1789年以前におけるフランスの労働階級および産業の歴史(6) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

1789年以前におけるフランスの労働階級および産業の歴史

 

(17世紀―アンリ四世、ルイ十四世とコルベール)

 

 1世紀も前から絶対的になる傾向をもっていた王権は17世紀になるとそれを現実化した。宗教的不和によって ― それは歴史においては最も質の悪い不和だったが ― へとへとに疲弊したフランスは無制限に主権者を認知した。p.900 そうした勝利はフランスに秩序への回帰の希望を懐かせたのである。じじつ、アンリ四世は対スペイン戦争を終結させたヴェルヴァン(Vervins)条約によって、そして、ナント勅令によって平和を呼び戻し、秩序を回復させた。フランスは国内的な平和を、そして対外的には秩序と安寧を同王に負っているといわねばならない。すなわち、これを以て産業がその発展を回復するには十分だった。

 ヴェルヴァン条約とナント勅令はおそらくアンリ四世の治世下における最も大きな2つの治績であろう。ヴェルヴァン条約はフランスに不和を撒き散らしたスペイン人を国外に追放し、外国による王国内部の事がらへの堪えられない容喙に終止符を打つことになった。ナント勅令は信仰の自由を宣し、改革教会派に宗旨と担保(gages)の自由を与えることによってプロテスタントの動揺を鎮め、最も憎むべき部類の戦争すなわち宗教的内乱を終わらせた。領主および国王官吏の財政的誅求は厳しく取り締まられ、いかに税が重たかったとはいえ、タイユは減じられた。農産物取引はいく分かの自由を享受し、農民は息を吹き返した。シャルル五世がそうであったように、国王は趣味と政策による普請好みとしてパリを飾り、交易事業を企画した。

 アンリ四世はフランスを、住民の消費を自給し、外国製品の輸入から解放することのできる産業国家にする野望をいだいていた。知識を得るために彼は商業委員会を設置した。彼は主に工業生産と絹織物業に固執した。なぜというに、絹は非常に価値のある商品であったからだ。彼は、彼が特権を与え、補助金を与えた別の製造業を振興するようつとめた。保護を受けた者は全部が全部成功したのではない。しかし、アンリ四世はそれを放置しなかった。彼以前においてこの種の幾つかの施設があるにせよ、彼は王立マニュファクチュアの制度を念頭に浮かべており、この称号についてフランスにおける大規模産業の最初の推進力と見なしたということができる。彼は、その手によってあるいは彼の特別の保護下においてルーヴル宮の画廊で、彼がギルド的桎梏から解放した著名な芸術家や職人を住まわせた。

 その頃、ほとんどの反駁者に遭わない経済理論、すなわち貴金属を至上の富と考え、その結果、貴金属の獲得と金・銀の保持を個人の独占および国家政策の最上の目的とする経済理論が普及した。その経済理論は自明の理の確認にすぎないように思われた。すなわち、農民、製造業者、商人は己の商品の売却によって貴金属の保有者になりたがったのではないか。そして、彼らはその利益を彼らが獲得した分量で測ったのではなかったか。王室金庫は貨幣を以て税を供給しなかったのではないか。貨幣の中から軍事費と行政費に利子が支払われる。したがって、あらゆる社会的循環を促すのは貨幣という支えにおいてである。より深い分析が、富はあらゆる労働の産物にあるのであって、p.901 他の労働の産物の流通のために媒介物の役割を果たす産物の中にのみ存するのではないことが証明されるためにはさらに1世紀半を要した。このような教義についてラフマスとモンクレティアンは、17世紀初のフランスにおける理論家だったアンリ四世はその経済政策のお手本であった。農産物輸出は辺境を開き、貨幣の流入を導くはずだった。フランスの工業製品特に高級奢侈品の生産は、それまでフランスが輸入について支払っていた貨幣の流出を予防することが期待された。アンリ四世が締結した通商条約は原材料のフランスへの補給を確保し、その輸出については販路を確保することを目的としていた。国内関税問題に関してはその前任の幾人のモノから大雑把な下ごしらえができており、その頃すでにスペイン、イギリス、オランダのようなすべての商業圏によって実施されていた保護制度はフランスでも具体的な形を取りはじめた。つまり、その制度は17世紀全体を通して地歩を固め、その後の長期の存在へと宿命づけられていく。

 名士会召集に続く4年間、アンリ四世は、彼が名士会にある約束をおこなった。すなわち、「私の希望は私を2つの栄誉ある称号に押しやる。それらはわが国の解放者、再興者と呼ばれることだ」と。そして、歴史がアンリ大王の異名を捧げたのはしごく正当なことだった。

 通常の政治に没頭したリシュリューは大領主の服従とプロテスタント派を武器とした独立の軽減によって国内的には王権を確立し、対外的にはオーストリア家に対する闘争によってフランスの国力の拡大は経済政策に対する彼のあらゆる関心を払う暇を奪った。しかし、彼は全く関心をもっていなかったわけではない。ところが、リシュリューはその注意を工業よりはむしろ商業のほうに振り向けていた。海軍、商船隊、商業会社などは彼にとってフランスの国力の本質的な条件だった。

 シャンプラン(Champlain)がケベックに植民地を築いたのはアンリ四世治世下である。しかし、フランスの植民地の真の設立者はリシュリューだった。もしその成功が彼の意図に十分に応えるものでなかったなら、それは他の時代と同じく、当時のヨーロッパにおける戦争がフランスをして西インド諸島に対する国の利害関係に注意をふり向けさせることを妨害したからである。

 内乱は産業にとって不都合だった。随分前から歴代諸王によって準備された王権の絶対化が始まったのはフロンドの乱、ピレネー条約、マザランの没後である。諸州と諸都市はそれらに残されていた独立のほとんどすべてを失った。しかし、秩序は回帰した。そして、強力な政府のもとで国家の経済生活はより充実したものとなった。ルイ大王が君臨する。けれども、財政・工業・商業を指揮したのはコルベールである。コルベールの思想はp.902 なにも目新しいものではなかった。それは重商主義体系の思想である。すなわち、一方においては国土において可能なかぎり多数の工業を発達させ、または創設することによってフランスを繁栄に導き、外国から独立させ、そのことによって工業製品の輸入を削減すること、他方では、フランスのマニュファクチュアが貿易上の黒字を計上すべく多くの物品を輸出するよう図ること、そして、この二重の手段によって至上の富と見なされた貴金属を保存し引き寄せること。しかし、22年の執政のあいだ、コルベールは極めて真摯な財産の願望を以て、そして、不屈の厳しい意志を以てこれらの思想を実行に移し、彼がルーヴォアという政敵の要求によってなおまだ妨げられることのなかった1661~1672の期間中、彼は成功裏にそれをなしえた。

 彼が採った手段は多種多様である。産業を創設又は発展させるために、彼は王立工場(manufacture royale)の称号または特権マニュファクチュア(manufacture privilégié)の称号のもとに免税特権(immunités)、助成金、独占権を付与した。このような施設 ― その嚆矢はアンリ四世およびフランソワ一世にまで遡及するが ― はフランス経済史の中で一つの画期をなすものだった。すなわち、手工業ギルドの小規模製造業と並んで地歩を固めはじめるのは大工業(grande industrie)である。コルベールの奨励と庇護のもとで多くのこの種の工業が芽吹きはじめた。それは全部が全部発展を維持したわけではない。というのは、その存在がすべて人為的あるからだ。けれども、そうした制度そのものは持続した。

 製造品の質を確保するため、彼は規制を作成した。手工業ギルド法規は前々から存在していた。しかし、彼はそうした規則が十分に均質ではなく、それを尊重させるのに十分な権力を背景にもたなかったために、業者がそれをそれに背いていると判断した。国王こそがこの種の権力を保持しており、規則が一定業種の製造業、特にフランス向け並びに所定地域向けの繊維産業のそれに課されたのは国王の名においてである。コルベールの取り巻き連によって準備されたこのような規則は可能なかぎり明文化された。しかし、形式や書式が変化するにもかかわらず、その規則は厳格であり、業者が顧客の好みに応えようとしているにもかかわらず、すべてについて強制的な厳格さをもっていた。したがって、業者はふつうに国王の規則を歓迎しなかったし、査察官、臨検、刻印、処罰なども歓迎しなかった。にもかかわらず、規則と産業査察官はその後1世紀以上ものあいだ続いた。それらは確かに詐欺を抑止し、織物の型を維持するのに役立ったが、発明に枷を嵌めた。あらゆる場合においてそれらはコルベール主義の際立った特質のひとつだった。

 オランダ戦争の戦費を国王に献上するのを余儀なくされ、コルベール王国内の全都市と全集落に対し1673年3月勅令によってギルド制度を課すことで、あるいは少なくともアンリ三世とアンリ四世を真似てp.903 、技芸・工芸のギルドの数を大幅に増大させることによって戦費を捻出することに躊躇しなかった。それもまた一種の規制であった。

 コルベールの経済的治績において国内関税の撤廃、商船隊への気遣い、大商業会社の創設―これら3つの事実の列挙が工業よりも商業に帰属するのだが―を引き合いに出すことを除外できない。

 彼の治績を判断する必要があるのは、彼の規則および設置によってというよりは、むしろ彼が財政におけるのと同様に一般行政において統治させた一般的秩序によって、そして主君としての国王とともに彼がその利点を分かち合った国内的平和によってである。これこそ絶対王政の開花といえよう。

 既述のように、コルベールはルイ十四英に仕えた有能な大臣の中で第一級に位置する人物である。彼は野心家だったが、きわめて勤勉で秩序に対して情熱を燃やす臣下であり、性格的には独裁的である一方、柔軟な奉仕者、国王の忠臣であったため、かれはフランスの工業・商業上の必要を的確に理解しており、その必要を彼の精神の正確さおよび彼の意思の力に従属させた。その結果、王国は未曾有の繁栄を経験し、じっさい、マニュファクチュアと商業とはこの時ほど大きな発展を見せたことはなかった。もし彼が原理的に誤謬を犯したとしても、彼は他方ではかなり多くの業績を残しており、多くの誤謬を補って余りあるといえよう。

 そのことはかれの死後に明確になる。明らかにコルベールはフランスから多くの実業家や多額の資本を奪い、かなり多くの工業を外国に追いやってしまったナント勅令廃止を妨げなかった。しかし、ルーヴォアが王立マニュファクチュア許可状を授けることによって、そしてルーヴォアの後継者と同様、1715年までコルベール主義の誤った運用を導くことによって消滅させてしまったことと較べると、コルベールは彼が創設したマニュファクチュアをよりマシなやり方でもって支えたのである。

 ルイ十四世治世の最後の2度の戦争は国家を疲弊させた。王国金庫はギルドに無用な監視人― 彼の給与はギルドが負担する ― を課すことによって、あるいはギルドにその官職を買い戻させ、このような従属から解放するために借金を義務づけることによって、ギルドを困惑させる数限りない官職を設置した。かくて産業活動は衰えた。重税の負担は増大する一方にあり、財務省は借金を背負い込んだ。人口は減り、特に農村地方では飢餓が荒れ狂った。ルイ十四世の長い治世の最後の20年は衰退期であった。