに親方に対する服従を維持するべく労働者にその手を重くのしかからせることにより王国の制度全体を調和的にして官僚的な不平等関係を与えたのである。

 自由の精神が世論の面前において、そして一致してギルドを保護していた独占の精神と、ニュファクチュア経営者が関与していた規制の精神とに対して行政の真只中において公然たる闘争に入るのは、ようやく18世紀の後半においてであった。p.909 しかし、テュルゴーの努力にもかかわらず、自由は、土地所有の法律と同じように工業労働の法律となるためには大革命を待たねばならなかった。

 けれども、アメリカ大陸の発見と16世紀に突然襲った経済的変動(価格革命)に引き続いて、動産資本が産業的企画を形成するほどに十分豊富となり、十分に大胆となったとき、最初の大工業の萌芽が出現した。そうした萌芽は17世紀、特にアンリ四世の伝統を引き継いだコルベールの王立マニュファクチュアの真の創設者だった同世紀の後半において発展した。1789年、この大工業は18世紀の後半にめざましい発展を示したが、すでに1789年には深く根を張り、いうならば、第二義的プランに追い込まれた手工業ギルドを乗り越えてその上に聳え立つことにより、そしてさらに古い時代の経済機構を抑圧するためにあるその動機を付加することによって拡大したのである。しかし、マニュファクチュアそのものは特集の学において孵化されたものであった。大革命はそれを自由な制度に置き換えた。

 いくつかの言葉で示すとすれば、そこにこそ鎖の中で最も明瞭な環が存在する。この要約を全体的にしたのち、われわれの首長の幾つかの特殊な点についてもう少し細かくふれることがわれわれの課題として残されている。