阿闍梨に依って[学ばねばわからないように]するために隠し、不明瞭にして説かれた〜乱脱の風景 | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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明日はいよいよオイルBootCamp(毎月開催のアロマテラピーの連続セミナー)、そして明後日はBodyDesignBootCamp3期の第4講座です!(いよいよ最終盤に入ります!)

(日曜日はメンバーたちと一緒に丸一日セミナーに参加してきます!)

 

そして来週はいよいよシン・フェイシャルスクールが開校!!

 

というわけで、盛り沢山です!!

 

盛り沢山すぎる!

 

ハワイ大学解剖実習の告知と解剖直観速習スクールの告知は近日!!!

 

 

そんなわけで名人戦を観ていますが、藤井聡太さんにやったことのない振り飛車を強制した名局として残るのではないかと邪推しております。

 

 

ちなみに、映画『オッペンハイマー』を観ていると、異なる時間同士が呼応しているように感じるのではないかと思います(そういう演出ですが)。

 

 

ここで思い出すのはクリストファー・ノーラン監督のほぼデビュー作にして出世作であるメメントです。

 

 

 

 

 

妻を殺されたショックから10分間しか記憶が維持できない病気となった主人公の視点からの物語であり、我々も映画特有の超越的視点を持つことができず、ストーリーを終わりから始まりへと逆向きに映し出されるので、我々も過去の記憶を持つことができない仕掛けとなっています。

 

カラーパートとモノクロパートがあるのも似ています。

 

*『メメント』のタイムライン。赤線=カラーのシーン、青線=白黒のシーン。横軸:映画の時間経過。縦軸:物語内の時間経過。

 

本作品は、分割されたシークエンスが本来の出来事とは逆の順(新しい出来事順)から映し出されていく形式となっている。これにより観客は状況が把握できず、記憶の長続きしない主人公レナードと同じ視点から物語を見ることができる。また各シークエンス間には、より過去の出来事であることを表す「白黒のシークエンス」が短く挿入され、そこでは主に過去の回想を通して主人公の特殊な境遇が説明される。ただしこの白黒のシークエンスは、通常の時系列順(古い出来事順)に映される。実際の作品ではカラーのシークエンスと白黒のシークエンスが交互に映されていく。物語開始時点では両シークエンス間には時間的に隔たりがあるので一見繋がりを持たないように見えるが、物語が進むにつれ同じ時間軸上にあることが次第に明らかとなり、最終的に両シークエンスは連続した一つのシークエンスとして結合する。以下、便宜上「白黒のシークエンス」と「カラーのシークエンス」を分けて書き、内容は作品内で映される順番に書く。なお、本来の出来事の発生順に物語を知ろうとすれば、まず「白黒のシークエンス」を順に読み、次に「カラーのシークエンス」を終わりから段落ごとに逆上って読めば良いことになる.

 

 

今回のオッペンハイマーでは白黒のシークエンスがより過去ではなく、より未来であったことが少し混乱を招きます。

 

そしてアインシュタインとプリンストン高等研究所で会うシーンがTENETと同じように中間地点がEndingに来る作りとなっています(原爆開発成功と投下の直後であり、聴聞会と公聴会はこのあとです)。

 

Protagonist: But can we change things if we do it differently?
Neil: What’s happened, happened. Which is an expression of faith in the mechanics of the world. It’s not an excuse to do nothing.
Protagonist: Fate?
Neil: Call it what you want.
Protagonist: What do you call it?
Neil: Reality. Now let me go.

 

主人公:でも、やり方を変えれば変えられるのかな?
ニール:起こったことは起こった。それは世界の仕組みへの信頼の表れだ。何もしないという言い訳にはならない。
主人公:運命か?
ニール:好きなように呼んでくれ。
主人公:そうだな。お前はそれを何と呼ぶ?
ニール:現実(リアリティ)。では、俺を行かせてくれ。

 

 

 

c.f.【募集開始!】「起きたことは仕方ないが、何もしない理由にはならない」(映画『TENET』) 2020年09月25日

 

ちなみにオッペンハイマーが恐れたのは(テイラーが提唱したのは)、いわゆる核爆発による大気・海洋発火説です。

 

では、原爆が大気中で爆発すると、大気には何が起こるでしょう?(…)大気中には窒素があり、2つの窒素原子核が衝突し酸素と炭素になる核反応が起こる可能性があり、この過程で多くのエネルギーが解放されます。そんなことはあり得ませんか?(エドワード・テーラー)

 

テラーは、親しい物理学者エンリコ・フェルミからの問いかけを契機として核融合による爆弾の可能性についてマンハッタン計画に参加するよりも前から検討していた[11][12][13][14]。一般に、正の電荷を帯びる原子核同士は接近しようとしないが、原爆が中心部で作り出す高温、すなわち核が非常に激しく運動する状況ではその電気的な壁(クーロン障壁)を乗り越え接近する可能性がでてくる。こうして不安定な原子核同士が核融合し、より安定した核へと変わるとき、放出粒子は余った膨大なエネルギーを伴うこととなる。条件によってはそれによって温度はさらに上昇しさらなる核融合の引き金となる。これは化学反応における熱暴走 (thermal runaway) の核融合における対応物であり、熱核暴走 (thermonuclear runaway)[15]、あるいは単に点火 (ignition) と呼ばれる[16](以下、大気・海洋に対する文脈ではこの意味で「発火」とする)。これがテラーのスーパー、すなわち原爆によって重水素に点火する熱核兵器、水素爆弾の最初期のアイデアであった[17]。もし点火が可能なら、臨界質量に制約される原爆と異なり、理論上、燃料となる重水素が多ければ多いほどこの爆弾はいくらでも強力なものにできる[17]。

そして、これがオッペンハイマーの苦悩の原因となります。

余談ながら、この計算の検算をしてくれないかとアインシュタインにお願いしますが、計算は苦手だと断られます。その傍らにゲーデル先生がいます。

(いや、発火説自体は歴史的にも否定されているのですが、、、そういうことではありません)

 

オッペンハイマーはダイナマイト発見のノーベルと同じ轍を踏んだことに気付いたのです(ノーベル賞に関するジョークが最初の方に出てきますが、オッペンハイマー以外はほぼ全員受賞者です)。

 

いや、そもそもオッペンハイマーが原爆の父なら、母はアインシュタインでしょう(←意味不明)。E=mc²を導いたのはアインシュタインです。

当時、ドイツだけではなく、日本もまた原爆を開発していました。

 

アイアンマン扮するストールズが敵役のようですが、裏にはFBIのエドガー・フーバー長官がおり、赤狩りのジョセフ・マッカーシーがいます。

 

TENETの時間の流れにも僕らは混乱させられましたが、我々は時間の流れについてのパラダイムをそろそろ更新しなくてはいけない時期に来ています。

 

 

と書き始めたのですが、セッションに戻るので、「秘密集会タントラ」がらみで「乱脱」について紹介して、終わります!

 

 

何が言いたいかと言えば、教科書だけ読んでも分からないようにバラバラにランダムに書いているよ、でも、先生が教えてくれるとスッキリ分かるよ、という話です。

 

クリストファー・ノーラン監督みたいにバラバラだよ、という話です!

 

 

 この『秘密集会タントラ』の学び方について、ツォンカパ最大の弟子にして、ガンデン寺第三代座主ケートゥプ・ジェは、「秘密集会タントラ』の生起次第の注釈『一切タントラ王吉祥秘密集会の生起次第の悉地の海』(Toh No. 5481以下『生起次第の悉地の海』とする)の中でこう述べている。

 持金剛(じこんごう)は、根本タントラにおける生起次第の多くの部分を、阿闍梨(あじゃり)に依って[学ばねばわからないように]するために隠し、不明瞭にして説かれた。[根本タントラにある生起次第の]多くの部分は、タントラの同一箇所に示されず、前後すべてに散乱している。

 それらのものを、釈[タントラの]続タントラや『金剛鬢タントラ』などに随順して、ラマの口訣(くけつ)で生起次第の[内容説明の四つの区分である]四親近成就(ししんこんじょうじゅ)の意味全てを、[本行前の観想など]部分的な箇所も併せて知らねばならない。(『生起次第の悉地の海』fol.11B4~6)

 

 このように根本タントラは、不明瞭で前後も入れ替え、順番をばらばらにして書かれている。そのため、釈タントラを参照しながら、ラマに就いて学ばなければ、独習では理解できない構造になっているとするのである。
 日本の真言宗では『大日経疏(しょ)』の中で、記述内容の順番を入れ替えることで、弟子が阿闍梨に就かずに独習することを防ぐ"乱脱”という考え方がある。『大日経疏』の場合は、曼荼羅に関するほんの限定した記述に対してのものであるが、『秘密集会タントラ』は、独習では全く理解できないようにするため、全体が、この"乱脱”で構成されているという解釈である。

 このように根本タントラや釈タントラの中でバラバラになった内容を正しく理解するには、ラマに就くことが必要なのである。(pp.17-18)

 

 

ちなみにラマとは「単純にいうと、師を示す言葉で、密教では阿闍梨をさす」(p.18)のです。

 

これに関しても面白い説明が上述のケートゥプ・ジェからなされています。

 

 

ラマが示した口訣に随順したならば、先に分からなかったタントラの甚深なる意味が、たやすく理解できる助けとなるならば、最高の口訣と知るべきである。タントラ部[という]宝に存在する最も深い諸々の修行の要旨を、正しいラマの口訣によって理解するために、すべての点から、タントラの意味に通じたラマに喜んでいただいて、聞思に精進せよ。(同書 fols.7B6-8A4)
(p.19)

で、ラマ(阿闍梨、教師)にきちんとついて学ぶと、タントラの意味がすっかり分かるようになる、と。

 

ランダムに構成されているかのような教科書がスラスラ読める( ー`дー´)キリッということです。

 

すなわち、教科書がわざとランダムに構成されており、先生について学ばないと学べないようになっているよ、ということです(独学独習禁止なのです)。

これが大乗仏教と密教の違いなのです。

 

これは非常に良くわかります。

 

これは教師の権利保全ではありません。

どこまでも学習者のためのシステムだと僕は感じます。

 

 

逆に文章として分かりやすく構成すると、それは内実を裏切るのです。

 

と、偉大な錬金術師も言っていました。

 

違うかw

 

 

ソクラテスもブッダもイエスも共通点があるとしたら、著作を残さなかったことです。

意図的に残しませんでした。

書き言葉と話し言葉の違いを理解していたからです。

 

 

まあ、そんなわけで、また!