1
秀雄は友人の亘を迎えに隣町の駅まで出向いた。この2年間、亘は自動車整備士の資格を取ろうと都会の専門学校に通い、晴れて卒業したのだ。まだ具体的な職場は決めていないが、実家のあるこの港町に帰って来た。この町でも働き口の選択肢はある。秀雄の実家、梶谷自動車でも人手が足りない訳ではないが亘なら一緒に仕事をする事で秀雄の励みになる。さらには山手に公二の開いたポルシェショップがあり、亘としてはそちらの方が魅力的に見えたりする。互いの離れていた時間の出来事を話しながら、港町への山道を下っていた。
ふと道端に見慣れない車が停まっている。いかにも高級感漂うクラシックな外国車だ。
「何だあれ?町には似つかわしくないよな」
「多分ロールスロイスだ。シルバーレイスだな、相当な年代物だよ」
秀雄が答える。大抵の車は知っておかないと不都合が生じる場合があるので国産、輸入車ともに年代車を含めて頭に入れている。通り過ぎようとしたが、車内に若い女性を残したまま運転手が何やら苦労しているようだ。秀雄はサニーバンをロールスロイスの前方に停め、声を掛けた。
「どうかされました?」
「パンクしてしまったようで、ちょっと交換に手間取ってますがご心配なく」
運転手が汗だくで答える。
「いや、普通の車と違って素人の手には負えないですよ。僕ら整備士ですから代わりますよ」
秀雄と亘は専用工具とスペアタイヤが使えることを確認して、手早くタイヤ交換を行った。
「ありがとうございます、助かりました。正直JAFでも呼ぶしかないかと思ったのですが、お嬢様の手前、時間を取る訳にも行かずに困っておりました。後ほどお礼に伺いますので、お名前と連絡先をお伺いできますか?」
「いえ、それほどのことでもないですから気になさらずに」
秀雄たちはそのまま立ち去ろうとした。ロールスロイスからいかにも令嬢という雰囲気の女性が降り立つ。
「お待ち下さい。私の住まいはすぐ近くですので是非お茶でも召し上がって行って下さいませ」
秀雄と亘は顔を見合わせたが、急ぐ訳でもないので令嬢の誘いに応じることにした。別世界の住人に興味がある。
令嬢の住まいは山道を逸れた閑静な林に建てられた洋館だった。新しく建てられた筈だが外装をレンガで覆い、風景に溶け込む古いたたずまいを演出している。応接間に通された秀雄と亘は目の前に出された紅茶に手を付けて良いものか戸惑っていた。
「ロンドンから取り寄せているロイヤルティーですのよ。お口に合うとよろしいのですけれど。どうぞ召し上がれ」
令嬢の勧めで秀雄たちはいかにも高そうなティーカップを口に運んだ。ほのかに上品な香りが鼻をくすぐる。
「申し遅れましたが、私は古宮早紀子と申しますの。療養のためここに越して来ましたが、まだ日が浅いためもあって話し相手もおりません。兄たちが合流する予定なのですが気まぐれなもので何時になれば来るのやら…これも何かの縁ですわ、よろしければ貴方方とお近づきになりたいのですが」
「あ、俺、いや僕は梶谷秀雄、こっちは山根亘、家は町で自動車整備工場をやってます。ど、どうぞよろしくお願いしますです」
部屋を見回すとアンティークな家具や置物で飾られていて、まるでイギリスの洋館に招かれたようだ。もっともイギリスに行った事はないのだが。とにかくかなりの資産家のようだ。
「秀雄さんはお仕事何時頃に終わるのですか?」
「まあ忙しい時は別にして、普段は夕方の5時ですね」
「では夕食にお招きしてもよろしいかしら?早速今夜にでも」
洋館を出た秀雄はポカンとしていた。
「亘、迎えに行くから頼むよ」
「何言ってるんだよ、誘われたのはお前、俺は部外者だから一人で行ってくれ」
亘は秀雄の肩をポンと叩いてウインクした。
2
往診を頼まれた診療所の医師、優子は、一通りお決まりの診察を済ますと早紀子に確認する。
「喘息の発作はいつ頃からですか?」
「昨年からですわ。時折咳が出だして止まらなくなりました。空気のきれいなところで静養を勧められて、父がここに別荘を建ててくれて、移り住んで間もないですが、今は発作は起きませんの」
「アレルギーはありますか?」
「いえ、特には」
優子はカルテを書きながら微笑んだ。
「おそらく心理的なものが原因だと思いますよ。発作が起きなければ特に気に掛けなくても大丈夫でしょう。出来るだけストレスを避けてゆったりと過ごして下さい」
そう言いながら、部屋を見回し、ストレスもなければ急かされることもない生活だろうなと思った。
亘を送って家に戻った秀雄はそわそわして落ち着かない。とりあえずタンスから服を色々と引っ張り出して鏡で当てて見る。淡いブルーのワイシャツにスーツを着込むことにした。手ぶらで行くわけにもいかないだろうと、花屋で薔薇を見繕う。10本程度の花束にリボンを添えてもらった。愛車のサニーバンはこんな時場にそぐわない気がする。かといって別の車がある訳でもない。秀雄はこんなことで悩んでも仕方ないなと余裕を持って森の洋館を訪ねた。
早紀子は淡いブルーのドレスに着替えて、既に秀雄を待っていた。10人は座れそうなアンティークのテーブルが置かれたダイニングルームに通され、秀雄は「こ、今夜はお招き頂きましてありがとうございます」と薔薇の花束を差し出す。早紀子は嬉しそうにそれを受け取り、鼻に寄せて香りにうっとりしながら、「あまり気をお使いにならないで下さいね、私がお呼びしたかったのですから」と微笑む。それで秀雄はすっかりのぼせてしまった。
元フレンチのシェフであった運転手兼執事の高山の料理は掛け値なしで絶品であったが、フランス料理など食べたこともない上に気もそぞろの秀雄にはしっかりと味わう余裕がある術もなく、ただテーブルに並べられたナイフとフォークを早紀子の見よう見まねで不器用に使うことで頭が一杯だった。何か話さないと不味いかなと思いながらも話題がさっぱり浮かばない。まあ一夜限りのことだろうから、粗相なく終えようとだけ考えていた。
「お口に合いまして?」
食後の紅茶を味わいながら早紀子が尋ねる。
「そ、それはもう、最高に美味しかったです」
秀雄の正直な感想だ。
「よかったわ、私も久しぶりに楽しい食事ができました。明日もお招きしてよろしいかしら?」
早紀子の思わぬ誘いに秀雄は答えに戸惑う。他に用事がある訳ではないが、さすがにこんな豪華なディナーを連日ご馳走になるわけにもいかないだろう。そんな秀雄の顔色を察してか、早紀子が続けた。
「我が家はお金には不自由しませんの。でもいくらお金があっても買えないものは買えませんわ。ご友人がそう。折角お近付きになれた秀雄さんを私は心からお持て成ししたいのです。ご迷惑でなければ、毎晩でもこんな私の我侭にお付き合いして頂けないかしら」
秀雄は夢ならどうか覚めないでくれと、何度も早紀子に頷いた。
3
海岸沿いのマリンペンションに一風変わった客が訪れていた。連れのない若い男性で、他に宿泊客もなく、柳夫妻は満足してもらおうと夕食に腕を振るっていた。
「キミちょっと、シェフを呼んでくれないか?」
男性客が怪訝な顔付きで美奈子に言った。美奈子は恭一を呼んだ。
「何かご不満でも?」
恭一が尋ねる。
「キミがシェフか?いくらなんでもこのディナーはないだろう。生魚に貧相な野菜、多少手を加えたものと言えばこの揚げ物くらいだ。食器も茶碗に箸と来ている。せめて前菜とムニエル程度用意しないと客に失礼だと思わんかね?」
「ここはご覧の通りペンションですので、シェフなどは雇わずに私と妻で全て接客しております。ご提供した料理はこの港で獲れた新鮮な魚を最高の形で召し上がって頂くための刺身と天ぷらでして、もしご満足頂けないようでしたら料金は結構ですのでどうぞお帰り下さい。ただこの町ではお客様のお口に合うようなフランス料理を出せる店はないと思いますよ」
恭一は怯むことなく対応する。
「フン、これだから野蛮人は困るな。大体魚を生で食べる習慣などこの国以外ではないだろうさ」
そう言いながら男は刺身を一切れ摘むと鼻に寄せる。生臭さはない。恭一は小皿に醤油とワサビを溶いて、よろしければこれでと差し出す。男は試しに醤油に浸けた刺身を恐るおそる口へ運んだ。男の顔色が和らいだ。
「ほう、初めて口にしたがこの歯ざわりはなかなかいいな。どれ、こっちは」と天ぷらに箸を移した。
「おう、このサクサクした独特の触感は初めてだ。キミ、これらに合うワインはあるかね?」
「ワインよりも和食には日本酒が一番ですよ。地元の吟醸をご賞味下さい」
すっきりした味わいの吟醸で、男はすっかりご機嫌になった。
「いや、悪態を吐いてしまって申し訳なかった。気に入ったよ、許してくれたまえ」
恭一は宿泊名簿の名前で話し掛けてみる。大抵の客はその方が馴染んでくれるからだ。
「古宮様は車がお好きなんですね。ジャガーのEタイプ、かのエンツォ・フェラーリが世界で最も美しいと賞賛したスポーツカーですよね」
「ほう、なかなか目が肥えているようだね。そう、ジャガーEだ。ただしエンツォが賞賛したのは深海魚と呼ばれるシリーズⅠで私のはシリーズⅢだがね。だが個人的にはこのV型12気筒の2+2は最高の英国車だと思うんだ。スポーツカーとしてよりはサルーンとしてね。迫力の増したマスクに豪華な内装、3速のオートマチックミッションとパワーステアリングのドライブは実に快適だよ」
「2+2なんですか、2シーターのクーペにしか見えませんね」
恭一は自分のフェアレディZを思い浮かべる。2+2もラインアップされているが、どうもスタイルを損ねているようで好きにはなれない。
「うん、ジャガーEのクーペは2+2が完成形だよ。事実シリーズⅡまでは2シーターのクーペが用意されていたが、シリーズⅢは2+2だけになったからね。ロードスターも2+2のシャシーを使っているよ」
「本日は東京の方からお見えになられたのですか?」
「いや、京都だよ。名簿に住所も書いたと思うが…」
恭一は住所までは覚えてなく、しまったと思ったが古宮は気に留めていないようだ。
「観光でお越しなされたのですか?」
「実はこの町に別荘を建ててね。妹が常駐しているが週末は出来るだけ家族で集まろうとなってる。私はちょっと町の様子を知りたくて、まあどんなところか下見みたいなものさ」
「そうでしたか、ごゆっくりどうぞ」
恭一は何か賑やかになりそうな予感がした。
4
森の洋館にV12サウンドが木霊す。古宮修三はみすぼらしいサニーバンを横目に白のジャガーEタイプをガレージに入れると広間へ入った。
「早紀子、お客さんかい?」
そう言いながらソファーの秀雄を見つけた修三は思わず固唾を呑む。
「キ、キミは…」
「あら修三兄様、ようやくお見えになられたのね。こちらは私の友人、秀雄さんよ」
「そ、そうか、そうだよな」
早紀子の紹介を受けて、修三は落ち着きを取り戻したようだ。
「最近は毎晩夕食にお付き合い頂いて、今夜もお招きしたのよ」
修三は早紀子に近寄り、耳打ちする。
「お前、どういうつもりだ?今夜は玲二兄さんも父さんたちも揃うだろ?」
「分かっているわ。だからお招きしたのよ」
修三は改めて値踏みするように秀雄を見て、部屋を出た。気を付けの姿勢で固まっていた秀雄はホッと溜め息を吐いた。
美しいロングノーズ、黒のジャガーEタイプが洋館に入る。5、6台は収納できる広い地下ガレージの白いジャガーEタイプの横に停めると、玲二は一吹かししてエンジンを切った。
「修三は来てたか」
音を聞きつけた修三が館内へ通じるドアで玲二を待ち受けていた。
「兄さん、驚かないように言っておくよ。早紀子が妙な客人を連れ込んでいる」
「へぇ、珍しいじゃないか。どんな客だい?女か?男か?」
「それがさ…」
修三の説明に玲二も神妙な顔付きになった。
「お嬢様、私はそろそろご主人様たちのお迎えに上がろうと思いますが」
そう言う高山を早紀子は制した。
「お父様たちならハイヤーを呼んでいるようだから大丈夫よ。それよりお願いがあるの。秀雄さんのお召し替えをして頂けないかしら」
「遺品に手を付けて、と言う事でしょうか?」
「ええ…」
かしこまりましたと高山は秀雄を2階へ誘導した。
早紀子の両親、古宮家の主である古宮高志と妻の洋子が到着する。早紀子、玲二、修三の3人は玄関で出迎えた。
「元気そうだな、早紀子」
高志がにこやかに声を掛ける。
「別荘を建てた甲斐があったな」
食器の用意されたダイニングテーブルに座ると、高志はおやっと言う顔をした。
「1人分多いようだが?」
「フフッ、実は紹介したい方がいるの」
早紀子が軽く手を上げると、高山が秀雄を連れて現れた。
「英一!」
洋子が驚いて口に手を当てる。
「本当に似ているな、聞いておいて良かったよ」
玲二も目を丸くしていた。そこには礼服に正装して髪を七三に整えた秀雄がいた。
「英一…ではないよな、これはどういうことだね?早紀子」
高志が努めて冷静に訊ねる。
「この方は梶谷秀雄さん、私たちがロールスで困っていたところを助けて下さって、それ以来懇意にして頂いてます。とてもいい方なの」
秀雄は話の流れを理解できないまま、軽く頭を下げた。
「うむ…参ったな。まあ家族が久しぶりに顔を揃えたのだから、まずは食事としよう」
高志の指示で高山は用意された前菜をテーブルに運んだ。
秀雄は質問攻めで食事どころではなかった。何処に住んでいるのか、仕事は何をしているのか、両親は健在か、どんな家柄なのか…
最終的に高志は早紀子に聞いた。
「彼とどうするつもりなのだね?」
「私は結婚して頂きたいと思ってます」
これには秀雄が驚いた。まさかこんな展開になるとは。早紀子を好きとか嫌いとかの以前に身分や育ちというものがあまりにも違いすぎる。
「お母様は喜んで頂けるわよね?」
洋子は黙って俯いたままだ。
「お前の気持ちは分からないではないが、まずは冷静になりなさい。我が家は代々名家と言われる家系で婚姻についてはまず家柄が問われる。私もそうだった。お前の結婚相手も既に内々決めてあるのだよ、早紀子」
高志が凛として言い放つ。
「私は…そんなの嫌よ」
早紀子は泣きそうになりながら自室へ去って行った。
「梶谷君、悪いが今日のところは帰ってくれたまえ」
高志に促されて、秀雄は自分の服に着替えると、古宮邸を後にした。
5
秀雄のサニーバンを修三と玲二の2台のジャガーが追い、途中で止めた。
「少し話そうじゃないか。この近くにいい場所があるから付いて来てくれたまえ」
そう言うと修三は道沿いの建屋に案内した。公二のポルシェショップだ。
「車で散策していて見つけた。夜も開いているから気軽に遊びに来てくれと言われてる」
接客用のショールームは灯りが消えているが、作業場では公二が仕事をしていた。なんと優子も居る。
「ああ、古宮さんでしたっけ、いらっしゃい」
公二が笑顔で迎えた。
「お言葉に甘えてこんな時間に寄らせてもらったよ。これ、差し入れだ」
と修三はキャビアの瓶詰めをテーブルに置く。
「なかなか手に入れにくい上物だよ」
「わぉ、凄いっすね。優子さん、みなさんにエスプレッソ淹れてもらえます?粉とか分かりますよね」
「大丈夫よ」
優子は勝手知ったる様子で答えた。
「誰かと思えば秀雄君じゃないの、公二君は夜の方が捗るらしくて昼間は店員さんに任せて夕方から仕事してるのよ。居心地いいものだからアタシもついつい来ちゃうの。そちらは古宮さんと言う事は、早紀子さんのお兄さん方かしら?アタシは診療所の医師、来森優子です。どうぞよろしく」
「先生ならちょうどいいかもしれない、一緒に話を聞いて下さいますか?」
と修三は話し始めた。
「私たちにはもう一人、英一という長兄が居てね、とても優秀でみんなの手本でありまとめ役だった。特に早紀子はベッタリで。英一はジャガーが好きで、それこそエンツォ・フェラーリのべた褒めした深海魚、ジャガーEタイプシリーズⅠのロードスターに乗っていた。私らの父は昔から何事も平等にと言って、英一がジャガーEタイプを購入した際に私も玲二兄さんもジャガーEタイプを与えられたのだよ。全く同じではつまらないので、私はシリーズⅢ、玲二兄さんはシリーズⅡの2+2をそれぞれ選択した。私たちは平和な家族だったが突然それが崩れた。去年、英一兄さんが趣味の登山で滑落して命を落としてしまったのだよ。それを機に早紀子は体調を崩し、誰とも会わなくなった。見兼ねた父がこの町に療養と気分転換を兼ねて別荘を建て、移り住んだという訳さ」
優子はなるほどと喘息の原因を知った。
「秀雄君、早紀子から何も聞いていなかっただろうが、キミは英一兄さんと似ている。特に今日の様に髪を整えて正装した姿は私たちでも見間違うところだ。がっかりしないでもらいたいが、早紀子はキミが好きと言うよりもキミに英一兄さんを重ねているのだろう」
秀雄はそれで全てが納得いった。本来自分などが早紀子に相手にされる訳がないのだ。
「で、この先どうするかだが、私たちとしてはキミが早紀子の前から姿を消してくれるのが一番だと思う」
秀雄もそれがいい気がした。夢から覚めたと思えばいい。
「うーん、ちょっと待って。早紀子さんは何て言ってるの?」
優子が修三に訊ねる。
「妹は夢の中に居て半分正気を失っている。今夜も秀雄君と結婚したいと言い出して揉めて来たところだ」
「やっぱりね。それ、迂闊に取り上げてしまったら、彼女酷い発作を起こすか、最悪死を選びかねないわよ」
それは薄っすらとみんなが予期していたことで、修三たちは黙り込んだ。
「秀雄君、いつも思うんだけどさ、キミはほとんど自分の意見を言わないじゃない?こんな大事な時くらいしっかりしなさいよ!」
優子に叱咤されて、秀雄は口を開いた。
「僕は全然自信がないです。それこそ身分が違い過ぎるし、お金だってない。早紀子さんもすぐに嫌になるに決まってます」
「身分だなんて、何を時代錯誤な事言ってるのよ!まずはアンタの気持ちでしょ?好きなのか、全然そんな気はないのか、好きなら全力で何とかしようとしなさいよ。そんな気がないのなら早紀子さんにはっきりそう告げなさい。黙って消えるなんて最悪よ、いつまでお子ちゃまなの!」
優子は秀雄のような煮え切らない態度が大嫌いだ。
「そうだな、父は許さないかもしれないが、私たちはもしキミが本気で早紀子を幸せにする気があるのなら応援しないでもない。早紀子のためにはそれが一番かもしれない」
玲二が秀雄を見つめながら言った。まるで英一がそこに立っているようで本心は秀雄に居て欲しい気がする。秀雄は目を閉じて自分の心と会話してみた。
「僕は…早紀子さんが好きだ!身代わりだろうが何だろうが諦めたくはない!」
自分に言い聞かせるように大声で叫んだ。
「よく言ったじゃない、それでこそ男よ」
優子が嬉しそうに笑った。
「私に一つ考えがある。ここは神に命運を委ねてみようではないか」
修三の提案でその夜は解散した。
6
翌日、修三は屋敷にみんなを集めた。秀雄を呼び、高志と洋子、玲二、そして優子にも来てもらった。早紀子は自室で高山に見てもらっている。
「父さん、母さん、昨夜の続きで秀雄君と早紀子の件について話し合いたいと思うんだ。早紀子には話がまとまるまで部屋で待機してもらおうと思う。家族の話だけど早紀子の病状も絡むから、この町の診療所の来森先生にも来てもらった」
「お前たちがどう思おうと私の考えは変わらない。婚姻は家同士の話であって、早紀子にはこの家に相応しい相手と結婚させる」
「お父さん、僕は早紀子さんを愛してます。幸せにするなどと軽々しく言えませんが、お父さんに認めてもらえるようにチャンスを頂けないでしょうか?」
秀雄が床に手を付いてお願いする。
「医師の立場としては、お嬢さんの症状は英一さんがお亡くなりになられた精神的ショックによるもので、今安定しているのは秀雄さんの存在が大きいと思います。無理に引き離すことで早紀子さんに何が起こるかは保証しかねますわ」
優子にそう言われて、さすがに高志は「うむ」と黙り込んだ。
「父さん、アーサー王の伝説を知っていますか?」
修三に聞かれて、高志は「いや」と首を横に振った。他のみんなもそれは聞かされていない。
「ブリテン、今の英国を舞台にしたケルト人の伝説で、昔大天使ミカエルが所有していた聖剣エクスカリバーが岩に突き刺さったままになって、誰もそれを引き抜くことが出来なかった。若きアーサーはそのエクスカリバーを見事に引き抜いて正当なる所有者と認められ、王になったという逸話ですよ。英一兄さんの乗っていたジャガーは早紀子が遺品として受け取ってこの館に保存されているけど、運び込んで以来エンジンが掛からなくなってしまったじゃないですか。業者は引き取って分解整備すれば何とかなるかもしれないと言って、この場では始動出来ないらしい。もしも秀雄君がこの場でジャガーのエンジンを掛けられたら、まさにアーサー王の再来みたいに思えませんか?」
修三が「神に命運を委ねる」と言ったのはこの事らしい。古宮家はクリスチャンで高志もミカエルを出されたら無視する訳にはいかない。「よし、分かった」と修三の意見を飲んだ。
ガレージの隅でカバーを被せられて眠っていた英一のジャガーEタイプSr.1ロードスターがその美しく輝くブリティッシュグリーンのボディーを披露する。部屋に居たメンバーに加えて早紀子もその場に呼ばれた。英一のジャガーを目にすると悲しみが込み上げてきてソッポを向く。
秀雄は素早く状況を整理する。業者が運び込んで始動しようとして上手くいかなかった。それが整備士なら秀雄でもお手上げだが運送を整備士がやることはないだろう。それならば原因を特定すれば一縷の望みはあるかもしれない。
「工具を使って整備してみてもいいのですか?」
秀雄が一応確認するとこの場でなら何でもやって構わないとなり、サニーバンに積んであった整備キットを持ち出してきた。たまに放置しておくことで自然に治ってしまうこともあるので、まずは修三が始動を試みた。キュルルルルル…キュルルルルルル…、セルモーターが虚しく回るだけだ。バッテリーが弱ってしまうので秀雄は修三を止めた。
エンジンが掛からない原因として考えられるのは燃料系のトラブル、電装系のトラブル、機械的トラブルなどで、燃料ポンプやパイプなどの破損、バルブなどのエンジン部品の破損ならこの場ではどうしようもない。フロントノーズを上げてエンジンを剥き出しにしてもガソリン臭はないので燃料漏れはないようだ。秀雄はプラグを外してみた。熱価の高いものが使われていてカーボンで真っ黒になっている。これではまず掛からない。チョークなどを使って燃料を送り過ぎたか、キャブレターの調整不良が考えられる。新品のプラグに交換するのがベストだが、生憎と予備はない。目の細かいサンドペーパーで全てのプラグから煤を取り除き、ほんの僅かプラグのギャップを叩いて狭くし、再び装着した。エンジンオイルやラジエターの冷却液を確認した後、秀雄はSU3連キャブの機嫌を伺う。迂闊にいじって調整を間違えたら泥沼だ。ゆっくりと慎重にドライバーを回してニードル弁を閉じ、回した回数を覚えておく。やはり微妙なバラつきがあったので、全てのニードル弁を同量開いて戻した。やれることはこの程度だ。秀雄は一度大きく深呼吸すると運転席に座り、エンジンを掛けようとした。ふと先輩整備士クニさんの言葉を思い出す。「工具にはパーツクリーナーのスプレーを入れておくと便利だぞ、揮発性の高い可燃成分を含んでいるから、いざという時にエンジン始動剤に使える。ただ常用はするなよ、エンジンを傷めてしまうからな」
秀雄はパーツクリーナーを取り出すと、よく振ってエアフィルターの吸入口に吹き掛け、素早く運転席に着くとアクセルは踏まずにセルを回した。キュルル・ボッ!その瞬間を見逃さずにデリケートにアクセルを煽る。ボババ…ファオーン…ファオーン!ジャガーEタイプの小気味良い排気音が響き渡ると喝采が起こった。
「アーサーだったな!」
修三が駆け寄り肩を叩く。早紀子は目に涙を浮かべて頼もしい秀雄を見つめた。
「どうです、父さん。彼は神の祝福を受けているようですよ?」
修三の言葉に高志は考え込む。
「分かった。約束は守ろう。一度だけチャンスを与える。幾らでも必要な資金を出すから、その資金を倍にしてみたまえ。期限は3ヶ月だ。神の祝福を受けているというのなら、そのくらいの商才があってもいいだろう。早紀子に不自由な思いはさせたくないからな。1万を2万にするなどと馬鹿なことは言わないでくれよ、そうだな1,000万円を資金の下限にしよう。元手は返してもらうから無茶なことはしない方が無難だ。もちろん自信がなかったらこの場で断ってくれたまえ」
とうてい達成出来そうもない高いハードルに秀雄は愕然としたが、今回は心の底から湧き上がる闘志を感じていた。
「やります」
早紀子は秀雄に寄り添い、油で汚れた腕にしがみついた。
7
実家は自営業とはいえ、これまで秀雄は経営になど携わったことはない。資金を元手に利益を出す手法などチンプンカンプンだ。
「秀雄お前、山の洋館に入り浸ってるそうだな。町で噂になっとる」
父親の茂が嗜めるように聞いた。
「うん、ちょっとややこしい話になっててね」
秀雄は両親には話しておかなければならないだろうと思った。母の久美にも声を掛け、これまでの経緯を説明した。
「結婚てお前、うちと華族様じゃ釣り合いが取れるわけがないだろう」
「もうその件は散々揉めたところだからさ、余計な口出ししてややこしくしないでよ」
茂は「そうか」と腕組みした。
「それでね、僕への課題として1,000万円の資金を3ヶ月で倍にしてみろと言われてるんだ。何かいい手はないかと思ってさ」
「馬鹿なことは考えるな、商売は甘いものじゃない。所詮お前には無理な話だったと諦めた方がいいぞ」
茂の答えは予想に反しなかった。
秀雄は思い切って鷹応にも相談してみた。
「そいつはまた凄え話だな。面白れえから俺も一枚噛んでもいいぜ。ただ俺は金に困った事はねえから、しゃかりきに稼いだ経験はねえんだよな」
そうだろうなと秀雄は溜め息を吐く。やはり参考になりそうなアドバイスは聞けそうにない。
「出来る事をやるしかねえよな。お前に出来る事は何だ?秀雄よ」
「まあ車の整備くらいですね…」
「だったらそれに絞るしかねえだろ。余計なことだろうが世間じゃ最近投資ってのが流行っててな、俺の親父のところにも証券会社の営業がしょっちゅうやってくる。親父は余裕の範囲でそいつらに金を預けてるみたいだが、株とかの運用で結構儲けが出てるらしい。そういう他力本願に頼るって手もあるが、とてもじゃねえが3ヶ月で倍はねえよな。ただ一つギャンブルみたいな投資もあるらしくてな、上手く当たれば3ヶ月どころか1ヶ月で倍になることもあるらしいぜ。先物って奴だ。だが親父は絶対に手を出すなと言ってる。知り合いがそいつで失敗して骨の髄まですっからかんに搾り取られて死んじまったそうだ」
秀雄は聞いておいて良かったと思った。そんな甘い話を持って来られたらついつい乗ってしまいそうだった。
「この際だから聞きてえことがある」
鷹応は逆に切り出した。
「なんつうか、これまではよ、俺は悪いがお前のことを本気で相手してなかったよ。そばに置いときゃ何かの時に役に立つかなって感じでさ。何でそんな気分だったか今のお前見てたら分かって来たぜ。お前、本気で生きてねえよな?」
「え?」秀雄は何を言われているのか分からなかった。
「何でもその場凌ぎで片付けたがるだろう。車にしたってたまたま家が車屋だから好きなんじゃねえか?俺はGT-Rに結構命張ってるぜ。村井もSRに入れ込んでる。柳恭一や優子もみんな多分そうだ。だがよ、お前のサニーはお前が本気で欲したもんじゃねえだろ。悪いが親父のお下がりに工場の余り物を寄せ集めたその場凌ぎに見えて仕方がねえんだよ」
秀雄は今までそんなこと考えもしなかったが、確かに鷹応の言う通りかもしれない。
「お前はようやく館の嬢ちゃんを本気で好きと言ったろ、それで俺もお前を本気で相手する気になったのよ。もっとお前の本気を見せてみろよ、お前が本気で好きな車はねえのかよ」
「あ!有ります」
秀雄は子供の頃の憧れを思い出した。
「だったらそいつが今回の鍵になるんじゃねえのか?」
鷹応に丁寧に礼を言い、秀雄は暗闇に光を見た気がした。もう少し何かが欲しい、かつての尊敬していた上司、柳恭一に聞いてみよう。
「僕らは儲けようと思った事はないよ」
マリンペンションで柳恭一と美奈子夫妻は秀雄と向かい合って座った。
「キミの気持ちは良く分かるよ、まるで自分たちの境遇を見ているような感じだからね」
恭一と美奈子は懐かしそうに顔を見合わせて微笑んだ。
「僕の場合は運が良かったというか、何もしないで美奈子と一緒になれたけどね」
「何言ってるのよ!あんな無茶して死にかけて、何が運が良かったよ!」
美奈子が恭一を何度も叩いた。放火されて燃え上がる製鉄所に飛び込み、間一髪鷹応に救い出された事件だ。
「うん、僕は本当に命の大切さを実感したからさ、自分がこうして幸せでいることに感謝したくて、とにかく誰かに、何かに奉仕したいのさ。環境を壊していた製鉄所の跡に作ったこのペンションだから、まずは環境を戻してさらに良くしていきたいと思ってる。ここに来てくれるお客さんには心から満足してもらいたくてお相手してる。あとは散り散りになった同僚たちも、そのうち呼び戻せるならそうしたいかな。そんなことにお金を使いたいのさ」
秀雄はただただ感心するばかりだった。自分のことで精一杯なのが恥ずかしく思える。
夜になって、秀雄はポルシェショップの公二を訪ねた。例によって優子が寛いで居た。
「来たわね、坊や。何やるか決めたの?」
優子が笑いながら茶化す。
「僕には車しかない、というのがはっきりしました。それで僕にとって最後の砦に感じる公二さんの話を聞きたくて」
「僕も秀雄君に話したいと思っていたところさ」
公二が手を休めて秀雄たちの傍に腰掛けた。
「車しかないとして、実家で何か頑張るつもりかい?」
秀雄はそれでは無理だろうなと思う。
「父のことは尊敬してますけど、思い切って独り立ちするのがいいかなと感じてます。漠然とですが」
公二はエスプレッソを啜りながら嬉しそうに笑った。
「うん、多分僕とキミのお父さんでは仕事に対する考え方が違うと思うよ。お父さんの年代はまず働かなければならないと教え込まれてる。車が好きと言うよりは、生活するために車を手掛けているのさ。だからギリギリ生活している人たちが客としてやってくる。僕の場合はポルシェが命の次に好きなのさ。ポルシェと向き合って、声を聞いて、ポルシェの望むスタイルを作っていく。それが楽しくて仕方がない。だから楽しくなりたいお客さんが集まってくるよ。分かるだろ?優子さん」
「そうなのよ、楽しいの!だから毎晩ここに来ちゃう」
「人間ってさ、興味ないことには節約したがるけど、楽しさにはお金を使える生き物なのさ。現実的な話をすればキミのお父さんの利益率は数パーセントだと思うよ、まあ一般的な仕事はそんなものさ。しかも一件辺りの単価が低い。僕はね、まずお客さんに楽しみに幾らだせるのか聞き出す。それでプランを提供して、納得すれば契約する。余裕のあるお客さんからは結果的に30%くらい利益が出ることもあるよ。客層の違いだよね」
「凄いですね!」
公二は目を輝かせている。それで誰もが話に引き込まれていくのだ。
「僕は何だかキミのシンデレラストーリーに興味持っちゃってさ、キミをプロデュースしてみたいと思ってるのさ。凄い楽しそうじゃないか」
「え!」
秀雄は心の底から湧き上がる情熱を感じてきた。今こそが自分の人生の転機なのだろう。
8
「プロデュース…ですか?」
秀雄は聞きなれない言葉を耳にして意味が理解出来なかった。
「うん、キミ自身に商品価値を付けるのさ。今僕は何処に店を出そうと固定客が来てくれる。例えば単にポルシェの改造を相談したければまず近くの店を探すだろう?僕のお客たちはそうではなくて、僕の作るポルシェだからこそ興味があるのさ。それは言い換えれば僕自身が商品ブランドなのさ。だから多少高くてもお金を惜しむことをしない。まあカリスマって感じなのかな。僕の場合は意識してそうなった訳じゃなくて、気が付いたらそうなってたんだけど。最近では優子さんの存在も大きいよ、伝説のクイーンだからね」
「あら、アタシギャラもらってないわよ?」
「その分タダで車整備してるでしょ?」
フフッ、と優子が笑った。
「こうなってみて、僕はどうすればカリスマを作れるか分かるんだ。だからキミをプロデュースしてカリスマにしてみたいと思うのさ」
「僕がカリスマですか?そんなスター性ないと思うけど…」
「うーん、目立ちたいとか、チャラチャラした感じはダメなんだ。逆に安っぽい。本物にこそ人は魅力を感じて付いてくるのさ。キミにはその本物の資質がある。誰かを騙したり裏切ったりしないだろ?実は地味でも真面目で誠実なことが大事なのさ」
「まあ、地味で真面目というところは当て嵌まりそうですね」
「じゃあ了解ということでいいかい?」
秀雄は「はい」と頷いた。
「OK、では具体的なプランを話そうじゃないか」
秀雄は身を乗り出して公二の話を聞く。
「平たく言えば、僕と共同出資でパートナー経営者になってもらいたい。あのサニーバンの出来栄え、結構一目置いてるのさ。国産を弄るのもいいけど、色んな面で外車の方がやりやすいけどね」
いきなり凄い話だ。
「キミは3ヶ月で手持ち資金を倍にしたいんだろう?通常ははっきり言って無理だよ。僕のように上手く30%の利益を出すとして個人では満足いく1台を仕上げるのに2ヶ月は掛かる。毎晩徹夜したって1ヶ月が限度、体も壊すよ。1000万の仕事を請けられたとしても3ヶ月後の利益は300万さ、アウトだね。さらに1000万の仕事なんてまずない。僕の場合は大体その半分がいいところだ。後は人手を増やしてじゃんじゃん仕事をこなして、数で勝負って手も考えられるが、そんな有能な従業員なんてなかなか見つからないさ。それが出来れば僕がとっくにやってる。なんせ2年分のバックオーダー抱えてる現状だからね」
「そうですよね…」秀雄は望みを断たれた気がした。
「いや、通常はと言ったろう?僕はキミに何か特別なものを感じるのさ、通常ではない何かをね。まあ運みたいなものかな。それに興味があるのさ。それでまず、キミのブランドをどうするかだけど、何か人生懸けて打ち込めるような車ってあるかな?」
「あります!」
秀雄は元気良く答えた。昼間の鷹応の話が繋がってくる。
英国に飛んだバイヤーの寺内から連絡が入った。
「運良く見つかりました。高齢のオーナーが亡くなって遺族が手放したいらしいです。オークション相場が1,500万円程度ですが、1,200万で話を付けられそうです」
「うん、じゃあそれで決めちゃって」
電話を切った公二がにこやかに秀雄に振り返った。
「やっぱりヒデは何か持ってるよ。僅か55台しか作られなかった車がすぐに手に入るなんてね」
秀雄が欲しいと願ったのはロータス47、一般的にロータス・ヨーロッパとして知られるスポーツカーのレーシングバージョンだ。ベースとなったヨーロッパSⅠ、ロータス46のスタイルを踏襲しているが中身は全くの別物。ロータス46は市販車として画期的なミッドシップカーで、FRPボディーの採用で610kgに抑えられた車重がもたらす優れたハンドリングで世界を魅了した。だがエンジンは僅か82馬力の非力なルノー製1.5リッターだったため欧州の並み居るスポーツカーたちにはどうしても見劣りし、レースでの活躍は望めなかった。そこでチャップマンが送り出したのが177ps以上を絞り出すコスワース1.6リッターエンジンを搭載したロータス47だ。ボディーのFRPは薄く改良され、車重僅か558kg、最高速度は185km/hから266km/hに引き上げられた。F1に匹敵するリアの4リンクサスペンションやヒューランド製5速トランスミッションなどの採用で公道を走るフォーミュラーと称されたがそれは掛け値なしの評価である。ブレーキの耐久性に難があったものの、格上クラスを上回る性能でレースでは常勝車の一角を占めた。秀雄はロータス・ヨーロッパの世界一低い車体を格好いいと思ったが、皮肉なことにヨーロッパは独特なリアクォーターピラーの形状から「世界一速いバン」と称された。
「ここへの出資金が300万で合わせて1,500万か。この後の出費も考えて古宮氏から2,000万借りるのがいいんじゃないかな。ロータスは多少割高になるけど航空輸送しよう。軽く点検して早速行動に入るよ」
公二が楽しそうに話す。ショップの名前は「Koji & Hide」にした。
客の一人がプランに協力してくれることになった。映画監督を目指している辻という男だ。「とりあえずさ、色々撮っておいてよ」という公二の指示で辻はハンディビデオカメラを手に秀雄に密着する。
公二はショップに寝泊りしているので秀雄もそれに付き合おうかと思ったが、高志や修三、玲二たちが京都に戻ってまた洋館に早紀子が残される形になったので、秀雄は早紀子に寄り添うために洋館に住んだ。早紀子のジャガーEタイプSr.1はショップのショールームに優子のポルシェとともに飾られ、高級感を演出している。早紀子の症状は安定しているので、秀雄と共にショップで過ごす日課となった。ロータス47を待つ間、秀雄はサニーバンで海岸線の道路を走りこむ。その間、早紀子は柳夫妻のマリンショップで秀雄の走る姿を眺めていた。早紀子の目にも日に日に秀雄の走りが洗練されていくのが分かった。
10日程でロータス47は秀雄の下に届いた。美しいライトブルー、エンジンも問題なく始動し、このまますぐに走行出来そうだ。本格的なレストアの必要はなさそうなので、オイル類を交換し、ショックアブソーバーとブッシュ類を新品に換えた。
「この色って、僕らが最初に夕食を共にした日の二人の服の色だね」
秀雄は早紀子にそう言いながら、運命的なものを感じた。
雑誌を調べると、チャップマンクラブという集まりがサーキット走行会を開くという案内があったので、秀雄はロータス47を持ち込むことにした。ナンバーを取得していないのと、無駄な走行を避けるために、ショップの車載車に載せ、辻と二人で出向いた。幸いにも飛び入り参加が許されたので、秀雄はパドックにロータス47を持ち込む。そこには本物かレプリカか分からないロータス47が数台並んでいて、オーナーたちが談話している。
「やあ、あなたも47ファンですか。やっぱりこれですよね」
秀雄はクラブ員たちが話し掛けて来るのを適当にあしらい、真っ先にコースインすると数周暖気走行して1周だけ全開で走り抜けた。従来のサーキットレコードを遥かに上回るとんでもないタイムだが、その時は誰も気に留めていなかった。辻はその様子をしっかりとカメラに収めている。二人は「用事があるので」とさっさとサーキットを後にした。騒ぎが起きたのはその後だ。ロータス47を気取るクラブ員たちが何度トライしても秀雄のタイムに遥かに及ばない。みんな秀雄の車を自分たち同様ヨーロッパSⅡをベースにした47レプリカだと思っていたので何者だとなったのだ。
そんなことを数回繰り返すうちに、秀雄の噂は尾ひれを付けて広まった。それを見計らって、公二は馴染みの雑誌に頼んでショップの紹介記事を載せてもらった。「かのポルシェのカリスマ公二がロータスのヒデと組んだKoji&Hide」、そこにはショールームにポルシェやジャガーと並んだライトブルーのロータス47の写真が掲載された。
数日も経たないうちにKoji&Hideに新しい客たちが訪れる。ブルーのロータス47をしげしげと眺め、秀雄を捕まえて聞いた。
「サーキットを荒らしまわってるロータスヨーロッパってこれですよね?ひょっとして本物のロータス47じゃないですか?」
秀雄は「どうぞ」とエンジンルームを開ける。驚愕の声が上がった。そこには彼らが目にした事のないコスワースとヒューランドミッションが載せられていたからだ。
9
本物の魔力は大きく、秀雄のところに数件ロータス47レプリカ制作の問い合わせと注文が入る。正確なモックアップをベースに正確なロータス47のFRPボディーが作れるからだ。秀雄は詳しく客たちの望みを聞き、ヨーロッパSⅡ持込で外観のみのレプリカを200万、エンジンや足回りをチューンアップしたい場合は300~400万程度で受注した。ビジネスは順調にスタートを切ったが、それでも3ヵ月後の売り上げ試算は1,000万円に満たず、経費を差し引けば250万円程の利益、高志の要求には全く答えられない。月日は矢のように過ぎ去り、約束の期限がやって来た。秀雄はやれることはやったという満足感を得ながらも、早紀子の事は諦めるしかないなと高志と向かい合って座った。
「報告を聞こうか?」
秀雄は高志を真っ直ぐに見つめて、「駄目でした」と答える。早紀子は両手で顔を覆う。高志は高らかに笑った。
秀雄は駄目もとで懇願する。
「あと1ヶ月、いえ、あと2週間時間をくれませんか?そうすれば何とかしてみせます」
以前の秀雄なら考えられない行動だ。簡単に引き下がっていただろう。
公二のプランにはこれから収穫に入るものが残っている。辻が撮影した映像を元に、ドキュメンタリー映画を編集して上映するのだ。しかしながら辻の拘りでまだ完成に至っていなかった。映画が上映され、運よく観客が入ってくれれば秀雄には分配金が入る。予算の関係でほとんど宣伝が出来ないから確実に期待できるものではないが…
「悪足掻きは必要ない」
高志にピシャリと撥ねられて、秀雄はやはり駄目かと目を閉じた。この場から早紀子を連れ出して何処かへ逃げたい衝動に駆られる。
「私はね、キミが誤魔化しを図るだろうと探偵を雇って監視させていたのだよ。ところがどうだ、キミは真っ向から私の無理難題に挑んで来た。そして今日も逃げ隠れすることなく、こうして正直に負けを認めに来た。家柄がどうのと言っていたが、私はキミの誠実さと男らしさに惚れ込んだよ。どうか早紀子を宜しく頼む」
高志は秀雄に深々と頭を下げる。
「え!」
「お父様!」
秀雄と早紀子が同時に声を上げた。
「この館は二人の新居にしたまえ。たまに私らが顔を出すのは構わんだろう?」
「もちろんです!」
秀雄は満面の笑みで答え、早紀子は高志に抱きついた。部屋は祝福の拍手で包まれた。
終わり







