武士道と騎士道 (その3) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

4.日 本
【概念の混乱】
日本における封建制概念は一義的とはいえない。前にも述べたように、西洋の制度概念が入ってくる前に中国の制度概念が使われていたからである。かくて、中国の郡県制 vs 封建制という場合の封建概念と似た理解もあるし、ヨーロッパ中世の恩貸地を媒介とする主従関係に似た制度とみなしてこれを封建制とみる理解もある。
 しかし、今日の日本で最も広く普及している理解(マルクス主義の社会発展論)によれば、主従制にもとづく支配階級が自立的な小生産者の農民から年貢や賦役を収取することを基礎に置く荘園制を封建社会と呼び、その社会を規定する制度を封建制とみる。「土台の下部構造なくして上部構造はない」とみるこの見方に従うと、主従関係(上部構造)よりも領主=農奴関係(下部構造)を重視することになる。すなわち、主従契約が何であれ、直接生産者が支配者とのあいだに結ぶ関係のほうを重くみるのだ。かくて、日本では社会の上部構造と下部構造をひっくるめて規制する体系を「封建制」と呼ぶ
前にみた西洋において有力な見方に従えば、上記にいう上部構造を「封建制」、下部構造を「荘園制」といい、両者をひっくるめて「封建社会」と呼ぶのと対照をなしている。日欧間に差異はないとみることもできるが、敢えて広義の「封建制」を使うことに拘る日本での理解は依然として過去(唾棄・克服すべき遺制)に引っ張られているとみることもできる。日本の封建制論の面倒なところは、つねに西洋的な見方の強い影響を受け、軸足を徐々にずらしてきたため、そのせいで日本的封建制の独自性が曖昧模糊となったことである。
第二次大戦後の日本では戦前の軍国主義からの脱却と民主主義の徹底が緊急の課題となったため、民主化の対象と考えられたすべてのものについて、その歴史的由来とは無関係にすべて「封建的」という烙印が捺されることになった。こうした日常用語における混乱が学術用語としての「封建制」概念の多義性に少なからず影響を及ぼすことになった。
ところが、西欧では研究の進展の結果、封建制と荘園制の混同はなされなくなり、両者の相互依存関係や時期的重なりと分離の区分は正確になっていく。ヨーロッパでは封建制ないしは荘園制という事象そのものが過去のものとして時間的に隔たるにつれ、封建制や荘園制を焦眉の政策的課題から外れるようになり、そのことによって「良い」「悪い」の価値判断から自由となり、客観的分析が可能になったのである。
 
封建制と時代区分
 封建制が時代区分としての中世と切り結ぶ関係はどうだろうか。
ヨーロッパにおける古代・中世・近代という3区分法では、①奴隷制=古代、②封建社会=中世、③資本主義=近代は時期的にほぼ対応すると理解されている。
一方、日本では古代・中世・近世・近代という4区分法がふつうである。ヨーロッパと異なり「近世」をおく理由は、中世でもなければ近代でもない過渡期を措定しないと、日本社会の発展の過程をうまく描けないからである。ここで問題になったのは江戸幕藩体制である。これを中世とするわけにもいかず、近代の始期とするわけにもいかない。つまり、幕藩体制を引き継いで急激に西洋化(=近代化)を達成した明治政権の役割の評価に関連するからだ。幕藩体制を打倒した明治政権にすれば、江戸時代を封建社会に入れたほうがよかった。さりとて、江戸時代を中世とするわけにもいかない。だから、「近世」なのである。
よって、上記の四区分法に従う場合、中世と近世が封建社会に対応すると解するのが定説化している。厳密にいうと、古代の公地公民制は中央集権が機能しているため、これを古代のものとみて問題は生じないが、過渡期としての中世はひと筋縄にはいかない。中世の始期を鎌倉幕府の開府に求める説と、平安時代の後期に求める説とが対立している。
平安後期始期説に従った場合、この時代に封建制度がすでに広く展開していたとするには疑問が多い。封建になじまない自主地がまだ多く残っていたからだ。ここからしぜんに、鎌倉開府始期説のほうが有力視された。そもそも、「中世」という時代区分は現代から見た距離感や時代の全体的特徴を示す指標にすぎず、「封建制」というのは社会的制度の内実から判断する概念である。
 
【日本封建制の成立論争】
 1950年代に封建制成立の画期をめぐって「封建制成立論争」がたたかわされた。この論争の中で、封建制の成立を鎌倉幕府の将軍=御家人のあいだの主従制に求める考え方が批判され、荘園制における支配と生産の階級関係に着目することが唱えられるようになった。この問題は荘園制論争として別個に展開されるべきだったが、「封建制」と一緒に論じられたため、かえって混乱に輪をかけることになった。どのような説なのか。
(1) 荘園制下の農民は身分としては名主、小百姓などの階層差を含むものの、カテゴリーとしてはともに農民であり、それを支配する大土地所有者としての荘園領主は封建領主にほかならないという説。
(2) 荘園制下の農民経営は安定した生産力水準に達していず、家父長的な隷属にも似た関係を随伴する過渡的な性格を帯び、荘園制下の支配階級たる本家、領家、預所、下司などは知行の一形態であるとしても、軍役関係を欠く点で封建的主従関係とは見なしえないとする。14世紀以降に小農民経営の進展と、それを基礎とする農民上層の小領主化、それらと上級領主とのあいだにおける主従制の形成が見られること、などの理由から14世紀以降を封建制度の本格的展開とみる説。
(3) 太閤検地によって家父長的な奴隷制が最終的に否定され、小農民経営を権力基盤とする幕藩制社会が封建制として成立したという説。
 
【日本封建制の特徴】
 上記の小農民経営の成立という生産様式に基本的視点が据えられるのと並行して、権力論や国家論的視点が導入されることによって、日本の封建社会の構造的特質が抉り出されるにいたった。
(1) 中央集権性の強い律令制国家を前提として展開する日本の封建社会では在地領主層の自律割拠的な形成が困難で、中央集権が崩壊するのに長期を要した。
(2) 在地領主層による農民支配は、ヨーロッパに見られるような私的隷属身分としての農奴的形態を本格に展開させず、一律的な「百姓」身分の支配としておこなわれた。
(3) 前記2つの特徴と関連し、律令国家の中央支配階級としての寺社・公家が大荘園の支配者として中世全体を通して地位を確立し、鎌倉幕府もそれを温存させる政策を展開し、鎌倉時代を通じて公武権力の結合による集権的な国家体制が存続した。
(4) 在地領主層の領域支配が進行することによって大名領国の形成に向かうが、織豊政権と幕藩体制のもとでふたたび集権的政治・国家体制が強化された。
 以上の傾向を要約すると、日本においては概してヨーロッパのそれに類似した主従制が形成されたが、国家体制・身分制などの側面においては個別の領主制支配が国家的に規制され、集権的傾向の濃厚な封建制が展開したといえる。