「私たちの未来を私たちが選ぶ社会」で「新たな国づくり」を~なぜ、いま「主権者教育」なのか~ | 松田学オフィシャルブログ Powered by Ameba

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日本を夢の持てる国へという思いで財務省を飛び出しました。国政にも挑戦、様々な政策論や地域再生の活動をしています。21世紀は日本の世紀。大震災を経ていよいよ世界の課題に答を出す新日本秩序の形成を。新しい国はじめに向けて発信をしたいと思います。

 安倍総理が2020年の新憲法施行を表明し、いよいよ憲法改正が動き出しそうな雰囲気になったのが今年のGWでした。

 9条をどうするかをはじめ、一般に挙げられている改憲の課題はさまざまですが、この際、現行憲法に謳われた「国民主権」の意味についても改めて問い直す改憲論議であってほしいものです。

  「権利と義務」と言われますが、従来、国民に平等に権利を保障する、そのために国家権力を制約するのが憲法の趣旨だと言われてきました。いわゆる「制限規範説」です。

 それにとどまらず、与えられた権利と均衡する国民の義務をどうするかが議論されるようになりましたが、私は、「義務」という言葉よりも、「責任」という言葉で「自立」を捉えることが望ましいと考えています。

 そして、権利と均衡する責任から、さらに、個々人の自由意思と参加によって、自らに与えられた権利と均衡する以上の責任の領域を社会に築いていく、そのような自立的な主体のあり方として「主権在民」を捉えてこそ、真に主権を行使する国民になるのではないか。

 これを基礎にして、これからの時代にふさわしい「新たな国づくり」を進めることが、日本がいわゆる「戦後レジーム」から脱却して、自国の未来を自立的に切り拓くことになるのではないか。

 そして、自国の歴史や伝統や文化を継承する国民共同体のあり方を謳う真の「自主憲法」にもつながるとのではないかと考えるものです。

 

私が理事長に就任する(財)主権者教育推進機構のキックオフシンポジウムが、4月9日に都内で開催されました。

 

 

この記事の最後に、それに関する短い動画を掲載しましたので、ご覧ください。

また、なぜ、私が主権者教育に取り組もうとしているのかについての私のメッセージは、次のとおりです。

 

【主権者教育の推進に寄せて】

松田まなぶ

 今年2017年は、現行憲法が施行されて70年を迎える年です。制定以来、一言一句変わっていないこの「世界最古」の憲法について、昨今、憲法改正の議論も盛んになっていますが、日本国憲法の基本理念として掲げられている主権在民・民主主義、基本的人権、平和主義といった柱は、人類普遍の価値として今後も生き続けるべきものでしょう。ただ、その理念を実現するための国のあり方については、時代の変化に合わせて国民が選択していく、そのような意味での改憲論議なのだろうと思います。

 この中で「国民主権」の意味も、改めて問い直し、時代に合った考え方を確立すべき時期に来たのかもしれません。国の安全保障でも経済的な繁栄のあり方の面などでも、ややもすれば米国依存と言われてきた戦後の日本に欠けてきたのは「自立」の精神だと言われます。国は国家の存立を米国に依存し、国民は自らの生き方を政府や企業などの組織に依存し、大事なことは他者が決める中で、長いものには巻かれながら自分は大過なく過ごせればいい。そこから政治も行政も企業社会にも、無責任体制が蔓延するようになりました。

 結果として、何か問題があれば政府の責任にする風潮の中で、社会の様々な課題解決が先送りされてきました。主権在民の本質は、決して政府の権力を抑制したり、国に何かをしてもらおうとすることにあるのではありません。一人一人の国民が自ら直面する課題に当事者として向き合い、社会のために自分は何ができるかを考え、課題解決の上で必要なことを国や行政に求めようとする主体的な営みにこそ、民主主義の真髄があります。

 「戦後システム」という言葉があります。それは戦時軍事体制がその目的を経済成長に変えた形で続いてきたともいえる中央集権官僚主導の仕組みのもとで、政府も民間も、縦割り産業別の組織中心社会を営んできた戦後日本の経済社会の姿です。しかし、経済成長とその成果の分配を軸に営まれてきた社会から、価値観が多様化した成熟経済へと転換し、世界がグローバル大競争の時代に入るに及び、日本が将来を切り拓いていくために迫られているのは、こうした供給者を起点に組み立てられた日本の全体システムの再設計です。

それは、供給者側ではなく、消費者側、ユーザー側に起点を置き、一般国民に価値を創造し、提供し、保証する仕組みへと、様々な社会システムを組み替えることを意味します。ここで主役になるのは、政府や企業などの組織ではなく、一人一人の自立した国民です。

 大事なのは自立思考です。自分の幸せとは何なのかを自ら考え、各自に与えられた人生において追求する価値を自ら選択し、創造していく。そのために自立した個人どうしが連帯することで結びつき、社会の課題解決につなげていく。そのような営みの中から、生き甲斐と新しい価値が生み出される時代になったのだと思います。

「公」(パブリック)という言葉があります。戦後の日本では、その担い手は「官」、つまり政治や行政だとされてきました。これからは「民」が自ら担い手となる「公」の価値こそが、日本の経済社会の軸になり、「官」はそうした「民」の力をサポートする側に回る。

 健全な民主主義を支えるのは中間層ですが、いま、欧米で格差拡大とともに中間層の崩壊が進んでいる中にあって、幸い、日本の中間層は未だ健在です。

 「課題先進国」という言葉があるように、人類共通の課題に世界で最初に直面することになった日本の最大の強みは、決してエリートの知識などではなく、一般国民の持つ課題解決力です。これによって目前の危機を克服することで、日本が各分野で世界一を築いてきたのは歴史が示すとおりです。

 21世紀は、そうした日本が生み出す日本ならではの課題解決モデルを、世界が必要とする世紀なのだと思います。ごく普通の国民が課題に向き合うことで、一人一人の生き甲斐や豊かさが実現し、世界に、そして次世代に誇れる「新たな国づくり」ができる。そのようなチャンスを迎えているのが今の日本だと思います。

 私は「主権者としての国民」の今日的な意味合いをこのように捉え、主権者教育は、そのような社会の主役としての自覚的な個人を育てることにあると考えています。

 現行憲法には主権行使のための「請願権」が規定されています。多くの国民がその存在すら知らず、政治や行政にもその受け皿が不十分な状況一つをとってみても、主権者意識の未成熟さがみられるのが日本の現状です。こうした意味で権利意識を醸成するのも主権者教育の役割かもしれません。

 確かに、日本には国民の権利が十分に保障されていない、むしろ侵害されているような社会問題の事例が多数あります。それで泣き寝入りするのではなく、主権者としての権利行使に目覚め、政府に問題解決を堂々と求めていくことも大事でしょう。

 しかし、同じ社会問題を斬る際にも、そのスタンスが、誰かを悪と決めつけて糾弾する、悪の是正を政治や行政に求めるということだけであっては、結局、政府依存ということになってしまいます。それでは「大きな政府」や社会主義につながるだけで、真の「自由」でも、真の主権者の姿でもありません。

 一人一人の国民が、ごく普通の幸福追求をしていく上で、その妨げになっているような、いかにもおかしな社会事象があれば、正すべきものは正していく。一人一人の国民が自覚を高め、あきらめずに、より良い社会を築いていく。そのために自ら課題解決の道を考えていく。政府への請願は、その手段の一つに過ぎないと考えてこそ、真の主権者が支える社会と健全な民主主義が実現するものと考えます。

そのために、建設的な提案を主体的に行っていく課題解決型のコミュニティーやフォーラムを、日本の各地に、そして各分野に生み出し、広く国民の参加と生き甲斐と価値創造の場としていく。そのような文脈のもとに、私は、新たな国民運動の展開を展望するような主権者教育を推進することに、微力ながら貢献できればと考えています。

 国民各自の人生の価値も、地域や社会のあり方も、国の命運も、決して与えられるものではありません。それは私たち自身が自らの決意で選択し、創り出していくものです。

 多くの皆さまのご賛同、ご協力、そしてご参加を期待しております

 

動画↓

アフターシンポメッセージ

 シンポの概要↓

主権者教育キックオフシンポジウムについて