武士道と騎士道 (その1) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

横浜市立大学エクステンション講座         平成29119
日欧文化比較あれこれ
第3回 武士道と騎士道
 
は じ め に
 なぜ「日欧文化比較」「武士道と騎士道」を取りあげるのか。日欧における武人(兵士)が支配階層に属して一身分を成していることと、彼らが戦闘に臨んでとる作法とにおいて他の文明社会には見られない特徴をもっているからである。共通性(とうぜん個別性もある)を軸に細かく分析を進めていけば、新たな発見に行き着く可能性がある。そこで、本稿を起こすにあたり、武人(兵士)について日欧に共通する要素[注]をまず挙げてみよう。
[注]ここで言う「欧」とは西欧を指す。兵士というものはいつの時代、どの社会にも存在するのだが、「武士」や「騎士」に比定されるべき兵士は封建制下の西欧と日本にしか存在しない。それゆえにこの時期における「日欧に共通する要素」にこだわるのである。
 
第一は、日欧共に専業兵士であることだ。つまり、農民・牧人などの直接生産者ではなければ、手工業者や商人ではなく、武力行使を生業とする者であることだ。むろん、ふだんは農作業に従事し、有事となればすかさず戦場に駆けつける屯田兵のような半農半兵もいるにはいたが、それは、武士や騎士が制度として未確立段階(過渡期)におけるものである。戦争が頻繁になり、攻撃法や防御法が高度になればなるほど、にわか仕立ての農兵では間に合わなくなり、兵士は徐々に専業化していく。よって、武士と騎士の特徴をいうときは「専業兵士」がふさわしい。
 第二は、武士または騎士を支える社会的基盤に相似性があることだ。つまり、武士も騎士も共に封建制のもとにおかれ、法の定める規律に厳しく従うことを義務づけられていた。規律を無視しての武力行使はご法度とされ、違反した場合にはその度合いにより解雇、追放、死刑に処された。
 第三は、上記と関連するが、武士および騎士の歴史的出現が時期的に限定されていることだ。すなわち、ともに中世に存在した身分である。古代における公地公民制に基盤をおく自由人の義務的な皆兵制度が崩壊したのち、異民族侵入が相次ぎ[注1、古代奴隷制国家が危殆に瀕するとともに、その危機を回避しようとして私兵(親分子分関係)が生まれ、それが徐々に制度化され、公的な性格を帯びていく。つまり、武士も騎士も中世の幕開け期に形成されたのである。時期的にいえば910世紀のことである[注2。武士と騎士の始期は同じだが、衰退および終期には違いがある。
[注1]ヨーロッパが絶え間なく異民族侵入の波を浴びたのに対し、日本は例外的にしかこれを経験しなかったが、それでも、7世紀後半の朝鮮半島からの撤退(667年の白村江の戦い)、13世紀末の2度に及ぶ蒙古襲来(1274年と1281年の元寇)の衝撃は国のあり方に甚大な影響を与えた。
[注2]ただし、その存続期間は日本では長く、19世紀までおよそ1千年も続いたが、西欧ではせいぜい数百年しか続かなかった。日本では強力な政権の登場により国内の治安が乱されなかったが、後者(西欧)では民族対立、宗教的対立、商工業階級の登場により世俗勢力の国権闘争の熾烈化で国内の治安が絶えず脅かされつづけた。ヨーロッパで封建軍制を引き継いだのは傭兵制であり、絶対主義国家の登場により国家常備軍となったのである。ここでの兵士は人間の姿をした一種の戦争機械になっていく。「騎士」が具有した精神的な部分はすべて王権の代弁者としての国軍最高司令官の意思次第となってしまう。
 
第四は、武士と騎士は封建制のもとにあると同時に、その封建制の拠って立つべき基盤が荘園制(領主制または農奴制ともいう)にあったことだ。封建制は単独では存立できない。その基礎に荘園制を据えることによって初めて、兵農分離と専門兵士の育成が可能となったのだ。すなわち、武士や騎士が生産活動に従事しなかったのは、荘園において肩代わり的に生産活動に勤しむ農民がいたからである。
第五は、武士や騎士が武力行使をするといっても、山賊や海賊のように向かうところかまわず殺戮・盗奪・破壊をほしいままにするのではなく、一定の目的をもち、秩序だった行動をとることだ。彼らの武力行使の目的をひと言でいうと、都市、国(邦)、領土をめぐっての争奪である。その結果は人間および財産の所有権の移動を伴う。それを目的に掲げるかぎり、むやみやたらな破壊や殺戮は極力避けるほうが理に適う。
 第六は、武士や騎士という専門兵士の存在が特別の社会的な結果をもたらしたことである。それは成員に契約や規則の遵守(遵法精神)を強制し、話し合いによる紛争解決や平和存続をもちかける姿勢をとらせる。紛争の処理を力と力のぶつかり合いに委ねると、決まって大規模な戦闘につながり、それがもたらす人的・物的被害が甚大になるだけでなく、その後遺症は幾世紀にも及びかねない。勝者とてこれを免れることができなかった。したがって、できるだけ財と生命を倹約するかたちでの紛争処理が望まれたのである[注]
[注]戦闘被害を極大化させたのは戦闘の長期化と武器の不断の改良である。日欧を比較すれば、欧のほうが深刻だった。その理由は民族、国家、宗教(異教と異端)の力関係がつねに不安定であったことと、亜大陸のつねとして三方が海に囲まれているという地政学上の特殊性があってどの国も不断の軍事的革新をなしえたからである。かくて、ヨーロッパ全体を支配する強大な権力は一度として出現しなかった。
封建制を生み出したその条件そのものが不断に変化し、ついには戦闘行為の節約を保証した封建戦争の枠組を突き破り、各国が中央集権体制を敷いて軍拡を図り、民・百姓までを動員するようになってから殺戮と破壊は極大化した。その草分けとなったのがフランス革命時の国民皆兵原則であり、その極致が両次大戦における国家総力戦である。
   一方、西欧との比較で日本はどうであったかというと、島嶼を支配する中央集権国家がひとたび出現すると、国全体が平和になり、軍拡は生じなくなる。国民間の利害軋轢を促す要素が少なかった。しかし、19世紀半ばの開国以後となると、列強の登場により否応なしに軍事的な対応を迫られた結果、西欧と同じ運命を辿るにいたる。
 
 武士も騎士もとっくの昔に姿を消したのだが、それら支配階層の一部として社会をリードした足跡と彼らが遺した精神は今なお日欧の社会に根づいている。それゆえに、21世紀にこれを取りあげる意味があるのだ。
 
 

Ⅰ 封建制

1.用語の混乱
武士とか騎士という場合、これらが拠って立つべき社会制度ないしは社会構造を抜きにして論じることはできない。そこで、武士と騎士の双方が基盤とした「封建制」を先に論じる必要がある。
「封建制」は扱うにきわめて厄介な概念である。この語の語源は中国にあり、ここでは郡県制度との対比において周代の国家体制を指した。わが国日本ではこれを参照して「封建」という語が使われたが、それはもともと近世の幕藩体制を指した。しかし、明治以降、欧米の学問が輸入されるに及び、いち早くそれらの国家体制と西欧中世のfeudalismとの相似性が着目された結果、feudalismに対して「封建制」という訳語が当てられることになった。今日では西欧の事象に関するかぎり、「封建制」という語が用いられる場合、feudalism の訳語と考えてよい。
 「封建制」という語はきわめて多義的で、それらを峻別して事に臨まねばならない。「封建制」は大別して少なくとも3つの用法がある。
  「封」の授受を伴う主従関係を指す(狭義の封建制
  荘園制(領主制または農奴制ともいう)を指す
  「封建制「荘園制」を区分したうえ、両方を構成要素とする社会総体を指す(広義の封建制
結論を先取りすれば、上記③に示される封建制と荘園制をもつ点で日本と西欧は似ている。したがって、日欧に関するかぎり、「封建制」「荘園制」を概念的に異なることが意識されていれば、何も問題が生じることはない。とはいえ、両制度がもたれあいつつ永続したため、日欧においても長いあいだ混同され、その超克をめぐって少なからず研究上の混乱が生じた。
狭義の封建制(上掲の)とは、簡単にいって、主人と従者の支配層のあいだの支配と従属の関係を指す。主人は従者を保護し、従者は主人のために平時は相談事や行政の仕事を、有事には軍事的な義務を果たす。一方、荘園制(上掲の)とは、領主と農民のあいだの保護・貢納の関係である。武士または騎士が領主として農民を支配するのである。農民は専ら生産活動に従事し、収穫物のうちから一定部分を税として領主に納める。要するに、封建制は支配層間の関係、荘園制は支配者と被支配者の関係と考えてよい。
ところで、上記①と②の混同にはくれぐれも注意しなければならない。つまり、封建制=荘園制と見なすと、それが世界中に存在したことになり、封建制の地理的・文明的な意義が見失われてしまう。繰り返しになるが、封建制と荘園制が併存したのは西欧と日本だけであり、中国の封建制は氏族制の名残を濃厚にとどめており、西欧の封建制と比較するにふさわしくない。言うならば、氏族制と郡県制の中間的な形態である。中国の「封建制」は紀元前3世紀に早くも姿を消して郡県制に移行している。しかも、その封建制たるや氏族制の伝統の上に築かれたものでしかなく、いわば氏族制が変型して「中央集権」に近づいたみたほうがよい。
こういう理由で、中国にはもともと西洋風の封建制に比定されるような制度はなかったとみるほうが正しい[注]
[注]日本でいう「封建制」は中国において古くから用いられていた語を転用して日本に実在する制度に当てはめた。その後、日本の封建制が西洋のfeudalism の類似物であることがわかると、今度は中国の封建制と西洋のfeudalismの異同に関する研究が始まり、この過程で後々に扱うに厄介となる混同が生じた。再三いうように、feudalism を中国の封建制に擬えるには無理があったにもかかわらず、すなわち、本来は氏族制の変形としての疑似中央集権制(=中国の封建制)が西欧風のfeudalism の仲間入りを果たしてしまったのだ