「啓示のカラクリを正確に知る」とはどういうことか?〜11期ヒーラー養成スクールを前に(^^) | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

四ツ谷にありますバレリーナ専門の気功整体「まといのば」のブログです。
気功師から見たバレエとヒーリングのコツを公開します。
「まといのば」では、バレエ・ヒーリング・美容の各種セミナーを行っております。

明日からのヒーラー養成スクール11期のテーマは啓示です!

啓示のカラクリを正確に知ることが、啓示を起こすポイントであると告知文に書いたのですが、じゃあ、そのカラクリとは何かについて書いていませんでした(書かないといけないわけではありませんがw)。



第一に啓示とは何でしょう。

第二の脳であるWikipediaから検索をしたくなります。

と言いながら、まず余談ですm(__)m

Googleはフェイスブックとの激戦の末に、DeepMindを買収しましたし、未来学者でありSingularity(技術的特異点)の提唱者であるおなじみのレイ・カーツワイルもGoogleに参加しています(映画トランセンデンスのテーマでもありました)。ホーキングもイーロン・マスクも相次いで急激に進化する人工知能に警鐘を鳴らしたことは記憶に新しいと言えます。

ちなみに僕自身の立場というか結論から言えば、イーロン・マスクやホーキングが人工知能は人類を駆逐する可能性があるという警告はもちろん理解するものの、結局は人工知能との共存社会が未来像だと思います。敵対し、闘争し、そして仲間になるというのは、よくある冒険物語の主題であり、西洋社会が異質なものを取り入れる方法論でもあります。

たしかに、ムーアの法則に従い、ある種のシンギュラリティー(特異点)をむかえるでしょうし、ネットワークの量が増えることで相転移を起こして、意識が誕生するかもしれません。
しかし、古代ギリシャからの問題である「意識」とは何だろう?意思とは何だろう?という問題にぶち当たります。意識とは単なる特殊な演算の状態にすぎないのかもしれません。

ひるがえってみると、アルゴリズムや機械というのは人間を補完してきました。
われわれは機械的な作業を機械に任せ、人間的な作業にむしろ集中できるようになっています。非人間的な業務は機械が行い、人間らしい機能を人間が果たします。
人間の人間らしさとは、抽象度の階段を登れるということです。
機械はそのステップの中で最適化を目指しますし、同じ単調な作業を嫌と言わずにやり続けてくれます。
人間と機械は共存可能です。ただ機械が意識を持つときには、それ相応のレベルまでに人間が進化しないといけないとは思います。しかしそれは現在でも同じです。過去もそうでした。機械やコンピュータを使いこなせない人はいます。

インターステラーや楽園追放などで描かれているのは、ロボットが意識を持ち、いわば仲間として人格を主張する未来です。これ自体はずいぶんと昔にSF小説が通った道です。

バイセンテニアル・マンというアシモフの小説は後に映画化されましたが、これはいわばロボットの公民権運動です。
不安の中で仕事をするのは当然なわけで 2013-01-18


という話はさておき本題です。

啓示というのは英語ではrevelationです。

revelationというと僕が思い出すのは、黙示録ではなく(もありますが)、アルヴィン・エイリーです。僕自身はそもそもバレエからというより、現代舞踊からダンスの世界に入り、コンテンポラリーやモダンにあこがれていました。



*冒頭の30秒だけでも見ていただくと、雰囲気が伝わるかと思います。


ちなみにヨハネの黙示録の黙示もrevelationです。本来はヨハネの啓示録と訳すべきかもしれませんが、なんか黙示録のほうが盛り上がりますねw

Wikipediaによれば、「神または超越的な存在より、真理または通常では知りえない知識・認識が開示されることをいう」そうです。

平たく言えばインスピレーションとか、閃き、ユーレカ体験(アルキメデス)も含まれるでしょう。

マクスウェルが電磁方程式を導いたときに、自分でないものが書いたようだと言った伝えられますが、まさにインスピレーションというのは超越的な存在からのメッセージにすら感じます。

ある思考という演算が劇的な形で、抽象度の階段を上がったときに起こるのが、この啓示体験と定義して良いのではないかと思います。少なくともいまの議論の中ではそう定義しましょう。

で、そのような啓示体験を安易に得ようとするときに、人はしばしば薬物に頼ります。これはおそらく古今東西変わりません。幻覚剤となる薬品なり、薬草を摂取することで変性意識状態に入り、運が良ければ(というかランダムに)啓示体験をします。

薬物を外から摂取するのではなく、内側から摂取しようとすると苦行になります。肉体的な痛みは脳内麻薬を出します。これも内なる薬物ということでは、幻覚剤などのドラッグ摂取と薬理的には同じことです。


啓示のカラクリとは何でしょう。

啓示の本質的なカラクリは、抽象度の階段を上がることです。
上がったかどうかは同じ演算をやらせてみて、その時間で測ることができそうです。


たとえば、1から100までの自然数の和を聞かれたガウス少年は即座に回答したようです。
もちろん素直に計算していく方法もあります。
1+2+3+4+5・・・・・・+99+100
と順に足していくというアルゴリズムをAとすると、ガウス少年が使ったのは(1+100)×100÷2です。

1 +  2 + +4 + 5・・・・・・+99+100
100+99+98+97+96+・・・・・+2 +  1
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
101 101 101 101 ・・・・・・・・・・101

1から100までを逆順にして並べて、縦の列で計算するとすべて101になり、その個数は100個。それを2で割れば答えが求まるというアルゴリズムをBとします。

当然、AとBでは抽象度が異なり、計算の速度も異なります。

抽象度の階段を上がると計算量の複雑性が一気に下がります。計算量は時間でも測れます。


では、どのように啓示は起こるのでしょうか?

これはまさに神の恩寵によるとしか言いようがなく、単純な計算によって抽象度の階段は登れないことは分かっています。これはフレーム問題として定式化されています。
強いて言えば上から降りてくるしかないのです。

じゃあ、どうやってそのような啓示を相手にもたらすのか。

それが今回のスクールのテーマですが、方法論はシンプルです。

やることは単純で環境の整備です。

たとえば相手が10の情報を持っているとしたときに、しばしばわれわれはその10の情報を古いものだからと捨て去らせ、新しい3の情報を教え込もうとします。

そしてこれはあまり機能しません。

それよりはすでにある10の情報の配列、配置を変えることで全く新しい別なゲシュタルトをつくり、新しい絵を浮かび上がらせるのです。これは相手に教え込むことも、忘れさせることもなく、情報の増減がありません(その意味で熱力学的なコストが不要です)。

パウロが言うように、あなたがたが知らないことを教えにきたのではなく、すでに知っていることを教えに来た、というわけです。

そのときの手触りとして、丁寧に1から10の情報に触れることです。相手の思考空間の中にある概念を全く未知のものとして、丁寧に触れて丁寧に観測することで、ゲシュタルトの再構築が始まります。

これが天才的にうまかったのがソクラテス(産婆術)であったと思いますし、カール・ロジャーズ(カウンセリング)ではなかったかと思います。

啓示の瞬間というのは、ニュートン力学的な決定論的なものではありません。この材料とこの材料とこの条件がスパークして、相転移!!というようなものではなく、超弦理論的です。


*左がニュートン力学的な点粒子の世界観、右側が量子力学以降、超弦理論的な世界観です。


啓示の瞬間はたしかにあるけど、ここだと指し示すことはできず、そして再現もできないのです。
ただ、その確率を高めることはできます(CERNがやっているように)。

どうやって確率を高めるかといえば環境を整えることによってです。
どう環境を整えるかと言えば、明確なゴールを抱きつつ(これも方法があります)、相手のゲシュタルトを組み替えることです。どう組み替えるかと言えば、丁寧に情報に触ることによってです。丁寧に情報に触るとはどういうことかと言えば、細部にこだわるということです(神は細部に宿りきとは良く言ったものです)。

ただ相手を特定のゲシュタルトに誘導しようとしたり、情報を無理矢理に並べ替えようとしてはいけません(そのように演じることは有効ですが)。



砂鉄を配置するときは、無骨な手で触るよりも、磁石の不思議な遠隔力を使うほうが良いのですw

砂鉄に対する磁力に当たるのが、1つ上の抽象度であり、ゴールの力です。

N極とS極は遠くはなれていると惹きつけ合いませんが、近づくにつれ磁力は強くなります。加速度的に強くなります。

これは啓示においても同じです。

情報たちがわらわらと動き始めたら、プロセスを加速させることです。全く動かない時に無理矢理何をしても無駄に終わることが多いです。いわゆるタイミングを待つということです。

われわれができることは、状況を丁寧に見極めつつ、環境を整えるだけです。



雲をつかむような話ですが、上手に雲をつかんでいきましょう!!


*啓示は『ギリシャ語でアポカリュプシスと云い、「覆いを取り除く」「明らかにする」という意味』(Wikipedia)