1789年以前におけるフランスの労働階級および産業の歴史(12) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

1789年以前におけるフランスの労働階級および産業の歴史(12)

 

(外国における工業コルポラシオン)

 政治制度と地方の歴史に由来する多様性をもとに観察すると、フランスの隣接諸国においてもわれわれは同じような文明状態に対応する産業ギルドを見出す。それは同じ精神に鼓舞され、時代の影響を受けつつ同じ種類の変化を被ってきた。われわれは幾つかの特徴を挙げることにより、こうした類似点を示すことにしよう。

 フランスの北方、つまりフランドルにおいて商人ギルドは12世紀以降に存在したことが知られている。この国の大部分の大都市は同世紀末、ギルドに編成されたメティエをもっていた。ヘント、イープルその他で血なまぐさい動乱を歴史にとどめており、それは13、14世紀にはコミューン相互の闘争、および領主とフランスに対する戦争において重要な役割を演じた。しかし、300年以上ものあいだ、フランドルと北ヨーロッパの中で最も工業化された国、最も活気に満ちた国にしたのである。フランスと同じく13世紀を迎えると、コミューンのブルジョア的寡頭支配にたいする小手工業の争いが見られるようになる。シャルル大胆王(Charles le Témeraire)の徴税制度はこの繁栄に打撃を与えたが、その繫栄はその地方がもはやオーストリア家の属領にすぎなくなったとき、そして、特に宗教戦争が人口を抹殺し、低地諸国を二つに分裂させたとき、衰退は酷くなった。大胆王に対する権利の主張 ― 1467年におけるヘント市の旗の没収 ― とマクシミリアンに対する権利の譲渡 ― 彼らを解放した1488年の協約、彼らを取り外した1489年の協約 ― を辛うじて獲得したコルポラシオンはシャルル=カン(Charles-Quint)に屈した。彼は1520年10月18日の勅令によっていかなる教団もコルポラシオンを君主の許可なしに設立してはならない旨を定めた古い布告を復活し、1540年のヘントの反乱に引きつづき友愛同盟(Fraternité)を武装解除し、最初にヘントにおいて、次いで全低地諸国においてメティエの監視員の選出する権限を停止し、その任命権限を君主に帰属させるにいたった。フランスで王権が1581年と1597年の勅令によってコルポラシオンに支配の手を拡げたのは同世紀末のことであった。しかし、王権はそれほど野蛮なやり方ではおこなわなかった。p.935 ところが、フランドルでは手工業ギルドはその職業的伝統とともに残ったが、もはやそれよりのちは、それは18世紀まで幾つかの民衆運動の機会があったにもかかわらず、教団や宣誓と同じくもはや何ら政治的役割を果たさなくなった。

 フランスの南方のイタリアでは各都市はその特殊な目的をかかえていた。われわれはフィレンツェを例に挙げてみよう。そこでもギルド組織は見出されたが、フランドル以上に政治と絡みあっていた。メティエの集団化は11世紀以来、他の幾つかの都市と同じく、古代ローマのコレギアと無関係に形成されていた。

 12世紀末、政治行為によって7つの重要な工芸部門、すなわち7つの比較的重要なコルポラシオンの存在が確認される。生地を輸入し、染色と調整を施し、フィレンツェの町および外国にそれを再販売する毛織物商人から成るカリマーラ組合(la Calimala)は中世全体を通してフィレンツェの卸売商の集団を成していた。その傍らに毛織物、絹織物、交換、…その下に医者と香辛料販売の薬剤師、執達吏、判事、公証人らがいた。これら7つの工芸部門の成員は大市民(Popolani Grossi)を形成し、13世紀に貴族とギベリン(神聖ローマ皇帝派Gibelins)に闘いを挑んだ有力階級となった。彼らはある時は敗北し、またある時は勝利を収め、絶え間なく革命と相互的追放の連続を招いた。同世紀末には5つの中間的職業(肉屋、靴職、鍛冶、大工、石工、贓物商)と9つの小さな職種(酒屋、旅籠、塩・油商、皮鞣工、武器製造人、錠前工、車力、黒檀・象牙・貝殻細工工、バッフル製造人、指物師、パン屋)が都市行政に参加するのを妨げることなく、下級職種の湧出を抑止するために貴族に接近した。かくて大市民は弱められ、貴族は1293年の改革によって廃止された。

 フィレンツェのコルポラシオンはその政治的役割ゆえにフランスのそれと全く異なる性格を帯びていた。その領事(Consul)は非常に重要な人物であった。カリマーラで選出された理事長はその権能を行使するのを拒否できなかった。彼らはPreurの主宰下で、職種を構成する協会から派遣された委員から成る参事長の協力を得て職務を全うした。p.936 彼らはフィレンツェのみならず外国の商業会議所を前にしては、翻訳能力をもつ公証人によって監視された。彼らは規則を厳格に順守させる義務を帯びていた。その規則は販売、徒弟、祭祀、染色原料取引、価格公定、毛織物や反物の刻印に関するものであった。しかし、商慣習から、カリマーラを慣わしに対し警戒を懐かせた。つまり。規則は隔年ごとに、必要とあらばもっと早く再検討しなければならなかった。

 フランドルと同じく、中世の全体を通して商業に深い結びつきをもっていたイギリスは、まず家族と部族の同盟として、次いで都市ブルジョアジーと商人の同盟としてのギルドを古い昔から保持していた。商人ギルド(Merchant Guilds)はノルマンによる征服の時代に歴史に登場した。これは多かれ少なかれ都市制度と関連しており、そうした都市は商業上および税制上の特権証書を付与され、その盟友に対して取引における保護と信用の確保を主要目的とした。中世において150の都市がそれを保有し、その大多数は12、13世紀に形成された。イギリスも早くから手工業ギルドをもっていた。フランスと同じくその起源は詳らかではなく、われわれのもつ最初の法規よりもずっと以前に遡ることができる。ロンドンのローミエ(Lormier)の法規は1261年のものである。それより以前は長いあいだ、職人層は ― その大部分は当初こそ商人ギルドに帰属したが ― その職業に相応しい特別の組合を形成するべく離脱した。ロンドンの有力な織物組合がヘンリー一世のもとで存在したこと(1100年)、そして、その組合は「商人組合」に不安の念を与えたため、1154年に一時的に解散させられたことが知られている。マンチェスターやオックスフォードのような都市でも当時、石工、大工、縮絨工のコルポラシオンが存在した。フランスと同様に、親方が法規制定を懇請し、そして権力者すなわち都市または領主がそれを承認したのは、外ならぬメティエの良き秩序のためであり、宗教的加護のもとで成員の友諠的統合のため、信義ある製造のため、詐欺の抑圧のためであった。

 15世紀になると、クラフトギルドは数と重要度において増し、商人ギルドは多くの分枝を伸ばしたが、しだいに舞台の後景に追いやられていく。

 幾つかの商品の輸入禁止はクラフトギルドにこれら物品の没収権を与え、したがって、当該都市だけでなく周辺の農村への臨検の権限さえ付与することになった。ギルドはその独占を確固たるものとするためにこれを活用した。フランスと同じく親方試作の要求が一般化するのは14世紀である。p.937 フェルト帽を絞るため、石臼を使うというようなギルド的慣行を悩ませた製法に何らかの改良策が王制定の法規によって禁止されたのも14世紀のことである。独占の過重は訴訟の増大をもたらした。徒弟奉公を使う権利を失った親方たちは徒弟と労働者らに対し、宣誓によって当該都市では店を開かないことを約束させた。都市自治体の意志表示にもかかわらず、メティエは法令を出してその実施を要求する。ヘンリー七世とヘンリー八世は多くの法規によってそれの防止または規制するようつとめた。

 その第一の結果はフランスと同様、職人組合を結成して固有の権利を守り、幾たびかの反乱による不満を表明しようとした労働者を気疲れさせることになった。第二の結果は16世紀における国王直轄都市の弱体化である。そうした都市の工業に対しては増大しつつある税負担の上に独占の負担が付け加わった。第三の結果は、マニュファクチュアが存在せず、また、ギルド法規の存在しない農村へ、製造業者が自己の周りに顧客を維持しながら自由に営業できる処への移動であった。これらの農村の多くはしだいに重要な都市に成長した。たとえば、バーミンガム、マンチェスター、リーズ、シェフィールドなどがその例だ。

 同時代の著作家たちはクラフトギルドの衰退を経験した諸都市の人口の減少を嘆いている。たとえば16世紀のワーセスター(Worcester)は同町のメティエが衰えたことを嘆いている。なぜというに、小部落・農村の耕作者はその町の出身者でないにもかかわらず、そして、何らの賦課も負担していないにもかかわらず、織物を作るのに干渉してきたからだ。彼らはヘンリー八世に願い出て、同市住民に非ざる者はワーセスターシャーで織物を製造することはできないことを定めた布告を獲得した。ノーフォーク伯爵領のためのノリッジ、ヨークシャーに対するヨーク市の布告も同様である。

 王冠のためにカレッジ、ミサの基金、救貧院等々の財産を没収したヘンリー八世が修道院財産を抑圧した後、1545年の法規すなわち議会の法令はギルドを含んでおり、それに致命的な打撃を与えた。ロンドンのギルドとオックスフォードおよびケンブリッジの大学 ― 代価を支払うことによって危難を免れたが ― を例外として、これらのギルドはエドワード六世の治世下の1547年以降には法的な根拠を失った。クラフトギルドを金銭的に支えた諸制度は大部分消滅した。イングランドの経済的支柱は除去され、工業は自由とまでは行かないまでも、少なくともギルド的拘束を受けることなく、農村および新しい町で発展していく。このような推移はとりわけ宗教戦争がフランドルの大多数の職工がイングランドに亡命するのを手助けしたのちに発生した。ナントの勅令廃止は同じような結果を生じせしめた。p.938 他方、発明特許すなわち1623年に始まるパテント制度はコルポラシオンの集合的独占を打破した。中世において羊毛の輸出国であったイングランドは今やこの輸出を厳しく取り締まることになったのだ。

 旧都市のクラフトギルドはこのような工業的推移を押しとどめようと動き、多くは農村においてクラフトギルドの特権を享受した物品の製造を禁止する議会法令を獲得した。だが、これは徒労に帰した。18世紀の著作家たちは次のように書いている。

 「貧民は自由な都市におけるよりはマニュファクチュアが編入された都市におけるほうにおいて数が多い。そこにおける税負担は3分の1も多い。わが商業は、もしあらゆる処で工業が妨害を蒙っていたなら、もっと緩やかな発展を示したであろう。コルポラシオンのまったく存在しないマニュファクチュア、リーズ、バーミンガムはわがマニュファクチュア都市の中で筆頭に位置している」。

 しかし、この制度が自由の制度だと信じる必要はない。つまり、ギルド規制に入れ替ったのは国王の規制である。その証拠として、徒弟奉公、職人奉公、賃金に関するエリザベス王の法規、他の動揺の法規が挙げられよう。

 新都市の発展は最初こそ緩慢であった。17世紀末に都市に住むイングランドの人口は漸く5分の1(総人口500万のうち100万)だった。約30万の人口をもつロンドンに続く10万以上の大都市は僅か4つしかない。都市の発展が大英帝国の植民地貿易の拡大とマニュファクチュアへの機械の導入によって急速化するのは17世紀、特に18世紀の後半においてである。この時代を生き延びたクラフトギルドはロンドンのような幾つかの都市を例外として、主として慈善協会的性格をもつ友誼組合でしかなかった。イングランドはその制度を修正したが、大まかに言ってそれを全廃まではしなかった。

 18世紀末は、我々が扱う主題の限界である。それにもかかわらず、われわれはギルドまたは「商業カンパニーTrading compangies」がなおまだロンドンに残存したことを付言しておこう。その数は76社で、うち12社が大会社である。そこに入会を許可されることを人々は誇りに思った。イギリス王権の支持者らは仕立て職コルポラシオンの成員であり、これらのギルドは下院の選挙体においてロンドン伯爵の地位を得ていた。しかし、それらは工業とは何らの法的関係ももたず、いかなる権威もメティエも支配しなかった。救命網を投げる機械(Arbalètes)の製網工…〔略〕…

p.939  ドイツでもフランスと同様、コルポラシオンの起源の一つに、唯一の起源ではないにしても、領主館の官吏つまりミニステリアーレスの権威下における農奴集団に帰すことができる。王室の厩吏の権威下における鍛冶屋、侍従の支配下におけるパン屋、漁師、料理人などがそれに含まれる。シャルルマーニュは荘園行政において2つの国にモデルを与えた。しかし、フランスと同じく、ドイツの同業組合運動は一般に12世紀、13世紀における農奴解放時の工業の発展の結果として自然発生的に生起したものである。12世紀初以降、諸都市において商業組合(associations de commerce)が形成された。同じ世紀の前半に発するメティエの法規が存在する。フランスと同じく、ツンフトの設立は工業の発展を物語り、ストラスブール、マグデブルク、バール、フライブルク、ベルリン、ウィーン(ここではその設置が1278年に禁止された)における労働の余剰の開始をもって増大した。諸侯たちが12、13世紀にこの種の組合を全面禁止したにもかかわらず、手工業ギルドは15世紀になると最盛期を迎える。フランスと同様、手工業ギルドを構成する職人たちは相互に防衛しあい、彼らが認める者のみに営業を許可した。公益の名において良き製造を確保するという目的のために働こうとした。1272年以降、ベルリンのパン屋に親方試作が現われ、メティエへの入会が親方の息子のためにすでに容易化されているにもかかわらず、手工業ギルドへのアクセスそのものはなおまだ障害物で覆われていなかった。

 法規は14、15世紀に複雑化した。この時代はツンフトの歴史において最も光輝ある時代であり、また、曖昧さから抜け出て都市権力を求めるべく上層ブルジョアジーに対する抗争をおこなった時代でもあった。その獲得のための抗争は北ドイツにおけるよりは南ドイツにおいて比較的成功をおさめた。ケルンとウォルムスではこの抗争が13世紀以来始まっていた。ストラスブール、マインツ、コンスタンツ、ブルンスヴィクにおいてこの抗争は14世紀の大部分を覆った。ツンフトの成員がその野心をメティエの執政に集中しはじめる15世紀ともなると、しだいに平和が戻ってきた。彼らはその頃、法規を規制と独占の精神において強化したが、製造工程、時間、雇用主ごとの労働者の数、賃金、販売価格を定めた。ほとんどすべてのコルポラシオンはその頃に互助会(confrérie)と二枚重ねになっていた。

 濫用の最開花期が訪れたのもフランスと同じく16世紀だった。すなわち、徒弟奉公期間の長期化、権利の濫用、親方への就任抑制、同時に商品の品質についての詐欺行為などがその例である。p.940 諸王は無秩序状態をなくすようと務めた。1486年以降、バーデン辺境伯は毛織物業に対し規制を発布する。1536年から1594年にかけて親方候補者による贈答、経費を要する宴会、労働者の同盟等々を禁止し、特殊的でなく抑圧的でない一般的警備に勝る皇帝勅令は7つにとどまらない。それはまったく実施されなかったか、またはほとんど実施されなかったかのどちらかであった。ギルドの不規律状態は、絶対権力がドイツ三十年戦争の末に勝利を収める時代まで残った。しかし、その頃になっても、政治を不安定に陥れていた対外戦争が鉾を収めたとしても内部的な濫用は独占のために持続している。

  17世紀になると、抗争が囁かれるようになる。ドイツ連邦議会(Diète)が設立されたものの、一定数の諸侯、特にブランデンブルク選帝侯によるツンフト抑圧の意向にもかかわらず、そして、害悪を曝露したアンケートにもかかわらず、議会は改革の声を挙げるのみにとどまった。しかし、ある者は己の領地内で別行動を執った。ブランデンブルク侯は1688年の警察布告によって警告を発した。

 18世紀、アウグスブルクが舞台となり、長引いた騒動に動かされた連邦議会は1731年に規則を発令した。それは帝国全土に対してなされた初めての試みである。この規則はツンフトに対し、地方的権力の許可なしに集合することを禁止し、このような集会が可決した法令を完全無効と宣し、メティエへの入会を容易化し、徒弟奉公期間を改善し、同盟を処罰し職工手帳の携帯を義務化した。この措置は道理にこそ適っているが、16世紀の勅令とほとんど同じく、効力を奏しなかった。フランスと同様、コルポラシオンは伝統の力をもって改革の試みに抵抗した。フランスの王権は親方特許状によって幾つかの破れ目を設けた。ドイツでは諸都市に僅かな金銭を支払うことによって破れ目をつくろうとした。コルポラシオンに入ることなく労働する権利を保持しているものの、徒弟または職人をもつ権利をもたざる「自由親方Freimeister」がそうである。

 フランスのエコノミストの影響下にドイツの幾人かの理論家たちも改革を要求した。ある者は濫用禁止で満足し、また別のある者は労働の自由の名においてコルポラシオンそのものの根本的廃絶しか採るべき方法はないと宣言する。しかし、改革はなされなかった。そしてフランス革命時には各親方は一人の徒弟と一つの仕事場に限るといった嫉妬深い規定をもつ組合制度はほとんどすべての都市において都市工業を支配していた。