巨大なる闇

 

ズズズズズ・・・・ン!

大地が揺れ、衝撃波が低空を伝う。フライングシャトーは墜落で生じた巨大な水柱と土砂の煙幕にその姿を消した。砂漠の浅い湖に10mを超える砂混じりの津波が同心円状に走る。

アキヒコたちは空中に浮かびながらそれを見ていた。偶然か、運命か、サタンの築いたムー文明を垣間見てしまったルビンスキー伯爵。その捻じ曲がった人類愛と未知なる物への好奇という執念が作り上げた虚栄の城が今、崩壊した。

「(やった!アメリカ万歳!人類万歳!)」

燃料の尽きかけたF-14トムキャットからの無線が飛び込む。セネガル中隊長の声だ。ワシントンウイルスに対するワクチンの目処も立ち、人類はこれでひとまず滅亡の危機を逃れたという安堵が広がる中、アキヒコはじっと土砂のキノコ雲の中心を見詰めていた。

 

徐々に閉ざされた視界が回復する。フライングシャトーは落下の衝撃エネルギーで出来たクレーターの中央で、半分以上砂中にめり込んでいた。

《シュナイザー、いや玄蘒武炫か・・クレーターの北へ回ってくれ。》

アキヒコがテレパシーを送る。

《随分懐かしい呼び名だな。まあいい、それよりどうして・・・》

《いいから!アン、キミは東側だ。》

玄蘒武炫の問い掛けを封じるようにアキヒコは念じた。

《うん、了解だよ。》

蒼鱗龍娯は胸が熱くなるのを感じながら答えた。チューリッヒの夜、し損ねたキスを思い出す。

《マユニネン、西側へ》

《分かった。》

白牙虎鉧がByakoの翼を翻した。

《これがおそらく・・・俺達の最初で最後の大仕事になると思う。これが終わればもう・・・玄蘒武炫も蒼鱗龍娯も白牙虎鉧も必要ない。キミたちは元のミカエルに、アンに、ヤンに戻ってくれ。ここまで付き合ってくれてありがとう。》

アキヒコはSuzakuをクレーターの南に移動しながら3人に話し掛けた。

《なんか淋しい言い方だな、水臭いぞ。お陰でいい経験が出来たよ、アキヒコ・・だろ?》

玄蘒武炫のテレパシーの直後、下方に異変が起きた。フライングシャトーの周囲の砂が動き、何かが這い出て来る。

『やはり・・・来たな!』

アキヒコの心配通り、全身を砂塗れにしたラプトルが大きく天に向けて咆哮した。2匹、4匹、・・10匹・・・次々と現れるラプトル。グズグズしては居られない。アキヒコは4機がほぼ正方形の隊形についたのを確認した。

《みんな、地面すれすれまで下降してくれ。》

クレーターの中心にあるフライングシャトーを囲み、4機は地上5mに停止した。ラプトルが異変に気付き、4機に向けて突進を開始する。

《いくぞ、強く心を一つに・・・》

アキヒコの元に3人の心が届く。Suzakuが紅く輝き出した。Souryuも青く、Genbuは黒く、Byakoが白く光を放つ。

バチバチッ

激しい放電音が響き、4機の間に青白い稲妻が走った。稲妻は太さを増すと、それぞれの頂点から中央に向けて一斉に放射された。ラプトルが猛り狂った表情で大きく口を開けてSuzakuに向けてジャンプしてきた。

ピカッ!

激しい閃光の後、アキヒコの目の前にこれまで見たこともない巨大な黒球が出現した。飛び掛りかけたラプトルが断末魔を上げる間もなく飲み込まれる。

《うわぁぁぁぁ・・・・》

白牙虎鉧の驚きの悲鳴が上がった。突然広がった漆黒の壁、突進してきたラプトルの凍りついた感情が通り過ぎていった気がした。

《動かないで!隊形を崩しちゃいけない!》

アキヒコが強く3人に念じた。Suzakuの先端数センチに巨大な闇が口を開けている。自分達が怯めばこのとてつもないブラックホールは地球そのものを飲み込むように動き出すだろう。

 

数分が永遠に感じられた。

直径10kmもの巨大ブラックホールは砂漠に突き刺さった山を飲み込み、とてつもない深さの穴を残し、音もなく消えた。

 

 

光速への挑戦

 

《行くのかい?一人で・・・》

蒼鱗龍娯が心配気に問い掛ける。

《うん、多分みんなには無理だからね。》

アキヒコが答える。

人類を脅かす最大の危機は去ったと言えよう。大きな傷跡を残したが・・・。だが自分にとっての最大の試練はこれからだ。復興への熱意を育むべく失意と悲しみに暮れる人々から見れば点ほどのちっぽけなものだが、アキヒコにしてみれば何より大切な存在。そう、白布衣日夜子、かすみとリエを命に代えても救いたい。

《紗端の言葉を信じれば、日夜子を包んだカプセルはあと十数時間ももたないだろう。尤も時空の向こうで時間と言う概念がどう働くのかさえ分からないが・・・。とにかく俺は時空への旅に挑むよ。今すぐに。》

アキヒコの心にはSuzakuで海底深く沈んだ時に感じた感覚があった。朱雀の記憶、光と同化する一体感・・・。そう、Suzakuをいくら加速しようとそのままでは光の速度には到達できない、それが今アキヒコには理解できた。自分にだけ見える光の道・・・そこに鍵があるような気がする。

『多分それだ・・・』

朱羽煌雀の意識が語りかける。

『ああ・・・』

アキヒコは旅立ちに向け一瞬目を閉じた。高まる気持ちを抑えて心を静かにする。この先僅かな狂いが何を引き起こすか予想もつかない。

《みんな、今までありがとう。あとは任せたよ。》

気持ちを一つにした仲間たちに最後になるかもしれない挨拶を送る。

《気を付けて・・》

《無事に戻れるさ》

《また4人でレースをしたいな》

誰もサヨナラは言わない。だがアキヒコにはこれが事実上の別れであるという予感があった。心の中でそっと呟く・・・

『さようなら・・・』

 

アキヒコは目を見開くとSuzakuのパワーを全開にした。目の前の景色が絵の具を溶かしたように流れ出す。とてつもない加速に首が痛み、背中の骨が軋む。すぐに音速を超え、メーターの針が上がり出した。この先障害物があっては厄介だ。アキヒコは高度を上げ、成層圏に入れた。マッハ10・・100・・1000・・・Suzakuの機体は薄い空気との摩擦で灼熱の炎を燃やしている。鏡水で覆われた表面がその熱エネルギーを跳ね返す。朱雀もこうして空気の壁を破りながら光速に向けて加速したのだろう。地上からその姿を見ればまさに“火の鳥”・・・。

やがてアキヒコの脳裏に光の帯が見えてきた。それは何かを避けるように大きくうねっている。それはおそらく地上からの磁場の強弱によるものなのであろう。一見真直ぐに飛ぶことが2点間の最短距離と思われるがそうではない。我々の存在するこの世界においては光こそが最速であり、その道筋こそが最短のルートなのである。目に見えるもの全ては光の作り出す映像であり、必ずしも実像とは限らない。磁場のような目に見えないエネルギー波の影響で空間が捻じ曲げられ、目で見た情報が正しくなくなるのだ。そして今現在、重力という大きな磁場に支配されながら地球の周りを旋回しているのだ。

アキヒコは大空のハイウエイを滑走するように、気持ちよく光の帯に沿ってSuzakuを舞わせた。やがてスピードが増すにつれ大きなうねりとは別の、ゆったりとした小さなうねりがあることにアキヒコは気付いた。ほんの僅かな、ぼんやりとしたら見逃しそうな微妙なうねり。メーターはマッハ10万を指している。ここ成層圏では光の速さのおおよそ10分の1、常識からすれば素粒子の世界であり、形有るものの到達できる領域ではない。

『これだ!』

朱羽煌雀の意識が叫ぶ。アキヒコも同感だった。光は波なのだ。光と同化するということは、光が持つウェーブに動きを乗せなければならない。正確に、寸分の狂いの無いリズムで。アキヒコは研ぎ澄まされた感覚でその光のリズムを体に刻み込む。スピードが高まるにつれ、ゆったりしたリズムがはっきりとしたアップテンポになっていく・・・そう思ったアキヒコの期待は裏切られた。マッハ30万、50万、70万・・・いまや音は消え去り、静寂の世界が広がる。速度が上がっても光自らの僅かなうねりはほとんど気付かないほどのゆったりとしたものだった。

『時間の流れが変わっているんだ・・・』

アキヒコは直感的に気付いた。空間が歪めば時間の流れは変わる。それは自らオーラの磁場で実証済みのことだ。今アキヒコが感じる1秒は地球固有の時間にすれば限りなくゼロに等しい。アキヒコはとにかく体に刻んだリズムをSuzakuの操縦レバーに正確に伝えることに集中した。

内部で発する光子を漏らさないように改良されたSuzakuは完璧のようだ。コクピットの中にチラホラと小さな光子が浮遊し始めた。外は実に神秘的な景色に変わっている。水に七色の絵の具を溶かしたようなぼんやりとやや薄暗い光のベールに包まれている。可視光線に近い速度で飛行しているために、反射の影響で青く見える空が消えたのだろう。メーターはマッハ90万、95万・・・自分の体が幽霊のようにぼうっと光ながら透けて見える。Suzakuもまるで電飾を纏ったガラス細工のようにチカチカ輝きながら透明感を帯びてきた。光の速度にあと一歩・・・だがメーターの針はマッハ99万で停止した。それ以上進む気配はない。

『どうなっているんだ・・・』

アキヒコの心に焦りが生じた。操縦は完璧のはずだ。光の波長にSuzakuの“揺れ”を完全に一致させている。やはり物体は“光”には成り得ないのか・・・。

『そうだ!最後の神宝だ!朱雀の第3の目を見ろ!』

朱羽煌雀の心の叫びに、アキヒコは操縦レバーを両膝で挟んで操りながら背後に置いた木箱を手探りで膝の上に手繰り寄せた。片手で蓋を開けると例の紅い球体が現れた。かつて朱雀の胸に埋っていた第3の目の虹彩がオレンジに光を放っている。自由を得た目はゆっくりと木箱から浮上すると、アキヒコの眼前でそこが定位置とばかりに浮遊しながら停止した。オレンジの虹彩は中央で振動するように小刻みに揺れ動いている。

『その揺れを止めるようにSuzakuをフライトさせるんだ!』

朱羽煌雀の思いにアキヒコは頷いた。

 

 

未知の世界

 

紅い目に全神経を集中させる。頭で考えていては駄目だ。振動する床の上でコップに並々と注いだ水を1滴も零さないように歩く、床から伝わる微振動を体の節々で消していく、そんな神技が今のアキヒコに要求されていた。操縦レバーを握る手に力が篭る。オレンジの虹彩の振動は逆に大きくなる。

―クソ!

アキヒコは自分を詰った。こんなことも出来ないのか、日夜子を、いや、かすみとリエを命に代えても救おうと思った気持ちは嘘だったのか!

《もっと優しくしなくちゃダメよ、アキヒコ・・・》

―!

かすみの声が聞こえた気がした。おそらく空耳だろう、だがそれを切っ掛けにアキヒコの心には懐かしいかすみの歌声が響き始めていた。『ウイング』、アップテンポなラブソング。アキヒコは左右の足でリズムを取るように交互にコクピットの床を踏む。操縦レバーを握る手の力がスーッと抜けた。オレンジの虹彩の振動がゆっくりと収束していく・・・。

アキヒコの目に映っていた光の道が突然プッツリと無くなった。一瞬の出来事、目の前に人工衛星の残骸が立ち塞がる。この速度での衝突は死を意味する。声を上げる間もなく恐怖が観念に変わった時、それは起きた。コクピットの外、ゆったりと後ろに流れていた光のベールが逆向きに動いたかと思うと爆発に似た光の洪水がシールドを突き抜けてアキヒコの網膜を襲った。キーンという耳鳴りと天地が引っくり返った様な激しい眩暈とともに体中の血液が沸騰するような違和感に襲われ、失神寸前の状態だ。スーッと重力が消え、空中に浮遊しているむず痒い不安定感に包まれる。Suzakuの加速Gも消えた。夢と現実の境界線が曖昧になり、自分の存在自体が分からなくなる。

 

―死んだ?

アキヒコは自分に問い掛けてみる。何も見えない。暗闇ではない、逆に明る過ぎて何も見えないのだ。指先を動かし自分の体を触る。そこには確かな感触があった。

《やったよ、飛び越えたんだ、時空の壁を!・・・》

先程までとは違い、朱羽煌雀の“声”がはっきりと聞こえる。その興奮がアキヒコに伝わり、体中に鳥肌を立たせた。

《ここが“もう一つの世界か”・・・まったく覚えていないな。》

朱羽煌雀が呟く。アキヒコはゆっくりと目を開けた。圧倒的な光に打たれた網膜はまだ機能を取り戻せないが、自分と半分重なりながら分離した人型の靄のようなものが感じられた。

《正確には“もう一つ”じゃなくて、“他の一つ”だよ。》

驚いた事にルシフェルのテレパシーが響いた。いつの間にかアキヒコに寄生していたのだ。

《そうだな。ここは“陽”の物質空間を越えた時空の世界らしい。“陰”の側にも同じく2つの世界はあるだろう。ひょっとしたらもっと多くの世界があるのかもしれないが・・・》

朱羽煌雀がルシフェルと“会話”している。

《わしらが陰陽道で“陰”としていたのは、ここと対をなす別の時空なのでしょうな。こんなに温かくて居心地のいい世界はこれまで味わったこともない。》

自ら朱羽煌雀に生体エネルギーを捧げ、同化した宗陰の“声”だ。再び分離し、“個”となったのだ。

狭いコクピットの中で、アキヒコから分離した3人の意識が重なり合いながら確かに存在していた。ルシフェルの身じろぐ動きが痒さとして伝わってくる。体の中に別の体がある、言葉ではそうとしか説明しようがない。

光の衝撃に麻痺していた目が次第に回復するとともに、アキヒコにも周りの風景が見えてきた。ピンクの柔らかな光のシャワーに包まれた静かな空間。直径30m程度の球体の部屋のようだ。Suzakuはその中央に停止している。淡いピンクの壁はゼリー状のようにも見えた。アキヒコはSuzakuのスロットルを全開にしてみた、が、機体はピクリとも動かない。

―どうなってるんだ・・・

光の速度を超え時を超えて時空と呼ばれる世界に飛び込んだはいいが、物質世界の常識が通用しない未知の空間に戸惑いばかりが湧き上がった。その時突然紅い目の虹彩が眩い金色に輝き出した。

《何か来る!》

朱羽煌雀が叫ぶと同時にゼリー状の壁の向こうから金色の光に包まれた何かが飛び込んできた。部屋の壁が一気に遥か彼方へ広がり見えなくなる。金色の光はSuzakuの正面に近付くと、ゆっくりと停止した。光が弱まると遥か彼方に押し退けられた壁が再び狭まる。最初よりやや大きめ、50m程のところで均衡を保つように縮みは止まった。光の中にぼんやりと鳥のような姿が見える。玉飾りを付けた長い2本の尾、それが何かは瞬時に感じ取ることができた。“意識”の創造主、“神”朱雀だ!

アキヒコはこれまで経験したことのない極度の緊張感に襲われた。抗うことの出来ない絶対的な存在が今目の前にいる。恐怖はない。むしろ自分の生きてきた過去への羞恥心と得体の知れない罪悪感が沸々と込み上げ、全てを洗い浚いぶちまけて赤子のように素の裸になりたい心境だった。朱羽煌雀、宗陰、ルシフェルの意識からも同様の緊張が漂っていた。朱雀はゆっくりと首を振って4つの意識を見回し、鋭い嘴を開けるとキラキラ光る黄金の塵のようなものを吐き出した。塵はSuzakuの機体を通り過ぎ、アキヒコの体や朱羽煌雀、ルシフェル、宗陰の霊体に纏わり付くと探るような点滅を繰り返して消えた。

《よくここまで辿り着きましたね、朱羽煌雀、そしてあなたたち。》

朱雀がテレパシーを発した。例え様の無い安堵がアキヒコの心に広がり、目から涙が溢れた。まさに“神”の声、この天国への侵入を無事許されたのだ。

《今あなたたちの記憶を隅々まで調べました。私が何かは説明する必要もないでしょう。私はこの時空を守る者として常に進入物と排出物をチェックしています。“言葉”を話すのを不思議に感じているようですが、私はあなた方の知能の奥深い部分に直接刺激を与えているのです。》

何を考えているかも全てお見通し。生命を作りし神の所業。

《朱羽煌雀、いえ、今はアキヒコと呼ぶべきでしょうね。あなたがこうして “生身の体”でこの時空に入れるかどうかは大きな賭けでした。時空と“下界”との出入りには浄化の法則があります。もともとは紗端の侵蝕を防ぐために私が作った防護策、あなたがたが住む“下界”からこの時空へは、肉体を失った意識だけが素粒子分解で清められて初めて入ることができます。時空で素粒子は再び融合甦生して意識となり、記憶を全てリセットされて“下界”に出て行きます。唯一の例外であった私自身も細胞の超再生機能を失い、この時空に最後に帰還するために体を燃やし尽くしました。それ以後“下界”を巡回出来なくなり、今は全く様子を知る術を持ちません。紗端は常に“下界”と延いてはこの表時空への侵入を狙っています。現に今もアキヒコの意識とルシフェルの意識には紗端の痕跡が蠢いたので浄化しました。二人の強固な意志によって完全に封じられていましたが。》

そう、“罪悪感”の正体は紗端の爪痕だったのかもしれない。

《私は“下界”の異変に備えて唯一の手綱を朱羽煌雀、あなたに託しました。磁界図の乱れに応じて転生したあなたがこうして生身の意識で時空に来れた事は、あなたの“下界”での努力と工夫が正しかった事を意味しています。本当によくぞ戻って来ました。》

朱雀の金色の光に照らされていると、このまま永遠にこうして居たい気持ちに駆られる。ここに居ればありとあらゆる不安から救われる、生まれる前の原体験がそれを教えていた、だが・・・。

「俺たちは、いえ、俺はやらなければならないことがあります。もう一つの時空へ移行し・・・」

《分かっています。日夜子を救いたいのですね。》

アキヒコが思いを言う必要はなかった。

《その素晴らしい飛行道具は私がやりたくても出来なかった裏時空への侵入を可能にするでしょう。そしてその時こそ“下界”を脅かす紗端と完全なる決着を付ける時なのです。紗端の全容は私にも分かりません。ですが、私が、そして朱羽煌雀あなたが“下界”での悠久の時を使い育んだその飛行手段は、私たちのみならず大いなる地球の意思にも基づいたものなのです。今を逃してはなりません。》

アキヒコの心に大きな不安が広がる。紗端との完全決着・・・そんなこと考えてもみなかった。

《紗端を消滅させることが出来れば紗端の意思によって起きた東京壊滅を未然になかったことにも出来るのですよ、アキヒコ。》

―なんだって!

朱雀のその言葉はアキヒコの暗く沈んだ悲しみに眩い光を投じた。母高野良子や三隅社長やミッチの顔が次々と微笑みかけて行った。

《いいですか、あなたが自らの手で紗端を消滅させた後、もう一度“下界”に戻るのです。それが出来ればあなたが“下界”に戻った時間から先は紗端の関与した出来事はリセットされている筈です。つまり東京が壊滅状態になる前の時刻に戻るのです。そこから新しい時間が始まります。》

―だとしたら・・・

《そう、かすみの死も紗端の指示ですからリセット可能です。》

―では日夜子を救う必要も・・・

《いいえ、日夜子の件は朱羽煌雀、あなたが引き起こしたのです。紗端を倒し、モナコのレース以前に“下界”に戻ったとしても、このままでは祝賀パーティーの後にかすみとリエは霧のように消えてしまうでしょう。シールドの保護があるうちに日夜子を救い出して“下界”に戻す必要があります。》

朱雀に聞きたいことが次々とアキヒコの頭に浮かぶ。それを口にしなくても、朱雀は答えをくれる。

《もう少しあなた方の“宇宙”の構造を知っておいた方がいいでしょうね。宇宙は無限の空間のように感じるでしょうが実は閉ざされた閉空間なのです。両端の繋がったチューブをイメージしてもいいでしょう。チューブはもう一つあり、それは反物質と呼ばれるものを包んでいるのです。チューブはお互い螺旋のように縺れ合い、クロスし、そこで激しい中身の交換が行われています。かたやこちら側から反物質宇宙への通路であるブラックホール、他方は反物質宇宙からこちら側への通路であるホワイトホールです。物質を構成する粒子のスピン、全てはそれにより始まります。私達の宇宙と反物質の宇宙ではこのスピンが全く逆なのです。ブラックホールやホワイトホールではスピン変換を行うために粒子を極限まで圧縮し、動きを止めてしまいます。そこで放出される膨大なエネルギーが、物質と反物質のぶつかり合いによって生じる電界磁場を捻じ曲げ、亀裂を作り出しています。それが時空のルーツなのです。》

《時空は全てが繋がっている訳ではありません。ブラックホールやホワイトホールの周りには大きな時空ができ、ホールからエネルギーを注ぎ込まれてどんどん拡張しています。あなた方は宇宙がビッグバンによって誕生し、膨張していると考えているようですが、膨張しているのは宇宙空間ではなく、そこに隠れている時空なのです。電界磁場の亀裂はもちろん反物質の宇宙にも生じています。それが裏の時空です。》

《時空は恒星や惑星といった宇宙規模では小さな磁場の周囲にもあります。それらはそれぞれが独立気泡のような存在で、その星々を包んでいます。ここは地球という星を囲む独立時空。ここには“下界”で言う時間という概念がありません。浮遊する光子と共に漂えば“下界”と時を共有します。光子流より速く進めば“未来”へ、逆行すれば“過去”へ行く事も出来ます。》

《あなたに授けたブラックホールを作り出す能力、それは時空の特異点を使ったものです。この時空と紗端の住む地球裏時空には極点ともいうべき近接点があります。あなたの作り出す波動はその極点を引き寄せ、更に磁場を乱すことで “下界”から裏の世界に直結したトンネルを出現させます。その“穴”に触れた物質はスピン変換を受けて消滅するのです。スピン変換を防ぐ電磁シールドが妨げとなって、日夜子は裏の世界には飛ばされず裏時空の何処かに留まっているでしょう。時空には時間は存在しません、ですがエネルギーは消耗します。日夜子を包むシールドは確実にエネルギーを放出し、消滅するでしょう。シールドのエネルギーが切れないうちに裏時空へ行き日夜子を救いなさい。裏時空へは唯一極点周辺に時折生じる磁場嵐から入ることが出来るはずです。》

―ではそこからこちら側へ戻ってくればよいのですね

《いいえそれはおそらく無理でしょう。極点は小さな渦巻き型ブラックホールにホワイトホールが包まれた形になっています。こちら側へ戻るための空間の乱れはホワイトホール周辺に生じるでしょうが、そこに行くためにはブラックホールを横切らなければならないからです。エネルギーを含めあらゆるものは渦巻き型ブラックホールの超重力場に逆らう事は出来ません。掴まったら最後、そのSuzakuや電磁シールドさえも微塵に砕かれ、スピン変換を受けて裏世界に弾き出されるでしょう。残念ながら私にもあなたの帰路は分からないのです。》

それはアキヒコ達に対して死地への旅を命じるものだ。こちら側への帰路があるとすれば紗端が既に侵入を試みている筈ではないか・・・。

《朱羽煌雀あなたは私の分身です。裏時空の紗端を征伐しなさい。宗陰、ルシフェル、あなた方はこのままここに留まる事も出来ます。そうすれば再び新しい命として下界に輪廻させましょう。アキヒコ、あなたは朱羽煌雀から自然分離した意識ですが今は立派な“個”です。あなたにも残る選択権はあります。》

朱雀が優しく問い掛ける。

《その輪廻した世界に希望はあるのでしょうか?ラプトルを倒し、ウイルス撲滅の目処を立てたとはいえ、裏時空に紗端の在る限り飽くなき魔の手は人類を脅かし続けるのでしょう。そんな世界に生きたいとは思わない。俺は・・・最後の一時でもいい、もう一度かすみに会うために裏時空へ行きます。》

《ワシも行きます。》

《僕もだ。》

アキヒコのテレパシーに宗陰とルシフェルも同意した。

《分かりました。では再びその体に同化しなさい。より強い意識がその体を支配し、他の者は従ずるでしょう。》

 

4つの意識が再び重なる。軽いショックの後、アキヒコは体の感覚がそのままであることを知った。かすみとリエへの強い思いがアキヒコの意識を最前面に押し出したのだろう。

《アキヒコ、あなたの記憶中枢にはこの時空で必要な事が既にインプットされました。ただし裏時空ではそれらの事は一切通用しませんよ。》

アキヒコは頷いた。確かにこのゼリー状の壁を抜けるにはどうするか、そして壁の向うに何があるか、そういった事があたかも体験したかの如く記憶として残っている。

《大いなる勇気を持って道を選択したあなたには包み隠さず伝えましょう。近いうち予測できない大異変が訪れます。今のままでは地球に未来はないかもしれません。紗端を倒す事、それが唯一世界を救えるのです。では行きなさい。その身に加護のあらんことを・・・》

“神”の後押しを受け、アキヒコは精神をSuzakuの推進力へと集中させた。

 

 

光子流へ

 

アキヒコは全開になっているSuzakuのスロットルを一度閉じた。ピンクのゼリー状の壁が狭まり、見る見るSuzakuに迫り来る。アキヒコは朱雀から与えられた“記憶”を信じ、押し潰される恐怖に耐えた。視界を塞ぐ壁に息が詰まりそうだ。極限の圧迫感を迎えた瞬間、突如様子が一変した。

ゼリー状の壁はSuzakuを舐めるように探ると消え、目の前には幻想的な風景が広がっていた。空間を包む温かい太陽のような光、所々に透明な球体が浮かび、中に無数の輝点が蠢く。球体は巨大だ。一つ一つが月ぐらいの大きさはあるだろう。それらは白く光るケーブルで結ばれ、お互いの行き来を可能にしていた。

―魂の安らぐ場所、天国・・・

自分を取り巻く状況を記憶が教える。Suzakuは光速を超えた瞬間光子流に飛び込み、異質なものとして膜に包まれ排出された。Suzakuの出力は取り囲む膜を押し広げ、気泡のような状態で為されるがまま静かに時空を浮かび上がって行ったのだ。

アキヒコは幻想の空間に目を細めながら時空の“下方”を思い浮かべる。深く息を吸い込むと、再びスロットルを開けた。Suzakuが時空のエネルギー粒子を吸い込む。消化不良を起こしそうな程芳醇なパワーだ。陽電子反応など不要、エネルギーはそのままSuzakuの推進力となる。天に散りばめられた巨大な水晶の球、暖かな日差しに照らされてその間を自由に旋回しながら、アキヒコは胸の前に停止する朱雀の第3の目を見詰めた。ボワーとした黄色い光がオレンジの虹彩の右隅に現れる。アキヒコはその方向へとSuzakuの機首を向けた。スロットルを全開に。目の前が揺らいで見えた後、眩い光のトンネルが口を開けSuzakuを吸い込んだ。光子流・・・それは時空の血管のようなもの。光エネルギーを提供しながら老廃したエネルギーを取り込み、最後は極点のブラックホールへと排出する。それはまた現実世界と時空との接点でもあり、自在に扱う術を得れば時を旅する夢の通路となる。

曲がりくねる光子流の中、アキヒコは懸命にSuzakuを操る。目を開ける事など出来ない。地上から見る太陽の数千倍の光量だ。今アキヒコの目の前には朱雀の第3の目が覆い被さっていた。朱雀の目は目的空域までの3次元航路を正確に示している。自分の位置が白い輝点、極点付近が黄色い輝点。その間を緑の細い線が縺れた毛玉のように入り組んで結んでいる。朱雀の目は白い輝点の進路が常に正面に来るようにグルグルと回転し、アキヒコを誘導していた。この時空はどのくらいの広さを持つのか・・・。光は1秒間に地球を7周半する。アキヒコの感覚では既に光子流に飛び込んで3分が経過していた。果てしなく広がる宇宙空間、星と星はそれぞれの時空をクッションにくっつき合ってるのかもしれない・・・。気が緩んだ瞬間、Suzakuの翼が一瞬光子流を突き出た。左右のバランスを崩し、激しくキリモミしながら光の中で翻弄されるSuzaku。

―バカ!何やってる!翼を失うなんて・・・

アキヒコは自分に活を入れた。慣れ親しんだ首都高環状線、ペガサスで他の車を縫うようにドリフトさせた光景が思い出される。あれが自分に課せられた訓練だとしたら、全てはこの時の為に有ったのではないのか。荷重バランスを崩した車にカウンターステアを充てるように、アキヒコは操縦桿を握る力を僅かに緩め右足を添えるようにして力のバランスを取った。手足を連動させ、目に映る情報に直接体を反応させる。Suzakuは安定を取り戻し、キリモミが止まった。翼から何かが粒子となって飛び散る。

―マグマ?・・・

目で見たわけではないが、そう感じた。光子流からはみ出したSuzakuの翼は失われたのではなかった。熱く溶けたマグマに触れ、その一塊をぶら下げて光子流に戻ったのだろう。重みがSuzakuのバランスを崩していたのだ。

―それにしても・・・時空は地球の内部にも接しているのか

 

5分も経つとアキヒコは光子流のうねりにリズムを見いだしていた。朱雀の目は自分の目となり、まるで光子流のチューブを直接見ているような錯覚さえ覚えた。肉体を持っていた頃の朱雀はこうして時の旅をしたのだろう、そう感じる余裕も出来た。

黄色い輝点が近付く。アキヒコは光子流のマップを拡大し、時空側への出口を探した。心の中でカウントし、輝点の寸前で一気に飛び出す。

そこはまるで深海だった。辺りは高密度のエネルギーに満たされ、あれほど眩しかった光が届かない世界。下方に雲泥のように広がるのは更に密度を増したエネルギーの塊だ。雲泥は一方向への流れを作っていた。アキヒコはそれに沿ってSuzakuを進める。程無く雲泥は渦を巻いていることがはっきりしてきた。渦は傾き始め、中心部に向けて何処までも深く落ちていく・・・。極点、ブラックホール・・・何処が小さなものか!その規模は驚くほど大きい。直径数百kmはあるだろう。

渦を巻くブラックホールは性質が悪い。周りのありとあらゆる物を強制的に吸い込んでいく。近寄り過ぎは命取り、アキヒコはSuzakuを渦の入り口ギリギリの位置に止めながら様子を窺った。この辺りはまだまだ穏やかだ。中に入ればブラックホールの影響で磁気の嵐が吹き荒れていることだろう。その嵐が作る空間の歪、亀裂こそ裏時空への入り口なのだ。アキヒコはゆっくりとSuzakuを蟻地獄の渦へ投じた。深く暗い穴。一時たりとも油断は出来ない。渦巻き型ブラックホールの重力場に捕らえられたら最後、物質はおろか電波も光も抜け出す事は出来なくなるのだ。

アキヒコは垂直の壁のように立ちはだかる周囲の雲を注意深く観察した。膨大なエネルギーが一方向に流れていく。時折小競り合いのようにぶつかり合い、磁場の乱れを生じていた。

―まだまだこんなもんじゃないな・・・

渦に沿って慎重に歩を進める。かすみとリエの重なった日夜子はこうしている間にも消えてしまうかもしれない、気持ちを急かすその思いをアキヒコは必死に押さえた。Suzakuが磁気流の乱れで揺れ始める。時折走る稲妻は嵐の予感を感じさせた。下方を覗き込むと大きな稲妻が飛び交っている。その電子流は下に捻じ曲げられ、悲鳴を上げるが如く深遠のブラックホールへと吸い込まれて行った。すなわちそこは既にブラックホールの引力圏と言う事だ。手前で上手く磁気の大きな乱れを拾い、空間の裂け目を見つけなければならない。雷の頻度が増え、翼の揺れが大きくなっても裏時空への入り口には遭遇出来なかった。アキヒコの心に広がる焦り、それがSuzakuの機首の傾きを心持ち下げさせた。運命の悪戯か、その時突風のような磁気嵐がSuzakuを襲う。大きく煽られたSuzakuは壁から引き剥がされるように渦巻きの中心に引き寄せられた。操縦桿が固まったように動かない。ブラックホールの底なし沼に足を踏み入れてしまったのだ!

螺旋状の軌跡を描きながら加速していくSuzakuの中で、アキヒコは妙に冷静な気持ちだった。諦めとは違う、逆に最後の機会に躊躇する自分を時空が後押ししただけだという挑むような気分。雷が頻繁にSuzakuをシルエットに変えるが、それでも空間の亀裂は生じない。

―来い、頼む、もっと大きな雷よ・・・

Suzakuが木の葉のように激しく揺れ回りながらブラックホールの中心へと吸い込まれていく。周りのエネルギー密度がグングン上昇するのが感じられた。まるで水飴の中にでもいるようだ。鏡水で保護されていなかったら、コクピットの温度は数百万℃にも達することだろう。ブラックホールとの距離はどのくらいだろうか、眼下に広がる景色は何処までも黒一色、アキヒコは数秒後に待ち受ける自分の消滅を覚悟した。

―来る!

突然アキヒコは感じた。激しい揺れの中のゆったりとした波のうねり、まるで津波の前触れのよう。Suzakuのスロットルを開けてその瞬間を待つ。

バチバチバチ!

凄まじい火花が散った。真横に太い柱のような稲妻が走る。その中央の隙間に見え隠れするマグマのような輝きは別世界の物だ。固まりかけたコンクリートの中でもがくようにアキヒコは渾身の力でSuzakuを旋回させ、一瞬の間を逃さずにマグマに飛び込んだ。

 

 

赤い糸

 

 再び静寂に包まれた。静かなだけではない、何の光もない完全なる暗闇の世界・・・。この感覚は初めてではない。そう、光速を超えて時空に飛び込んだ時、あの時と同じだ。

―裏時空に入った・・・

アキヒコはそう確信した。とすれば今Suzakuは表時空から持ち込んだエネルギーのセルに包まれ、彷徨っているのだろう。

―もう後戻りはない。まずはこのセルの保護から出なくては。

アキヒコはSuzakuのスロットルを閉じる。裏時空に曝されてSuzakuはもつのか?反エネルギーの世界で推進装置は作動するのか?押し寄せる未知への不安がアキヒコの心臓をギュッと鷲掴みする。

ゴゥン・・ゴゥン・・

Suzakuの表面が激しく微振動した。その共鳴音が地鳴りのように木霊する。まるで呻き声のようにも聞こえてくる。保護膜の鎧を脱いだ機体への裏時空の洗礼。反エネルギーという全てを溶かし去る強酸の海に投げ出されたSuzaku、機体に施されたガラスのような鏡水加工がその攻撃を跳ね返していた。今Suzakuは熱く燃えさかり、ぶつかり合う陽電子が眩い光を発しているはずだった。そう、表宇宙、表時空ならそれは正しい。だがここ裏時空は電子スピンが異なる世界、発する反光子は可視と成り得ない。表宇宙で言う紫外線から赤外線を含め、あらゆる光はここでは見えないのだ。果てしなく広がる暗黒・・・、表時空から燃え盛るマグマのように見えたのは反物質に触れて消滅する正常粒子の断末魔だった。アキヒコはかつてリエに連れられた富士の樹海、朱雀の祠への洞窟を思い起こす。あの時自分にとっての暗闇がリエには明るい世界だった。光苔のオーラ・・・。この世界でも何かの切っ掛けで見えるようになるのだろうか。

アキヒコは静かにスロットルを開けた。動いているのかどうか全く分からない。光も音も無いこの裏時空、何かのエネルギーで満ちていることは機体を揺さぶる振動が教えていた。その振動が変わる。

―動いている!

Suzakuは反物質世界のエネルギーでも見事に推進力を得ているのだ。しかしこの位置が裏時空の何処なのか、裏時空の構造がどうなっているのか、そして肝心の日夜子への手掛かりはどうすれば得られるのか・・・、闇の中アキヒコは再びSuzakuを停止させた。無暗に飛び回っても危険を呼び込むだけかもしれない。何を犠牲にしても守りたい、その愛しき人への溢れる想いがアキヒコをここへ飛び込ませた。だが脱出方法も分からない今、このまま永遠にこの世界を彷徨う可能性もあるのだ。ただ後悔は全く無かった。何もしない悔いよりも、少なくともかすみとリエと同じ空間で最後を迎えることだけは出来る。

―かすみ・・・

アキヒコは心の中でそっと最愛の名を呼んだ。完全なる闇は心のスクリーンを呼び覚ます。モナコの悪夢、アスファルトに投げ出されたかすみ。両腕でその体を抱えた重みは遠い過去の記憶に感じる。何も知らずに思い描いた幸せの設計図。

―言ってない!伝えてなかった!

アキヒコの脳裏にあの日の記憶が鮮明に蘇る。モナコの最終レースが終わったらかすみに伝えようとした一言、「結婚しよう」は声に出す機会を奪われ幻と消えていた。

「かすみ・・・かすみー!!」

抑えきれない感情の込み上げに、アキヒコは声を限りに叫んだ。頬を伝わる濡れた感触は自分の涙だ。

 

《ねえ、聞こえない?》

眠りかけたリエの意識にかすみが語り掛けた。

《・・・何?》

果てしない闇に溶け込んで消え入りそうな自分が恐い。もうどのくらいの時間が経ったのだろう。ほの暗く照らしていた光の支柱も消えて久しい。シールドをカリカリと削り取るような気配が限られた時を刻む砂時計を思わせる。一人だったら消滅する前に自分でなくなっていただろう。孤独と闇と無音の相乗効果は想像を越えた恐怖、如何なる精神も狂わせる。ヘレンケラーの苦しみと偉大さを身を持って思い知った。

《誰かが呼んだの・・・アキヒコよ。ほら。》

かすみのテレパシーにリエは耳を澄ませた。しかし・・・。

《私には何も聞こえない。きっとあなたの心の中のアキヒコさんね。羨ましいわ。》

《違う!錯覚なんかじゃない!ここよ、私たちはここよ、アキヒコ!》

かすみはメロディーを奏でた。ウイング、愛しき人へのラブソング。

《ルールルル、ルル、ルルルル・・・

例え あなたが側に居なくても 寂しくなんかないわ 

どんなに距離が離れていても 私には見える

あなたの心に繋がった 切れる事無い赤い糸・・・》

 

アキヒコの耳に心地よいかすみの歌声が響く。

―かすみ・・・

自分の記憶が歌声を作り出しているのは分かっていても、心に温かい風が広がり力が漲る気がした。

「ウイング ルルル 少しでいい

ウイング ルルル 羽ばたいて

ウイング ルルル あなたのもと

私を運べ 心の羽」

アキヒコはかすみの声に合わせて口ずさんだ。体に震えが走り、感動で目が潤む。

―いい歌だ。続きを覚えておけば良かった・・・

いつでも側で聞ける、その思いからアキヒコはウイングのCDをまともに聞いたことはなかった。ラジオから流れるのは大抵1番だけ、自然とそれは覚えていたのだ。

《ルールルル、ルル、ルルルル・・・

赤い 落ち葉舞う公園を二人 歩いた想い出は

私に生きる糧を与えてくれる・・・》

アキヒコの心に知らない筈の2番が聞こえてくる。

―俺の心が奏でてる錯覚じゃない!かすみのテレパシーだ!

アキヒコは歌声に集中し、発信元を探る。

《かすみ、かすみ!俺だ、アキヒコだ。今裏時空に居る!聞こえたら返事をくれ、かすみ!かすみ!リエ!リエ!》

裏時空中に響き渡れとばかりにアキヒコはテレパシーを飛ばした。その波動エネルギーは反エネルギーと激しくぶつかり合い、赤い霧のような微かな光を放ちながらどんどん消滅していく。

―声は二人に届くのだろうか・・・

空間に広がる赤い霧を見詰めていたアキヒコは、不安を払い除けるように頭を激しく振った。愛の奇跡を信じるしかない、かすみの歌声は確かに自分に伝えられたのだ。

 

暗闇の中を細い糸のような赤い光が漂う。反エネルギーという毒の中、その“風”に揺られることで消滅から身を守り、まるで目的地を帰巣本能で知るかのように一心不乱に飛行していくアキヒコの思いの丈。その灯火が消え行く寸前に何かに触れて青白い火花を発した。

《ほら!聞こえたでしょ?アキヒコよ!》

火花に縁取られた電磁シールドの中、かすみの意識が微弱なテレパシーを受け止めた。それは同時にリエの意識にも微かな波紋を起こした。

《空耳じゃないのね・・・何と言う奇跡、再びあの人に触れるなんて!》

現実世界でアキヒコは消え、朱羽煌雀が現れた。自分達も白布衣日夜子という一つの意識に変わった。二度と会えない筈だった魂がこの裏時空でお互い呼び合っている。

《アキヒコ!ここよ、来て!お願い!》

《アキヒコさん、探して!突き止めて!私たちを。》

かすみとリエが力を振り絞り、暗闇に残る赤い軌跡に向けて心の叫びを送った。消え行く細い線を螺旋状に包みながら力強い光が突き進む。オーラを絞り尽くしたリエの体はぐったりとシールドのケージに横たわった。

 

赤い“糸”は反エネルギーの“風”に揺れながらSuzakuに達し、アキヒコの頭に繋がった。まるで目と鼻の先に居るようにはっきりと二人の意識を感じる。

《やったぞ、そこだな!今行く、絶対に助けるぞ!》

アキヒコのテレパシーが赤い糸をより太く紡いだ。それを手繰るようにSuzakuを全速で進める。糸は最早風に揺らぐこともなく真直ぐにピンと張りつめ、Suzakuを導いた。

―間に合え、間に合ってくれよ!

アキヒコの心臓が高鳴り、気持ちが急いだ。今こうしている間にもかすみとリエを包むシールドは消えてしまうかもしれない。二人のテレパシーはあれを最後に届いてこない。急げ!急げ!

 

時間にして僅か10分程度、消えかけた赤い糸の終端が見えた時アキヒコの頬は数ヶ月の絶食でも行ったかのようにこけ落ちていた。青白い火花に包まれたシールド、その光が消える寸前に照らし出された愛しくも妖しい美貌。横たわるその顔色は血の通っていないかのように青白く見えた。あれは光の所為か、それとも・・・。

《かすみ!リエ!》

返事はない、一刻を争う事態だ。

―どうやって救い出す?

この電磁シールドはたしか外からは侵入可能だった。だが切れかけたそのエネルギーは微妙なバランスで保たれていよう。突付いた瞬間に脆いガラスのように砕け散るかもしれない。一瞬の賭け、一度切りの大博打・・・。

―他に手は無い・・・。シールドに突っ込んだ瞬間にコクピットを開け、リエの体を拾い上げる!

アキヒコは闇に消えたリエの体をイメージし、精神を集中する。寸分の狂いも許されない。冷や汗がこめかみを伝う。

《アキヒコ、後ろ!》

当に動き出そうとした瞬間、朱羽煌雀のテレパシーが脳天を貫いた。振り返ったアキヒコと正対する巨大な赤い目、吊り上ったその形は招かざる大敵・・・・紗端。

 

 

紗端の姿

 

《フォ・・・フォ、フォ・・我が空間に飛び込むとは命知らずの小僧め。最後の別れは済んだか?》

グワン、グワンと頭の芯を揺さぶる抑揚の無いテレパシー、反エネルギーがSuzakuの鏡水で跳ね返され、共鳴だけが響くのだ。

《恋路を邪魔する奴は地獄に落ちるぜ!あ、ここは地獄だったっけ。》

アキヒコは半ば自棄になって紗端をからかった。こいつを倒す事はもう一つの大きな目的だ。だがよりによってこんなタイミングで現れるとは運の尽きか・・・。

《虫けらの叫びが可愛いよのう。我が全容を知ったらそんな減らず口を叩く気さえ無くすだろうよ。よく聞け、小僧・・・》

赤い目が霧となって消え去り、凄まじい風がSuzakuを揺らした。

《お前にこの世界の光は見えまい。赤い目は挨拶代わりにお前の残した塵を集めた偶像だ。今の風は鼻息のようなもの。我こそは・・・裏時空なり!》

グゥゥゥゥ・・キャキャキャキャ・・グゥゥゥ・・・・

Suzakuを包む反エネルギーの圧力が急激に高まる。鏡水を引き剥がさんばかりに押し寄せる空間の撓み、極限近いエネルギー密度となった領域は反粒子を押し潰し融合させ、一時的にスピン変換を起こした正常粒子を生み出す。それが反粒子と触れて光子を発して消滅していく。アキヒコは明るく輝き出した海蛇のようなうねりを懸命に避けていった。海蛇の頭は苦しみに喘ぐ人の顔となりSuzakuのキャノピーを掠めていく。暗闇で狂う遠近感、心の動揺を誘う何十、何百もの歪んだ表情が突如魔物の口と化してSuzakuを呑み込もうとする。

―裏時空そのものが紗端?!

そんな馬鹿な・・・。ここに存在する想像を絶する膨大な反エネルギー全てが紗端の正体だと言うのか、だとしたら敵うわけがない。

《ファッハッハ、今更ながらに自分の愚かさを思い知ったか。そうよ、お前は自ら我が体内へ囚われの身となったのだ。すぐに絞め殺してやろうか、それともじわじわがいいか。残念なのはお前を遣わした支配者気取りの朱雀にその苦しみを教えてやれないことだ。ファッハッハ》

紗端の威圧的な響きがSuzakuを激しく震わせた。どうやら逃げ回っても無駄らしい。しかし何かが引っ掛かる・・・。

―時空では“下界”の様子を知ることが出来ないから、朱雀は自ら時空の壁を行き来していた。紗端は自ら裏時空を出ることなど出来ない筈、どうして俺が朱雀の遣いだと分かった?朱雀が俺から記憶を読取ったように、紗端も何者の報告を受けた・・・

アキヒコは紗端の起こす嵐を避けながら、反エネルギーの海へ増幅したテレパシーを放つ。

《出て来い!》

赤い霧が四方に拡散し、リエの横たわる電磁シールドで青白い火花を散らした。一瞬間をおいて、海蛇たちの光の合間に別の火花が散るのが見えた。それは幾何学的な三角形を描き出す。

《やはり居たな、誰だ!》

三角形はゆっくりとこちらに向けて動き出した。

《よく気付いたわね、お兄様。》

フライングシャトーとともに塵と消えた筈のサーシャのテレパシーが返って来た。

《どうしてと言いた気ね。お陰さまで哀れマーシャはあえない最後を遂げたわ。私は強運の持ち主、意識は結界に囚われながらも揺れた体が電磁パルスのスイッチに触れた。本来ならお兄様たちを巻き添えにした自爆行為の筈が偶然にも外から襲った電磁パルスにシンクロしたわ。パルスは消え私の脳とブラックデルタの電子機器は助かった。マーシャは既に第一波にやられていたわ。そしてとどめのブラックホールが全てを裏宇宙へと消し去った・・・》

アキヒコの目に別の方角で自分たちの放つ赤い霧に呼応する火花が映った。丸い形、ブラックデルタではない。

《ふふふ、お気づきになった?私はブラックホールに吸い込まれる寸前に自分ともう一つの電磁シールドを修復したわ。》

フワフワと空中に浮遊する物体は自らも赤い霧を飛ばした。

《いよいよ・・・時が来た・・・英知と・・・無限なるエネルギーの・・・合体・・・我が名は・・・ルビンスキー》

反ブラックホールの光が物体を照らし出した。それはフライングシャトーの心臓部、巨大コンピューターだった。だが中身は電磁パルスを喰らい、ずたずたの筈。ルビンスキーの脳だけでは何も恐れる事はない

《ファッハッハ、サーシャよ、最高の手土産を持ってきたものよ。そのいかれた脳には用はないがな、ファッハッハ》

《はい、紗端様。ファーザーも最後にお役に立てて嬉しいと思いますわ。》

―何を言ってるんだ、こいつらは・・・

アキヒコは会話の意味を解こうと考え込む。

《小僧、消滅させる前に聞かせてやろう。朱雀がこれを知った時の反応を見てみたいものだ。いいか、間もなく大きな暗黒の渦がやってくる。お前達の感覚で言えば約5000万年ぶりの大渦だ。その渦の周りでは普通では起こり得ない異変が生じる。お前達のいた世界へ通じる亀裂がな。大渦は我が一部を切り裂き、その勢いを持ってエネルギーを物質に変えてお前達の世界へと送り出した。覚えがあろう、我が分身の伝説に。》

―そうか、それが最初のラプトルか・・・

《今度の大渦でお前達の世界は全く新しい物となろう。今度は分身などではなく我自身がお前達の世界に君臨してやろうと言うのだからな。ブラッククロスの招きはお前のせいで失敗に終わったようだが、結局流れは変えられやしないということだ。大渦に合わせてサーシャがリモートコントロールでコンピューターをフルパワーで起動すると同時に電磁シールドを切る。瞬間発生する磁場こそが欲しかった物だ。流れ込む我が反エネルギーがそれを鋭利な刃に変え、時空の壁を切り裂くであろう。ルビンスキーはコンピューターの動力源として最高の役目を果たして尽きる。どうだ、ファッハッハ》

―何ということだ・・・

アキヒコの心に虚脱感が広がる。あまりにも巨大な敵、今の自分は太陽の引力圏に踏み込んでしまった人工衛星のようなものだ。為す術なく燃え盛る炎に焼き尽くされるまでのつかの間の時間を悔いる。

―ごめん、かすみ・・・そしてリエ・・・。最後は一緒に迎えよう・・・

 

 

 

 

[第四部③へ続く]