自動車が想像したものと異なる形で機能したからといって、自動車が実在しないことにはならない | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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アリスに向かってクイーンはこんな風に言います。

 

「わたしがあなたの年ぐらいだったころには、毎日三十分はお稽古しましたよ。そう、朝ごはん前に、ありえないことを六つも信じたことだってあります。」

 

これは非常によく分かる話しになってきたのは最近の話し。

 

子供の頃はナンセンスな話しだなと思っていたのですが、最近は「ありえないことを6つでも7つでも8つでも信じる」のが我々の仕事だと思ってきています。

 

「まだお稽古が足りないのね」とクイーン。「わたしがあなたの年ぐらいだったころには、毎日三十分はお稽古しましたよ。そう、朝ごはん前に、ありえないことを六つも信じたことだってあります。」(鏡の国のアリス(角川文庫))
c.f.「やってもむだです。」とアリス。「ありえないことは信じられないもの。」(鏡の国のアリス) 2017年03月20日

 

逆に自分の持っている価値観を徹底的に疑うことのほうが近道だと知ってきたところです。

自分にとってありえないことが、そしてそれを信じることが、機会の通り道だったりするわけです。

 

逆に自分の考え方に固執する人には脱出できません。

 

カルロ・ロヴェッリのこんな言い方が痛快です。

 

わたしの自動車が、想像したものとも、自分の頭のなかであらかじめ定義したものとも異なる形で機能したという事実があるからといって、わたしの自動車が実在しないことにはならない(カルロ・ロヴェッリ)
 
ジョンマクタガートの時間に関する有名な論文(『時間の非実在性』[永井均訳、講談社))の専門用語によると、これはA系列(「過去、現在、未来」というように時を組織だてること)が現実であることを否定するのに等しい。このとき時間的な決定の意味は、B系列(「〜の前、〜の後」というふうに時間を組織だてること)のみに還元される。マクタガートにとって、これは時間の実在を否定することを意味する。わたしに言わせると、マクタガートの視点は硬すぎる。わたしの自動車が、想像したものとも、自分の頭のなかであらかじめ定義したものとも異なる形で機能したという事実があるからといって、わたしの自動車が実在しないことにはならない 

 

自分が想像していたものと違う、

自分の頭の中で思っていたものと違う、

自分勝手にあらかじめ定義していたものとも違う、

 

それゆえに目の前の存在は実在しない、、、、というのは言い過ぎな気がします。

 

しかし、僕らは平気でそう推論してしまいます。

 

手放すべきは自分の勝手な妄想による想像や定義の方です。

しかし目の前の大きなチャンスの方を手放してしまいます。

なぜなら自分のちっぽけな頭の中との整合性が取れないからです。

 

自分との整合性が取れなくて結構、「そう、朝ごはん前に、ありえないことを六つも信じたことだってあります」とクイーンのように言い募れば良いのです。

 

むしろ僕らは自分の中の想像や定義との整合性が取れることを恐れ、そして自分を疑うことをデフォルトにすると良いです(それもまた過ぎたるは及ばざるが如しなのですが)

 

輪ゴムの両端を引っ張ったとします。

片方は現状、もう片方は理想の未来です。

ゴムはどんどん引っ張られていきますが、その限界に来るとどちらを手放すかの選択を迫られます。

我々は未来を諦めがちですが、諦めるのは現状です。現状を手放しましょう。

 

特に気功のような魔術的な力に関して、自分の想像や自分の定義と違うからと言って、否定はしない方が良いのです。というか、なんで否定することが可能なのか分かりません。脳は小さく、宇宙は広大なのです。

否定したくなったら、次のマントラを唱えましょう。いや、本当に。

 

わたしの自動車が、想像したものとも、自分の頭のなかであらかじめ定義したものとも異なる形で機能したという事実があるからといって、わたしの自動車が実在しないことにはならない(カルロ・ロヴェッリ)