武士道と騎士道 (その4) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

Ⅱ 武士道と騎士道
は じ め に

世界中の人々は「サムライ」という語とその意味 サムライが日本の武士を指すこと を知っている。玄人筋の研究者は「武士」の呼称を使い、素人筋は「サムライ」の呼称を好んで使う。そして、玄人・素人の別を問わず、彼らはちょん髷、2本の脇差「ハラキリ」を武士またはサムライと結びつけて考える。

日本武士の指揮官はふつう高地に陣取った陣幕の中に籠りつつ、戦場から伝令が寄こしてくる情報をもとに作戦指揮を執る。指揮官が騎乗するのは、勝利後の追撃戦または敗北後の退却戦で直接的な指揮を執る場合に限られる。戦闘に際し平武士は下馬して群れを成し、敵に対し槍または剣を振り翳して戦う。大将の首をとったら、それで勝負はついたことになる。敗れた側は散り散りになって逃亡する。
 西欧の騎士も同じく世界でおなじみの存在である。彼らは鎧・兜・胸当てなどで完全武装し馬上に乗っかり、槍、剣、盾をふり翳して闘う。対決の基本は一対一の騎乗の戦いであった。やがて集団での騎馬戦が通常の戦いのタイプとなる。騎士には必ず彼を援ける従者が付く。従者は攻撃にも、主人たる騎士防御にも従事する。戦闘の結果、大将が斃れてもそれで勝敗が決するわけではなく、大将の跡を継いだ副将が指揮を執って戦いは続行する。
 武士も騎士も勇猛果敢であることを金科玉条とし、怯懦と卑怯を厭い、敵に後ろを見せることを最大の不名誉、恥辱と見なす。自己犠牲や率先垂範が指揮官として欠くべからざる資質と見なされる。
 武士、騎士ともに軍事的勤務を専業とする身分に属しながら残虐非道にブレーキをかけるといった、ある種の倫理観を保持し、気品と教養を蓄えた階層を形成する。こうした共通性をもつ日本武士と西欧騎士はしばしば比較され、どちらも後世の人々から尊敬されると同時に、彼らに人間としてのあり方の範を垂れてきた。それゆえに、日欧における倫理や文化規範において似かよった面が多々あるのである。かくて、武士道と騎士道を比較することによって日欧文化の異同に迫ることも可能である。
 ここでいちばん大切なことは、武士も騎士も封建制のもとで生じた独特の階層であることだ。裏返し的にいえば、封建制なくして武士も騎士も存在しなかったこと、このことを再確認しておきたい。部族の酋長と、彼に隷属する者との関係ではないし、近代国家の独裁者のもとで命じられるままに動く戦争機械の人間とは違うのだ。
 
 
1.武士道
【はじまり】
サムライ(武士)が発生した当初から、武士道の中核思想の「主君に対する忠誠」という意識が特に高かったわけではない。なぜなら、中世期の主従関係は主君と郎党間の契約関係であり、「奉公とは御恩の対価」とする考え方があったからだ。奉公と御恩の相互的関係がうまく機能しないときは、奉公人を解雇したり、主君のもとを去ったりする〔これを「逐電」または「出奔」という〕のは日常茶飯事であった。この意識は少なくとも室町末期ごろまで続き、後世に言われるような「裏切りは卑怯」「主君と生死を共にするのが武士」といった考え方は主流ではなかった。すなわち、体系づけられた「武士道」はまだ確立していなかったのである。
江戸時代の元和年間(161524)以降になると、朱子学の影響を受けた山鹿素行らによって新たに「士道」の概念が確立された。これによって初めて、儒教的な倫理の「仁義」「忠孝」などが、武士に求められる規範となった。山鹿素行が提唱した士道はこの後多くの士道思想家に影響を与えることになる。
享保元(1716)年ごろ、「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」の一節で有名な『葉隠』が佐賀藩の山本常朝によって著された(筆記は田代陣基)。これには「無二無三に主人に奉公する」とあり、観念的なものに留まる「忠」「義」を批判するくだりや、藩政批判などもあったせいであろうか、この『葉隠』は禁書に付され、広く読まれることはなかった。
幕末の万延元(1860)年、山岡鉄舟『武士道』を著した。それによると、「神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降専ら武門に於て其著しきを見る。鉄太郎(鉄舟)これを名付けて武士道と云ふ」とある。山岡鉄舟の認識では、武士道に通じる精神は中世より唱えられていたが、自分が名づけるまでは「武士道」とは呼ばれることはなかったことになる。
 
【明治期以降の武士道解釈】
 明治維新後、四民平等の布告により、武士は「士族」の称号を名乗ることはあったものの、事実的には滅び去った。武士の独占的な職分としての軍事職が一般国民の前に開放され、彼ら専有の職業を失ったのだ。実際、明治151882)年の「軍人勅諭」では、国民の義務は、武士道ではなく「忠節」を以って天皇に仕えることとされた。
ところが、日本および維新政府が初めて体験した外戦の日清戦争の後となると、武士道が最評価されるようになる。たとえば、井上哲次郎に代表される国家主義者たちは武士道を日本民族の道徳と同一視しようとした。

そして、決定的な転換が新渡戸稲造の登場とともに訪れる。1899(明治32)年、新渡戸は病気治療のため滞在中のアメリカでBushido, the soulof JAPAN「武士道」”を発表した。彼はキリスト教徒の多いアメリカにおける高度の倫理観に感銘を受けると同時に、人種差別などの現実に衝撃を受け、それへの批判を込めて「武士道」を著したのである。つまり、この書を通じて日本人は日本独自の倫理観をもって進むべきことを示唆したのである。

新渡戸は、近代において人間が陥りやすい、根っこの個人主義に対して、封建時代の武士は(封建)社会全体への義務を負う存在として己を認識していたと指摘する。むろん、これは新渡戸の考えである。同時に、新渡戸にとって武士は国際社会において国民一人一人が社会全体への義務を負うように教育されていると説明するのに最適のモデルであったと考える。
そのため、彼の考えは正当視されるよりも、厳しい批判に晒されることもしばしばだった。すなわち、「武士道」から全体主義につながる思想が読み取られ、ようやく個人の確立を心がけることを自らの課題と掲げはじめた明治期のインテリにとって古い精神観の再現と映ったのだ。

新渡戸が問題視した日本の精神的土壌をどのように捉えるかは大きなテーマでありつづけ、武士道はその検証の一つとされている。正宗白鳥は短編の評論『内村鑑三』(昭和25<1950> 年)の中で、自分が青年期に出会った内村について心の琴線に触れる部分はあったが、概してその「武士道」の根太さが大時代的であるだけに、自分は彼を醒めた視線で見ていた、と率直に表現している。

新渡戸の『武士道』は版を重ね、また増補版が世に出たが、昭和131938)年に新渡戸門下生の矢内原忠雄の訳により岩波文庫版が出版された。
矢内原によれば、新渡戸の『武士道』は、外国人の妻にもわかるように、文化における花の違いにふれたり19世紀末の哲学や科学的思考を用いたりしながら、日本人は日本社会という枠の中でどのように生きたかを説明しているという。
島国の自然がどのようなものであり、日本独特の四季の移り変わりなどから影響を受けた結果、日本人の精神的な土壌が武士の生活態度や信条から醸成された過程を分かりやすい構成と言葉で読者に伝えている。たとえば、武士に倣う多くの日本人は自慢や傲慢を嫌い、忠義を信条としたことにふれ、家族や身内さえも「愚妻」「愚弟」と呼ぶが、これらは自分自身と同一の存在として、相手に対する謙譲の心の顕われであって、この機微は外国人には理解できないであろう、といったことも述べている。しかし、これは新渡戸独特の考えであり、もちろん、彼の思想を批判する書も相次いで出されている。
 
【近現代における武士道】
武士道は日本人の精神的な支柱ともなった。士道と商道のいいところ取りをした「士魂商才」という言葉も生まれたが、それは、ともすると拝金主義に陥りがちな精神を戒め、さらに商才を発揮することで消費者の心をつかみ理想的な経営者となることを表わした。
このような経営哲学・倫理は戦後における欧米においても発達し、帝王学〔人の上に立つ者がもつべき高邁な精神〕やノブレス・オブリージュ〔貴族たるものは進んで義務を果たせ〕に類似した規範も登場する。今や、企業の倫理が厳しく問われるようになり、儲け主義ひと筋のモラルでもって突き進むと、国民・消費者一般から思わぬ反撃をくらいかねない。かくて、自制的にして高邁な企業倫理の確立が求められ、それが経営者や戦略における欠かせぬ要素とさえなっている。
今や国際化の進展に合わせて「武士道」なる日本経営精神に対する必要性を掲げる者もいる。新渡戸稲造も祖父が商人として成功しており、商業倫理に関する言葉を残している。他にも渋澤栄一は彼が生きた時代に必要な武士道を説くなど、明治時代から大正時代にかけてデモクラシーの浸透した日本において実業に関する精神が唱えられ、日本的経営論の必須な背骨となった。