武士道と騎士道 (その5) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

 2.騎士道
【騎士身分の成立由来】
「騎士」という用語から人はどのような人物像を連想するだろうか。「アーサー王物語」に登場する「円卓の騎士」のように、甲冑を身にまとい、馬に跨り、剣や槍などの武器で敵を打倒していく勇敢な武人の姿を思い浮かべるであろう。では、このような騎乗戦士すなわち「騎士」は実際にどのようにして生まれたか。
 騎士といえばすぐに中世ヨーロッパが想い起こされる。この時代は封建制の時代と重なるが、騎士は忽然と誕生したのではなく、封建制が前史をもつのと同じく、騎士も前史をもつ。
 ローマ時代の財力に優れたエクィテスは元老院貴族と平民(自由民)の中間にある準貴族身分と見なされていた。しかし、ゲルマン人の傭兵がローマ軍に参入すると、エクィテスの意義は失われた。9世紀に現われる中世の騎士は封建制という新たに登場した時代環境のなかから生まれ、固有なかたちの叙任式を発展させた。
 騎馬戦術は8世紀のフランク社会に登場するが、蹄鉄や鐙を伴う乗馬術は東方ステップ地帯の騎馬遊牧民族からヨーロッパに伝わったものであろう。乗馬術が鉄とともにまずもって農民を搾取して生活する「馬に乗った人間」たる騎士階級によって独占されたことは中世社会の「兵農分離」の始まりを意味する。騎士身分は一挙に成立したものではなく、910世紀ごろには土地領主として財産の性格、領民に対する支配権、職業的戦士としての生活様式といった点で社会的な優位に立つ事実上の貴族にすぎなかった。
 12世紀ごろの封建社会では、富や権力の大小によって門閥貴族たる城主ないしはバン領主層〔バンBannとは独占とか禁止とかの意をもち、これに基づいて独占を図る〕と、彼らに臣従する狭義の平騎士(ミリテース)層というふうに貴族内部の階層化もみられた。それにもかかわらず、両者は全体として、農民身分とは異なる階層として、広義の騎士身分に融合していった。その理由は、彼らの身分が封土と同様に世襲化され、特別な騎士叙任式によって継承されたからにほかならない。
この事実上の貴族が法的に明確化された騎士身分に成りかわるためには、キリスト教による一種の「聖別」が不可欠であった。カトリック教会はゲルマン戦士にある好戦的気風を和らげようとして、戦闘行為の制限(神の平和)に務めるととともに、騎士叙任式に介入して騎士制度を教会本来の目的に適うようにした。
 騎士叙任式は、ゲルマン古来の武器授与を中心とする成年式の発展したもので、カトリック教会は武器授与を武器の祝別式に改め、武器を手渡す名誉も、年長の俗人騎士から祭式執行者たる聖職者へ移行する。このような変化は12世紀の中頃までにはほぼ達成され、騎士叙任式の古いゲルマン的慣行は今やキリスト教の秘蹟に転化し、キリスト教騎士としてのモラルや作法も定着するにいたる。ゲルマン戦士の好戦的本能も「戦争と信仰の一致」ないしは「聖戦」というスローガンで合理化される必要があり、その典型的が十字軍の運動であった。十字軍は西欧各国の騎士の相互接触、キリスト教騎士団の結成を通して、騎士道文化の形成を促す結果となった。
 騎士道の最盛期を現出した13世紀には早くも俗化と衰退の兆候が表れている。それは宮廷風恋愛amour courtoisに見られるような西欧文化に芽生えてきた女性の影響によるだけではない。十字軍時代に生まれた多くの騎士団がしだいに草創期の求道的性格を失ってセクト化し、党派的利益の追求に走るようになったことも作用している。しかし、それよりも重要なことは、中央集権化の政策に乗り出した国王や大諸侯が彼らのみ奉仕する直臣層を騎士階級に求めるようになり、そのため騎士叙任権の独占を図ろうとしたことである。
 他方、このころになると、騎士系の子孫ではない者に社会的上昇の道を閉ざす騎士身分の封鎖化の傾向も顕著になり、世襲特権階級としての貴族が形成されつつあった。この世襲の原則を破りうるのは君主のみで、君主は自らの政治的・経済的目的に見合うような者をその戦士としての適格性にかかわりなく、騎士身分に取り立てることができた。その代価として献金を要求するのだ(売官制度)。
 中世末期における戦術の転換がこの傾向に拍車をかける。重装備の騎兵にかわって歩兵や弓兵の意義が増し、さらに火砲の出現が騎士隊の戦術的役割を無価値にしていく。領主財産の危機に瀕して没落した古い騎士系貴族に代わって、アンシアンレジームのフランスに見られるように、高等法院や会計院などに席をもつ官職ブルジョワの新貴族が台頭してくる。こうして騎士制度はもはや武人としての能力や資格の問題ではなくなり、世襲により引き継ぐべき特権と化した。旧貴族も新貴族のいずれも特権身分をもつ貴族であって、その差異は速やかに消失した。
 
【騎士の生活】
 騎士の家に生まれた男の子は一定の年齢になると騎士見習いとして騎士修行を始める。見習いたちは主君や親族の騎士の家で剣と槍などの武具の扱い方を覚え、同時に馬の世話をしながら馬術も習う。また、騎士としての礼儀作法を幼いころから身につけることも見習いにとって重要なことであった。
 これらの修業をつづけることで、騎士見習いたちは盾持ちから従騎士への階梯を昇り、その後、騎士叙任を経て騎士の仲間入りを果たす。ただし、騎士見習いのすべてが騎士になれるわけではなく、盾持ちや従騎士として生涯を終える者も多くいた。というのは、イングランドやフランスの場合、騎士になるには封土が必要であり、封土をもたない者は騎士に成れなかったからである。かくて、騎士の家に生まれた長男は騎士になれたが、次男、三男は騎士になれる可能性が少なかった。次男は聖職者になるための教育を受けることが多く、それ以外は王や伯に給養される家中騎士となり、裕福な未亡人や女子相続人と結婚することによって封土の獲得をめざした。
 騎士になる者は叙任式で騎士の力の象徴としての剣を授けられた。また、この儀式は主君と新騎士が主従関係を結ぶ場でもあった。騎士となった若者は主君に手を出し、その差し出された手を主君が包み込むことによって両者の間に主従関係が結ばれるのである。この行為を托身という。
 騎士の仲間入りを果たした若者は、父親が健在の場合は主君の城塞に住み込んでいた。父親が死去ないしは隠居したのちに家の世襲封土を相続し、その所領経営と軍事訓練に専念することになる。ただし、騎士たちはつねに領地で暮らしたのではなく、戦時には主君と共に戦場に行き、平時にも一年のうちの一定期間は君主の城塞の守備の義務を果たした。さらに、平時にはレクリエーションと実践練習を兼ねて馬上槍試合に参加したり狩猟を愉しんだりしていた。
 戦場において騎士は勇敢であらねばならなかったが、勢い余って残虐な行為に走ることも少なくなかった。中世ヨーロッパの戦争では身分の高い者は捕虜にされ、高額の身代金と引き換えに釈放された。それとは対照的に身分の低い者つまり屯田兵たちは捕虜にされることはなく、その場で不具者にされるか惨殺された。カネにならない捕虜をかかえることは経費の無駄となったのだ。そうした惨殺の中心になったのが敵方の騎士であったのはいうまでもない[注]
[注]「騎士の鑑」と呼ばれたリチャード獅子心王でさえ、十字軍の途上でムスリムの大虐殺をおこなっている。尤も、当時の価値観からすれば異教徒の虐殺は立派な行為とされた。
 
 戦闘の終わった戦場で死体から鎧や剣、馬などを盗むのは日常茶飯事であったが、騎士の残虐性はそれにとどまらない。戦争において戦時物資は現地調達に頼っていたため、彼らは戦場近隣の村々を略奪して荒らしまわったのである。
 14世紀後半になると、従来のような、封建的軍隊における騎士は廃れる一方だった。それに伴い戦術も転換する。それは、英仏百年戦争でのクレシーの戦い(1346年)やポワティエの戦い(1356年)においてフランスの騎士がイングランドの弓兵の前に敗れ去ったことからうかがえる。我先に斬り込むフランス騎兵は迎え撃つイングランド弓兵の矢に前進を阻まれた。とはいえ、イングランド軍の主力をなしたのはあくまで騎兵であった。
 
 
 3.騎士道精神の成立
1030年ごろ、ランLaonの司教アダルベロンは中世社会の構成を譬えて「祈る人、戦う人、働く人」の3つのカテゴリーで説明した。12世紀になると、この「戦う人」に騎士という新しい武人が付け加わる。
この騎士は、それまでは見られなかった色合いを帯びる。キリスト教の聖戦思想の発達と結びついた「騎士道精神」なるものがそれである。そもそも隣人愛を説き、復讐法原理や武力行使を否定したイエスの教えに従うと、戦争はもともと認められるものではなかった。しかし、古代のローマ帝国の国教となり国家統治の精神的支柱となった皇帝の戦争遂行を正当化せざるをえなくなった時から、キリスト教は暴力の行使を必要悪として承認するようになった。むしろ異教徒や異端との戦いは神の是認する「正義の戦争」であり、それを遂行する者は「神の戦士」とされた。この理念は十字軍運動で勢いを増し、ヨーロッパ全体に浸透していく。
また、騎士叙任式もキリスト教的な色彩が濃くなっていく。騎士叙任式は告解と祈祷、聖体拝受、武具授与と頸打ち、祝宴などから構成される。告解と祈祷、聖体拝受、は明らかにキリスト教的な要素がみられる。このような儀礼を通して、騎士にキリスト教の戦士としての理念が植えつけられたのだ。
騎士道精神の成立に重要な役割を果たしたものとして、騎士道文学の普及と吟遊詩人の活動が挙げられる。「ローランの詩」に代表される武勲詩やクレティアン・ド・ドロワの「ランスロー」「ペルスヴァル」などの俗語文学が現われた。有名な「アーサー王物語」もその一つである。各地を巡歴してこれら作品を詠んだ吟遊詩人たちは南フランスではドルバドゥール、ドイツではミンネジンガーと呼ばれた。こうした武勲詩や俗語の口承文学は共通して武勇や忠誠といった騎士の徳目を称揚し、騎士たちに好まれた。
さらに、12世紀の宮廷で発達した礼儀作法は騎士たちが愛する貴婦人に仕え、彼女らのために戦うといった宮廷風恋愛を生みだした。ここにおいて、キリスト教会を守り、主君に忠実に仕え、戦場において勇猛果敢に戦い、婦人を敬愛するという騎士道精神が誕生するのである。この騎士道精神は騎士たちだけでなく、王侯貴族のあいだにも根強い人気を博した。
 この騎士道精神は前述のような戦場における騎士の残虐性を減じるものではなかった。むしろ、騎士道精神はゲルマンの好戦性にキリスト教が妥協した所産といえる。とはいえ、王や諸侯もシャルルマーニュやアーサーに倣って勇敢に戦い、教会と貴婦人を守る立派な騎士たらんとし、また、ローランのような優れた騎士を家臣とすることを理想に掲げた。たとえば、イングランド王エドワード三世が1348年に創設したガーター騎士団はアーサー王と円卓の騎士に因んだものである