この私に残された望みは、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげ、私を迎えることだけ | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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カミュの『異邦人』を読んだことはありますか?

 

 

新潮文庫の裏表紙にはこうあります。

 

母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画をみて笑いころげ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える。

 

判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日には大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望む。

 

通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、不条理の認識を極度に追求したカミュの代表作。

 

 

 

見事なまとめです。

 

もうこれだけで一冊読んだと同じくらいのサマライズ(要約)。

 

とは言え、このまとめはもちろん間違っていないのですが、小説を圧縮すると、グロテスクな違ったものに変化するという好例でしょう(決して、批判しているわけではなく)。

 

実際に彼の行為はそう見えるのです。

 

「陪審員の方々、その母の死の翌日、この男は、海水浴へゆき、女と情事をはじめ、喜劇映画を見に行って笑いころげたのです。」(p.120『異邦人』)

 

この行為の羅列だけを見ると、まさに「不条理」という気がします。死刑に処されても仕方ないほどに、と。

 

 

*本文と写真は無関係です!(いや、そうでもありませんがw)

 

 

 

 

しかし、丁寧に彼の言動を追うと、全く違う風景が見えてきます。

 

ちなみに、僕自身は個人的に(読書という体験はいつも個人的なものですが)、この主人公のムルソーが狂っているとも、理解できないとも、「不条理」とも思えませんでした。

 

正直に言って、人を殺したのは「太陽のせい」という有名なくだりも、さもありなんと思っていました。

 

私は、早口にすこし言葉をもつれさせながら、そして、自分の滑稽さを承知しつつ、それは太陽のせいだ、といった。廷内に笑い声があがった。弁護士は肩をすくめた。(同p.131)

 

彼は、他の人が理解できるような身振りや言い訳を拒否しただけだと。

 

 

というのも、親鸞はこう言っています。

 

 

わが心の善くて殺さぬにはあらず、また害せじと思うとも百人千人を殺すこともあるべし」(歎異抄)

(私の心が良いから、人を殺さないわけではない。また人を傷つけたくないと思っても、百人や千人を殺すこともあるでしょう)

 

 

 

カミュは『異邦人』の英語版に寄せた自序でこう書いています。

 

ムルソー(主人公)は人間の屑(くず)ではない

 

と。

 

 

これは同感です。

 

通常の論理的な一貫性が失われている」と思われるムルソーは、むしろ徹底的な一貫性に貫かれているのです(←言い方おかしい)。

 

 

ムルソーは

 

母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画をみて笑いころげ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える。

 

という人間です。

 

 

たしかに現代的な皮相的な理解であれば、鬼畜です(笑)

 

 

しかし、一方でカミュはこう書いています!(英語版の序文で)。

 

母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告されるおそれがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮らす社会では、異邦人として扱われるよりうほかはないということである。

 

非常に明快です!

 

しかし、我々は「お芝居を」します。

 

そうでないと、僕らが暮らす社会では、異邦人として扱われ、異邦人として扱われるということは、死刑を宣告されるということです。

 

「異邦人」のラストはイエスの磔刑を思わせます。

(多くの人は直感的にそう感じるのではないかと思いますが、それも故なきことでもないようです。詳しくは文末に)

 

すべてが終わって、私がより孤独でないことを感じるために、この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだった。

 

自分の処刑の日に、大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びを上げて、「私」を迎えるとはおだやかではないですが、愛の反対は憎悪ではなく、無関心と言ったカルカッタの聖女を思わせますね。

愛と憎しみはコインの裏表なのです(後述のピラトの夢とも関わりますが)。

 

このシーンは、一方で、ソクラテスも思い起こしますね。

 

 

人民裁判の際の彼の行動は、民衆を挑発し(いや、挑発するのはいつものことか)、むしろ死刑を望んでいるかのようでした(彼はいつものように正しいことを言っていたのでしょうが)。

 

 

 

 

余談ながら、Jesus Christ Super Starという傑作ミュージカルがあります。

 

その中で「ピラトの夢」という印象的なナンバーがあります。

イエスを処刑したのはたしかにピラトですが、実際には彼は処刑する気も、その理由も見つけられませんでした。しかし、民衆によって、行動を変えられたのです(いつの時代も同じです)。

 

しかし、ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。すると彼らはいっそう激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。

ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。

すると、民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」。(マタイ27:23−25)

 

*「この人を見よ(Esse homo)」ピラトがイエスを指して「この人を見よ」と言っているシーンですね。そしてこの「Esse homo」をそのまま使ったのがニーチェ

 

 

 

ミュージカル「Jesus Christ Suprestar」の「ピラトの夢」というナンバーは、実際はピラトの奥様が見た夢なのですが、ミュージカルでは、それをピラト本人が見たと脚色されています。

 

また、ピラトが裁判の席についていたとき、その妻が人を彼のもとにつかわして、「あの義人には関係しないでください。わたしはきょう夢で、あの人のためにさんざん苦しみましたから」と言わせた。(マタイ27:19

 

 

「ピラトの夢」というナンバーは「私はガラリヤの男(イエス・キリスト)に会った夢を見た」

I dreamed I met a Galilean)という詩から始まります。

 

 

 

 

そして盛り上がり部分でこう歌い上げられます。

 

And next, the room was full of wild and angry men.

They seemed to hate this man.

They fell on him, and then

Disappeared again.

 

(そして、荒々しく怒った男たちでいっぱいの部屋で、

男たちはイエスのことを

憎んでいるようだった。

かれらはイエスに夢中になり

そして失望させられることになった。)

 

 

このシーンが何とも「この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだった。」を思わせます(いや、全然違うんですけどね)。

 

 

イエスは決して(異邦人の)ムルソーのように望んだわけではないですが、少なくとも予言はしました。

 

 

イエスは言われた、「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。マタイ26:34

 

 

悲惨な結末に苦しみつつ、しかし、それが神の意志であるのであれば、喜んで受け入れようと決めていました。

 

「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。マタイ26:39

 

*「死せるキリスト」

*ブレラ美術館でこれを見たときは、足の傾きばかりが気になり、むしろ施術をしたくなりました。

 

 

ムルソーとイエスとソクラテスは、死に向かって急ぎ、そして自分が守るべき「真理」を守ったという点で似ているのです(親鸞も。親鸞は結果的には長生きでしたが、それは問題ではなく)。

 

 

カミュはこう書いています(『異邦人』英語版に寄せた自序)。

 

母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告されるおそれがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮らす社会では、異邦人として扱われるよりうほかはないということである。」(『異邦人』解説、p.170)

*まさに「異邦人」のタイトルの意味がここで明かされています。

 

 

こう続きます。

 

ムルソーはなぜ演技をしなかったか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。嘘をつくという意味は、無いことをいうだけでなく、あること以上のことをいったり、感じること以上のことをいったり、することだ。しかし、生活を混乱させないために、われわれは毎日、嘘をつく。ムルソーは外面から見たところとちがって、生活を単純化させようとはしない。ムルソーは人間の屑ではない。彼は絶対と真理に対する情熱に燃え、影を残さぬ太陽を愛する人間である。彼が問題とする真理は、存在することと、感じることとの真理である。それはまだ否定的ではあるが、これなくしては、自己も世界も、征服することはできないだろう(同解説pp.170-171)

 

われわれは日々、演技をしますが、それはわかりやすい自己を演じるためです。

「あなたにとってのエイリアンではないですよ」ということを示すために。

しかし、演じることで、われわれは自分を失っていきます。

それに気づかず。

 

そしてその成れの果てが、正常に見える司祭や弁護士や裁判長たちです。

しかし、一貫性が失われているのは、実は司祭であり、弁護士であり、裁判長なのです。

彼らは嘘をつき続けて、何が嘘であるかを見失ったのです。

 

その事実を突きつけるムルソーを嫌い、理解ができないことに怯えて、死刑に処すのです。

 

一見すると、狂っているようなムルソーこそが、実は一貫しているのです。

 

 

われわれはこの「異邦人」と「嘘をつく人々」の中間に存在します。

生き残るためには、嘘つかなくてはいけません。火炙りという死刑を宣告される恐れがあるからです。

 

母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告されるおそれがある

 

しかし、一方で、自分の嘘が、自分の真理を消すことなく、内なる「異邦人」を何とか消し去らないようにしたいと願っています。

 

 

 

【書籍紹介】

 

ちなみに、なぜ母親の葬儀で涙を流さないかに対して、ムルソーは明確に語っています。

その行為は、気まぐれでも、サイコパスでも、不条理でも、非情でもなく、愛と理解に満ちた行動なのです。

 

ほんとに久し振りで、私はママンのことを思った。一つの生涯のおわりに、なぜママンが「許嫁(いいなずけ)」を持ったのか、また、生涯をやり直す振りをしたのか、それが今わかるような気がした。あそこ、幾つもの生命が消えてゆくあの養老院のまわりでもまた、夕暮れは憂愁に満ちた休息のひとときだった。死に近づいて、ママンはあそこで解放を感じ、全く生きかえるのを感じたに違いなかった。何人(なんびと)も、何人といえども、ママンのことを泣く権利はない。

 

 

このシーンは感動的で(このシーンというか最終シーンですが)、冒頭と綺麗に対応します。

 

c.f.きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない。(カミュ『異邦人』) 2020年05月12日

 

 

 

p.s.

ムルソーとイエスとの相似性について、小説の解説ではこのように書かれています。

 

つぎに、この小説の末尾でムルソーが、「わがことすべて終わりぬ」と呟(つぶや)いていることに注目して頂きたい。この文句は、ヨハネ福音書のみに見られるイエス・キリストの臨終の言葉だが、これをムルソーに呟かせたのは、彼の処刑がキリストの磔刑(たっけい)と同様、「無実の罪」によるものだと作者が考えているからだろう。なお作者は、戯曲『カリギュラ』、小説『転落』のそれぞれの主人公にも同じ言葉を呟かせており、評論『シシュフォスの神話』の中でもそのことに言及している。(同pp.172-173)

 

 

すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。ヨハネ19:30