選挙結果からみえる、政党政治衰退の危機 ~松田まなぶの論考~ | 松田学オフィシャルブログ Powered by Ameba

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日本を夢の持てる国へという思いで財務省を飛び出しました。国政にも挑戦、様々な政策論や地域再生の活動をしています。21世紀は日本の世紀。大震災を経ていよいよ世界の課題に答を出す新日本秩序の形成を。新しい国はじめに向けて発信をしたいと思います。

選挙結果からみえる、政党政治衰退の危機 ~松田まなぶの論考~

 

●民意が十分反映されにくい日本の選挙制度

 今回の総選挙、結果は自民党の圧勝、与党で3分の2の維持でした。野党第一党の民進党が、希望の党、立憲民主党、無所属グループへと3分し、選挙区で一人しか当選できない小選挙区制のもとでは、ほとんどの選挙区で自民党候補が勝つことになりました。

 新党の風は、希望の党には吹かず、「排除」発言でむしろ逆風となり、立憲民主党に風が吹きましたが、同党は十分な数の候補者の擁立が間に合わず、政権交代どころか、逆に、安倍一強の自公体制の継続を追認する結果となりました。

 そもそも、筆者自身が経験したことですが、第三極として「風」に期待する新党は非常に難しく、やはり小選挙区制は二大政党でなければ勝負にならないものです。

[第1図]

 特に日本の場合、共産党が主要政党の一角を占め続けています。仮に保守vsリベラル革新を政治の対立軸だとすれば、保守に対抗するためといっても、リベラルに共産が入るということにはアレルギーが強く、リベラルがなかなか対抗勢力としてまとまりません。

 そもそも、利益、利害、価値観が多様化している社会にあっては、民意を的確に反映するのは多党制だという指摘もあります。それを二つのブロックにまとめようとするから無理が生じるという議論です。

 他方、小選挙区に比例を並立させるという中途半端な制度であることを問題視する議論もあります。つまり、比例で大きく議席を取る共産党が存在する限り、小選挙区でも共産党はリベラルの票を食う存在として脅威になりますが、単純に小選挙区だけにすれば、共産党は音を上げてリベラルにつき、良い中道左派になるかもしれないという議論です。

 ただ、そもそも現行制度が作られた際に比例という仕組みが入ったのは、小選挙区だけであると人気投票になってしまう、真に国政に有為な人材が国政に入れるようにするためには、政党が「この人は」と思う人材を高い名簿順位にして確実に当選させられる仕組みを作ることが適当だという議論もあったからだという説があります。

 しかし、現状では、小選挙区に立候補した候補はほぼ全員が同一の名簿順位で比例との重複立候補となり、比例は、小選挙区で敗れた候補を惜敗率で救うための制度として使われてしまっていて、そうした意味での本来の趣旨は十分に活かされていません。

 確かに、選挙区で血みどろで戦っている候補者からみれば、名簿順位が上位にされただけで確実に当選できる比例単独候補者の存在は許せないということになります。それが現実です。

 小選挙区制のもとでは、選挙で勝って政権を取ることになった政党は、選挙区での得票率から按分した議席数よりも、実際の議席数のほうがはるかに多くなる傾向があります。民意の反映のされ方が、実際の民意よりも極端な形になるわけです。

 これは、そもそも小選挙区制が想定している二大政党ではなく、野党が多党化している場合に生じる現象といえます。小選挙区制の導入は、二大政党の間で政権交代が起こりやすい仕組みとすることが趣旨でした。

 そのもとで、選挙結果はドラスティックに、時の民意を受けた方の与党に多数の議席を与えることになります。複数の野党が並存していると、野党が一本化していれば当選していたはずの候補者が軒並み、当選できなくなります。今回起こったのは、この現象でした。

 これがもし、[第1図]にあるように、4人が当選する中選挙区だとすれば、分散した票が、その比率に応じて各党の候補者に議席を与えることになり、国政には民意がより正確に反映されることになります。

 与党も二人目の候補を当選させられる可能性が大きくなるので、ここに新規人材が参入できやすくもなります。与党候補者どうしで切磋琢磨もできることになります。

 小選挙区制になってから政界に国政を担うにふさわしい人材が少なくなったと、よく言われますが、小さな選挙区で過半の民意を獲得するために膨大なエネルギーを費やさなければ当選できないという現行制度の影響が大きいでしょう。何でもありのデパートのように過半以上の民意をつかむリップサービスをしなければ当選しませんから、特定分野で突出した、あるいは主義主張が明確な多彩な人材が、選挙区で10%の得票率でも議席を得るということは難しくなります。

 

●政党政治がうまく機能しないのはなぜか

 今回の総選挙は、大きく分けて、保守の「自民グループ」(自民+公明)、野党では改革保守とされる「希望グループ」(希望+維新)、リベラル革新に分類されている「立憲民主グループ」(立民+共産など)の「3極」が議席を争いました。それらが政権公約で掲げた理念は[第2図]のとおりで、このうち自民グループの理念を国民が支持した形になっています。

[第2図]

 ただ、どうも近年、政党政治そのものに対する不信感が国民の間で増大しているようです。その要因として、以下、4点を挙げてみました。

政党選択は未来選択になっていない。

 国政選挙の理想は、政党が日本の未来を競い合う選挙です。

 政策が法案になり、法律となって実施され、それが成果をもたらすには、通常、数年の期間を要するでしょう。政権が政権の座で、ある程度の一定の期間(例えば4~5年程度)、仕事をすれば、有権者は、その政権が前回の選挙のときにマニフェストで有権者との間で行った約束の実行状況や成果を評価しやすくなります。そして、それと比較して、他の政党が描く未来や政策との間での選択ができやすくなります。

 今回は、国会論戦すらしたことのない新党が生まれましたが、少なくとも、選挙までの間に与野党間で国会論戦が積み重ねられ、お互いの政策の練度が高まり、そうした営みが広く発信されてこそ、有権者には未来選択の的確な材料が与えられるといえるでしょう。

 解散は本来、有権者に問いかけられているような国論を2分するようなテーマがあるときになされるのが望ましいでしょう。かつての小泉郵政解散は、当時は強引と言われていましたが、郵政改革をめぐって国会運営が行き詰まり、政権が国民に問いたいテーマとしての大義名分は十分でした。

 日本も英国のように、解散権に歯止めを設けるべきだという議論が高まっています。その点では、「大義なき解散」として、今回、野党が解散権の自由な行使について問題提起したことには一定の意義があったかもしれません。そもそも政権交代を可能にするとしてなされた現行の選挙区制度は、英国をお手本にしたものでした。

 前述のような「マニフェストサイクル」の不存在もあって、今回突然、政権選択を問われた日本の有権者は、政策ではなく、雰囲気で投票している傾向が強かったといえます。

 「今の閉塞感を、『ゲームチェンジャー』なら打破してくれるのではないか。どこに行くのかわからないが、今よりはいいのではないか」という新しいものへの期待感が票を左右する傾向は、新党ができるたびに起こってきた現象です(かつては、みんなの党、かつては維新の橋下氏、今回は小池氏)。

 そこで、「排除」と言った途端に、雰囲気が一変すると、結果がこれだけ変わってしまうということが起こります。新党の候補者にとって、選挙は博打のようなものです。

 雰囲気が投票先を左右する中で、野党への投票は、与党の失敗があったときに与党を懲らしめるという意味での野党の選択という形をとることも多いですが、これは野党自体の魅力に基づく積極的選択ではなく、消極的選択ということになります。

 いずれにしても、今回の総選挙は、急ごしらえの野党のもと、とにかくバッジを維持したい、バッジがほしい人々の就職活動にように国民には映り、白けも蔓延したのではないでしょうか。結局のところ、前回総選挙に次ぐ低投票率になりました。

 解散の大義もわかりにくく、いったい何を選べというのか、何を問われているかについて、多くの有権者には実感が乏しかったようです。

 今回、選挙期間中に公表された言論NPOのマニフェスト評価の総括は、[第3図]のとおり、極めて厳しいものでした。

 

[第3図]…言論NPO政権公約評価の総括部分より、松田が抜粋

 本来、政権選択選挙で各党が競い合うのは、この国を未来に向けてどのような国にしたいのかを示す日本の設計図です。

 政党の間で異なる理念が掲げられ、そのもとに、その理念を実現する日本の全体システムの設計思想が示され、その設計思想のもとに、個別の社会システムの設計が示され、それを実現するための政策が提示される。

 この一連の体系の束をマニフェストとして示し、有権者は、どの体系の束を選択するかで投票する政党を選択する。

[第4図]

 しかし、今回も違った選挙になりました。掲げられた政権公約はどの党も総じて、近視眼的な分配政策でした。

…野党が就職活動なら、今は北朝鮮で国難だし、安倍さんには色々とあっても、外交の積み重ねがあるし、国際社会の信頼も厚いようだ、とりあえず継続して乗り切ってもらったほうがいい。野党は格差と言うが、自民党も消費税の使徒を変更までして社会保障や教育のことも考えている、野党もいまひとつ、魅力ある日本の未来を示しているわけではない、現状のほうがまだマシだ。…

 投票に行った多くの有権者は、そんな意識が強かったのではないでしょうか。

 本来は、前述のようなマジックで得票率以上にドラスティックに議席数が変わることを伴う政権交代を目指したのが小選挙区制です。有権者が政権選択を容易にできるための仕組みなのです。

 この制度のもとで、民主党が政権をとったときも、自民党が政権に返り咲いたときも、議長席からみて本会議場の右側からほとんどを与党が占め、立ち上がって総理に拍手を送る姿は、どこかの全体主義の独裁体制を彷彿とさせるものでした。

 しかし、これこそが小選挙区制が目指す強い政権の姿です。国民が選んだ政権なのですから、約束であるマニフェストをしっかり実行してもらうためには、強い政権でなければなりません。

 「安倍一強」が言われてきましたが、それはこの制度の当然の帰結だといえます。国民が選んだ政権の期間中は、議会や党内での民主主義を多少犠牲になっているように見えても、選挙での有権者の意思のほうを重視する。

 総選挙は、現行制度のもとでは、それぐらい重要な位置づけにあるのに、今回も、まともな選択にはならなかったようです。指導者を選ぶのが政権選択選挙なのに、希望の党は総理候補を明確にせず、国民は指導者の間での選択もできませんでした。

 政権公約も、急ごしらえの新党については評価が低いようです。マニフェスト評価を終えた言論NPOの工藤代表は筆者に、「自民党も含め全体に落第点の政党ばかりだったが、その中でも比較的まともだったのは、自民、公明、共産といった組織型選挙の政党だった。希望の党も立憲民主も政策面で政党の体をなしていなかった。新党はなかなか難しい。日本の政党政治は機能していない。」と述懐していました。

 

近代型政党ではない。

 小選挙区制のもとで野党への政権交代があるとしても、理念とそれを支える社会層なくしては、それは前与党に対する単なる批判に過ぎません。希望の党への入党条件は、民進党が唱えてきた政策とは全く異なっていました。

 政党は、政策を支持する民意と連携する中で、一つの社会的基盤を作っているはずです。それを捨てるようなことが平気で起こってしまいました。

 望ましいのは、日本の政党も近代型政党へと脱皮することです。

 それは、選挙は組織が担い、議員は国政に専念するという姿です。そうした役割分担ができるだけの、一定の理念に賛同する社会層をバックとした組織が選挙を行い、議員本人は、その理念を体現する政策を磨き、発信し、国民の理解を求め、政党や国会で政策の実現に邁進することのほうに力を注ぐ。

 そのような近代型政党の体をなしているのは、日本では公明党と共産党だけです。かつて、筆者が属していた次世代の党は、保守という枠組みにおいて、こうした近代型政党を目指しましたが、結党後間もない2014年の急な解散総選挙で、その機を逸しました。

 公明、共産以外の日本の政党は、自民党のような大政党でも根無し草のようなものだと言われます。つまり、個人が組織した後援会が集まり、そこから生まれた政治家が集合して政党が出来ているようなものです。「自民党とは自分党である」と言われる所以です。

 

新規人材が政界に参入しにくい。

 小選挙区になってから議員の質が低下したと、よく耳にします。特に自民党では、「二期生問題」が言われ、多くの国民から議員としての資質が問われることになった議員が目立ったようです。その二期生たちも、ほとんどが今回の自民党圧勝で三期生になります。

 今回、希望の党の場合は落下傘候補が多く、結局、地元に根付いた候補者以外は当選が難しいことも改めて証明されました。風に左右されない地元支持層が必要です。

 結局、親から地盤を受け継いだ二世三世か、働かなくても済むだけの経済的な余裕があって日ごろから地道に地元有権者との接触に専念できるような人でなければ、自ら背負うものを擲って博打をする人以外は選挙に出ることは難しいということになります。

 確かに、特に自民党では世襲議員が極めて多く、本当に民主主義の先進国なのかと海外の方々は驚くそうです。戦後70年を経て、日本も社会全体の流動性が低下しているのかもしれません。

 そうなると、各界で活躍する、世襲でもない人材が選挙に出るとなると、よほどの資力がない限り、これは博打になります。およそ国政を担うに足るだけの優秀な人材は、すでに各界で重要なポジションと責任を有しているでしょうから、いくら国政のためといえ、それを捨て去ることは困難なケースが多いと思います。

 結局、政界への人材参入は困難、新陳代謝は博打に出る人だけで起こるということになります。ドイツなどでは公務員が選挙に出て落選しても元に戻れる仕組みになっているようですが、日本もそろそろ、考えるべきときではないでしょうか。

 ちなみに、一度国会議員になった人は、落選すると、どこに再就職するにも困難が多いという現実もあります。

 また、現状では、政治に志を抱く優れた人材が、本来は与党自民党の政治家になりたくても、世襲で選挙区は一杯でなかなか入れず、不本意ながら野党から選挙に出ているケースも多くみられます。彼らの本音は自民党ですから、そもそも与党に対抗する明確な対立軸を創出する人々ではないことになります。これも、国会論戦が政権の失点を追及することに終始しがちになることの原因でしょう。

 いずれにしても、結局、国会議員にとっては選挙が全てとなり、国政よりも地元回りが最大の重要な仕事になっています。もちろん、政治が民意を反映することは極めて大事です。どぶ板で勝ち上がってきたということにも大きな意味はあります。

 ただ、筆者が衆議院議員をしていたときに議員仲間と話すと何かにつけて「うちの地元では…」の話題が多かったのは、いったい、どう考えるべきかと思ったものです。「あなたは本来、国政をするために選ばれた人なのではないか」と、思わず口に出したくなることもありました。

 自民党では、当選回数を重ねないと、「国政よりも選挙区へ行け」と言われます。それは、この地元から国政を担う人を、として選んだ地元有権者には、本来、失礼なことでしょう。

 

有権者の関心をそそる対立軸が見えない。

 この問題はより本質的です。もはや、保守vsリベラル革新、という図式では、民意をすくい上げ、的確な未来選択を果たす政治はできなくなっているのかもしれません。

 ちなみに筆者は、安倍政権の次なる日本のテーマを選択肢として提示する政治の樹立を目指しています。稿を改めて論じることにいたします。

 

 バッジほしさでの政党の離合集散にはピリオドを、それが選挙で示された有権者のメッセージだったとすれば、今回のドタバタ総選挙にも一定の意義があったといえるかもしれません。政治はこれを真摯に受け止めなければならないと思います。

 

松田まなぶのビデオレター、第72回は「選挙結果から分かる、政党政治の衰退」

チャンネル桜10月26日放映。