私達はまだほんの少し先までしか見通せない。 しかし私たちのやることは、まだたくさんあるのがわかる | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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時間が直線的に流れるというのが我々の最初のイメージです。

これは決して、ア・プリオリなものではなく、後天的なものであり、カレンダーやスケジュール帳がそのイメージを後押しします。

 

 

昨日から今日へ、今日から明日へ、明日から明後日へと時間が直線的に流れ、そしてそしてSFなどではタイムトラベルによって、未来や過去へ移動できたりします。このタイムトラベルもまた、時間が直線的に流れるというイメージを強化します。

しかし、実際は時間は流れません。

時間と空間が同じパラメーターにあるとアインシュタインが主張するなら、様々な明日があるはずです。東京から出発して、ニューヨークに行くのも、パリに行くのも自由だとしたら、同様に別々の未来があります。

それを未来が分岐していくというイメージで捉えても良いですし、時間が流れるのではなく、自分が移動している(車窓が流れるように、時間が流れて見える)と考えても良いと思います。

 

 

時間軸について、ナイーブでリニア(一次元)な理解ではなく、少なくとも二次元に広がることを理解しておけば、情報空間を観ることに役立ちます。

 

ゴール設定や気功が上手にならない人の大きなメンタルブロックは何かと言えば、この時間の1次元性にあるように思います。確定した未来が存在し、そこに移動すると考えすぎているのです。しかしこれは仕方のないことであり、その土台には宗教があります。

時間が過去から未来へと直線的に流れ、過去が原因であり、未来が結果であるという常識的な考え方自体が、平たく言えば宗教の洗脳です。

同じ宗教でもループすると考えるところもあります。

 

 

未来が確定したと考えるならば、ゴール設定も気功も無駄です。何をしても未来は変わりません。

一方で、時間がリニアであると考え、過去が未来の原因であると心の底で確信してしまうと、過去が変えられない以上は未来は変えられないとアファーメーションしてしいまいます。

これもまた袋小路です。

 

そこで劇薬として、対処療法として、「時間は未来から」というアイデアを自分にぶつけます。

実際に少し論理的に考えると、時間は未来から流れてくるというアイデアは理解可能です。そして未来に原因があり、過去に結果があるという考え方も採用できます。

そしてこの劇薬を自分にぶつけると、時間は止まります。流れない時間というアイデアが自然と設定されます。時間は流れないので、自分が移動します(結果として車窓が流れ、時間も流れているように視えます)。

自分が移動するのですから、望ましいと考える未来に移動すればいいのです。

パリが飽きたら、ベルリンに行けば良いのです。

ヨーロッパに飽きたら、南米でも良いので。

同じように、違う時間軸、違う未来を選ぶことができます。

面白いもので、違う未来を選んだ瞬間に、現実世界もまたそれに歩調を合わせて変化します。それも即座に。

 

 

SFのタイムトラベルやタイム・パラドックスものと似ています。過去を変えることで現在が変わるのはよくありますが、我々のタイムトラベルでは未来を選び直すことで、写像である現在が変わるのです。

 

これを非常に卑近なワークにしたのが、スコトーマ実験です。

スコトーマ実験を脳の機能の理解とだけ考えると、浅いのです。

時間軸の移動、もしくは未来の書き換えによる現在の書き換えであると正確に認識すると、一粒で2度美味しいワークとなります(もちろん過去も書き換わります。事実は変わりませんが、解釈が変わります。事実とはドーナツの穴のようなもので、解釈という周り次第でドーナツは変わります)

これを鮮やかに教訓物語にしたのが、人間万事塞翁が馬です。

 

 

地図に国境が必要なように、情報空間にも仕切りが必要です。

そのための土台として、我々はクリプキの可能世界意味論を援用します。

 

目の前に複数のシャボン玉が浮かんでいるところをイメージしてください。

それがそれぞれの自分の未来です。

楽しい未来もあれば、悲しい未来もあります。

そのシャボン玉ひとつひとつが未来であり、自分の眼前に広がっている可能世界です。

 

その中で自分はどの可能世界を選ぶか、どの可能世界を自分の理想世界とするか、どこまで遠くを観るか、どこまで高望みして選ぶかが重要です。

 

 

Status Quoという可能世界が一番存在感があります。ラスボスのような風情で目の前に立ちはだかっていて、その端や隙間から理想世界が顔をのぞかせています。

時間がリニアに流れると考えると、SQ以外の可能世界に対して目を閉ざすことになります。

 

逆に、自分の意識状態を上手にチューニングできると、理想的な可能世界を選ぶことができます。これがゴール設定の極意です。

 

ただこのクリプキの可能世界意味論に基づく情報空間の像もまたひとつのモデルでしかありません。

 

イタリア・ベネチアにサンマルコ広場という世界で一番美しいと言われる広場があります。

情報空間を前にして、サンマルコ広場にいるような感慨にとらわれる人がいます。

 

でも、それは幻想です。

見通しがよく、可能性がすべてに広がっていると感じるのは幻想です。

(ここらへんがうまく描けていると思うのは、小説「リプレイ」です。若い人が自分の未来には無限の可能性があると感じるのに対して、幾度も生涯を重ねてきた主人公それを見て、Time is limitedとジョブズのようにため息をつきます)。

 

 

情報空間はサンマルコ広場ではないのです。ジャングルです。密林です。

それよりも、真っ暗闇の中の密林だと考えることです。

目の間に葉っぱが生い茂り、何かヌメヌメしたものをすでに踏んでおり、変な獣の声が聞こえ、蟲の羽音がひっきりなしに聞こえる。そんなジャングルです。一寸先は闇どころか、漆黒の闇です。手探りで進むしかないジャングルの中です。

 

 

それが情報空間です。

 

何も視えず、何も頼りにできないということを理解して、戦略的に情報空間を渡るのであれば、うまくいきます。

 

チューリングが「計算する機械と知性」のラストでこう語っています。

この論文はよく紹介するもので、「機械は思考するか( 'Can machines think?' )」という冒頭で始まることで有名です。

 

We can only see a short distance ahead, but we can see plenty there that needs to be done.

(私たちはまだほんのすこし先までしか見通せない。 しかし私たちのやることは、まだたくさんあるのがわかる)

 

これはコンピューターについて、そしてそれがいかにAIになるかについて語った論文のラストです。

しかしこの感覚というのは、情報空間を手探りで進む感覚と似ていると僕は感じます。

 

 

ちなみに、この数行前にこんな下りがあります。AIにどう学習させるかについてです。

 

 This process could follow the normal teaching of a child. 

(このプロセスは普通に子供を教育するのと同じようになるかもしれない)

 

僕もかなり同感です。

AIに何かを教えるのは、赤ん坊に何かを教えるのと似ているのではないかと思います。子供に何かを教えるのとも。そう変わってくるのでは、と。

 

 

さておき、チューリングのラストセンテンスですが、私達はほんの少し先までしか見通せないというのはその通りかと思います。

 

フェイスブックのマーク・ザッカーバーグが映画や小説のユーレカは嘘っぱちだと言ったのを思い出します。

全体像がボンと見えるわけではなく、ほんの少し先までしか見通せないのです。しかし、やることはたくさんあり、やる中でいろいろと視えてきます(ここはまたニーチェが天才について語っていたことを思い出します)

 

 

気功の学習も同じです。

気功の全体像を見たいと思う気持ちは分かります。

(そしてそれに答えるような様々な回答は用意しています。そしてその「地図」はとても役に立ちます。しかし、地図はその土地ではないのです。)

 

しかし、実際はほんの少し先までしか見通せないのです。そんな中でランダムに好奇心の赴くままに手当たり次第いろいろ試すことです。やることはたくさんあるからです。

 

そうやってランダムウォークしていると気付いたら驚くべき高みに自分を見出します。そして、理想を達成した未来から見ると、ゴールまっしぐらな光景に見えるのです。下から見るとランダムで、上から見るとオーダーなのです(ジョブズがConnecting the dotsと言いましたね)。

 

 

 

というわけで、ここでのアドバイスはシンプルです。

情報空間に対するイメージを一新しようということです。

時間についてできたのですから、情報空間についてもできるはずです。

 

ちなみに、ヒーラーやコーチやメンターがなぜ先を見通しているかのように振る舞えるのかと言えば(もちろん役割を演じているということもありますが)、それは巨人の肩に乗っているからです。巨人の肩に乗ることで、その知性がわずかばかり足元を照らすのです。そして法則や戦略というのはある程度普遍的なものです。だからこそ、次の展開が予想できるのです。

 

 

13階から地面を見下ろせば、ビルの角で誰と誰が出会うかは分かります。しかし、道路を歩いている2人はお互いの姿をまで見ていません。これが抽象度の階層性であり、巨人の肩です。

 

繰り返しますが、ここでのアドバイスはシンプルで、情報空間とは暗闇のジャングルを手探りで進むようなものだと認識を変更することです。逆説的ですが、そうすると情報空間で(相対的に)目が視える人の一人になることができるようになります(たぶんw)。