三 地下のパリの歴史(講演版 2) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

2.パリ油田
 
掘り抜き技術の発達に関連して石油について少し触れておくことにしよう。詩人 Jean Giraudoux (1882-1944) が詩篇“La Folle de Chaillot”(1935)の中で、パリは石油を産すると予言したことがある。地質学者はこれを否定したが、1954年、それこそパリ市中ではなかったが、はたしてパリの東近郊で石油が噴出した。鑿孔(ボーリング)技術の発達のおかげで深度は2,000メートルを超えるようになっていた。1953年には2,300m、翌年には2,600メートルの新記録を打ち立てた。1953年の時点で、総延長100kmを超える試掘が行なわれていた。
その翌年の1954年にパリから50km離れた クーロムCoulommes で最初の油田が発見された。モー市より10km東に寄った地点である。深度1,875mであった。「パリ盆地は第二のテキサスになるか?」、と人々は色めき立ち、試掘に拍車がかかった。石油だけでなくガス田にも期待がかけられた。1958年1月22日、クーロムで30基の採油櫓が立ち、その年だけで10万トンがバス=セーヌの精油所に運びこまれたイメージ 1。埋蔵量は200万トンと見込まれた。
その3ヵ月後、 モンタルジMontargis 市の東郊の シャトールナールChâteaurenard でも油田が見つかった。この油田鉱脈は北のほうへ長く伸びており、期待がもてた。後者は年産16万トンを産出した。同年10月27日、ムランMelun 近郊のシャイイ=アン=ビエール=シャトレットChailly-en-Biere-Chatrette で12キロメートルの長さの油田がみつかった。これは0,850度という例外的な純度をもっていた。シャイイに60基以上の櫓が立てられ、年産10万トンに達した。この油田はクーロム油田と同等の値打ちがあった。そのほか、油田が見つかったのは セーヌ=エ=マルヌ県のヴィルメールVillemer (4万トン)、ヨンヌ県のサン=マルタン=ドゥ=ボスネー Saint-Martin-de-Bossenay (11万トン)で、1962年に60万トンのナフサを産出した。
かくて4つの石油会社が興され、パリ盆地の真只中にパイプラインが引かれ、セーヌの支流とその運河を小型タンカーが走るようになった。その後も9基のボーリング機械が試掘を継続している。パリが石油を産するなんてだれも考えなかったために、問題がいくつか生じた。そもそもその所有権は誰に帰属するか? が第一の問題。七月王政下で国内の地下資源はすべて国家に帰属することが法律で定められていたが、採掘権のみが企業に与えられた。そして、市町村と県に税を納めることも決まった。第二の問題は試掘の費用である。それは巨額で個別の企業で賄えなかったため、国家が助成金を出すことになった。試掘にせよ、採掘にせよ、当該土地の所有者との利害得失を調整する必要もあった。これも補償と買取りという形で処理された。
  面倒な問題は、森林(とくにフォンテヌブロー)を狩場とする猟師たちをはじめとする自然保護派から生じた。試掘は1 ha当りの森林伐採を必須とし、ダイナマイト音のために鳥獣が棲めなくなるというのだ。1964年、ヴェルサイユの高裁に訴訟が持ち込まれた。裁判所の判断はこうだった。「人の居住地区では少なくとも50m以内では試掘と採掘は許さないというものの、それ以外では森林を含め、試掘はできる」、と。パリは油田地域と指定されたが、なおも応酬はつづく。反対派は言う。「ノートルダム大聖堂またはコンコルドの地下に資源が見つかったとすれば、諸君はボーリング機械を設置するというのか?」石油開発企業者の一人は落着いた声で答えた。「然り、採掘法はわれわれに完全に権利を付与しています。そこの家屋は50m以上離れているのですから」、と。