1

 

 秀雄のところに点検を終えたSR311を引き取りに村井がやってきた。

 「別に異常はないだろ?」

 「ええ、オイルだけ交換しておきました」

 実家の梶谷自動車を手伝う秀雄は、網元の息子で町の走り屋たちをまとめている鷹応の引き合わせで、鷹応の右腕である村井の愛車整備を任されている。いずれはオーバーホールを手掛けるにしても今の所はまだまだ必要ない状態なので消耗品の交換やワックス掛けのサービスをして村井との信頼を築いている。

 「ところで村井さん、折角のSRなのにほとんど幌開けたことないでしょ」

 「ん?ああ、そうだな」

 村井は速さもあるが、オープンの気持ちよさに魅力を感じてフェアレディSR311を手に入れたが、硬派の鷹応は「男はハコだよな」を売り文句にしているので、軟派なイメージもあるオープンカーでわざわざ機嫌を損ねたくなかった。

 「たまには開けた方がいいと思いますよ。結構傷んできてるから後ろ見えにくいんじゃないですか?」

 確かにだいぶ黄ばんでいて、バックミラーが見にくい。

 「ずっとクローズで走るのなら、思い切ってハードトップにするって手もありますよ」

 村井はそんなところに余計な金をかけるのもなと感じ、返事を濁して車を受け取った。

 

 漁師の仕事は早朝が主だ。まだ暗いうちに海に出て、午前中には寄港する。魚を市場に運んだ後は自由な時間になり、網や船を手入れしたり、仲間内で魚を捌いて浜で酒を交わしたりしている。その日村井は夕方近くに車を出して、右側の岬に向かう砂利道を走らせた。途中人目がないことを確認して、思い切ってSR311の幌を取った。

 砂利道をのんびりとオープンドライブと洒落込む。何という気持ち良さだろう。潮風が頬を優しく撫でていく。そう、これが本来のSRの楽しみなのだ。

 人気のない岬の浜辺に車を止めて、村井はシートを倒して寛いでいた。

 「わあ、この町にもオープンカーの人が居たんですね」

 突然若い女性の声がして、村井は慌てて身を起こした。

 「あ、ごめんなさい。お邪魔しちゃったかしら?」

 見ると少し離れた場所に赤いスポーツカーが停まっている。ホンダS800だ。

 「別に邪魔って訳じゃないさ、人が来るとは思ってなかったもんでな」

 村井は改めて女を見た。カールした長めの髪に整った顔立ち、白いワンピースが清潔感を漂わせている。

 「見ない顔だけど、旅行者かい?」

 「いえ、つい最近この町に越して来ましたの。来森優子といいます」

 「あ、そうなんだ。俺は村井、この町で…」

 「漁師さんですよね」

 優子が笑った。

 「ん?何で?」

 「その日焼けした逞しい腕を見たら漁師さんかなって」

 その時になって村井は自分の格好が少しそぐわない気がして目を逸らした。ランニング姿に手ぬぐいの捻り鉢巻、さりげなく鉢巻を外すが短めのスポーツ刈りはオープンカーには似合わない気がする。

 「オープンカーっていいですよね、私もオープンにして走りたいのですけど、髪はバサバサになるし、日焼けは嫌だし、なかなか屋根を取る気にならないんです。昔はつばの広い帽子を被ってオープンにしていたこともあるんですが、ある時帽子が風に飛ばされてしまって、それ以来オープンは避けるようになっちゃったんです」

 見れば赤いS800にはハードトップが付けられていた。

 「村井さん見たら、気持ち良さそうで、私もまたオープンエアを楽しんでみたくなりました。じゃあ長居も悪いのでお先に引き返しますね。ありがとうございました」

 走り去る優子を村井はしばらくの間見つめ続けていた。

 

 

 

 

2

 

 毎朝、日の出前の漁港は漁師たちの出航で賑わう。それぞれ無事を祈る家族に見送られる中、裸一貫この道へ飛び込んだ若者たちは、少年院帰りや元暴走族の荒くれを含めて網元の鷹応源太郎が後見人となっている者がほとんどで、見送る家族もない。鷹応壮一はそんな若手漁師たちに声掛けして海へ送り出していた。村井もその一人だが、その朝は頭がぼうっとして熱があるような感じだった。

 「おい村井、大丈夫かよ?」

 鷹応が異変に気付いて近寄ってきた。

 「ええ、大丈夫っす」

 そう答える村井は足元もおぼつかない感じだ。

 「大丈夫じゃねえよ、今日は漁は止めとけ、医者へでも行って診てもらえ」

 

 町には老医者が勤める診療所があったが、先日天寿を全うし、役場が補充に代わりの医者を向かい入れた。普段医者とは無縁の村井だが、鷹応の命もあり、診療所を訪問した。思ったより患者が多く、待合室は満席だった。しばらく待たされて看護婦に名前を呼ばれ、村井は診察室へ入る。

 「今日はどうなさいました?」

 聞き覚えのある声に村井は顔を上げた。そこには白衣を着た来森優子がいるではないか。髪を後ろに束ねて眼鏡を掛けた彼女は昨日とは別人の印象だ。

 「村井さん、村井文哉さんね、昨日はどうも」

 カルテを見ながら優子が軽く挨拶する。やはり彼女だ。

 「ちょっと風邪引いたみたいで、熱っぽくて頭がぼんやりするんす」

 「ではこの体温計を脇に挟んで、お口を開けて下さい。あーん」

 優子に口を覗き込まれて村井は緊張する。

 「扁桃腺は腫れてませんね、呼吸を診るのでシャツを上げて胸を出して下さい」

 村井が言うとおりにすると、冷たい聴診器が胸に当てられた。

 「少し脈が速いようだけど呼吸も別に大丈夫ね。では体温計を出して…熱もないわね」

 優子はカルテに書き込みながら、

 「日頃の疲れが溜まったのではないかしら、安静にしてれば戻ると思いますが心配ならお薬出しときますよ」

 村井は薬は断り、礼を言って診察室を出ようとした。

 「あ、村井さん、待って」

 優子が聴診器を外して声を掛けた。

 「患者さんから聞いたのだけど、港では週末にゼロヨンとやらが行われているそうね。ご存知でしたら今度案内して頂けないかしら?」

 「あ、ええ、喜んで」

 村井は紅潮し、一度は治まりかけた動悸が再び高鳴るのを感じた。

 

 週末の夜、高鳴る胸を抑えて村井は優子を迎えに行った。町の洋品店でポロシャツとジーンズを買い込み、頭にはポマードをあてて気持ち整えた。そして思い切ってSR311の幌は取っ払った。

 「まあ素敵、オープンに乗れるのね」

 優子は出会った時のようにカールした髪とワンピースの出で立ちだ。眼鏡も外している。村井の視線に気付いた優子は、

 「眼鏡は伊達なの。その方が理知的に見えそうだし、思わぬ菌から目を保護できると思って」

 「な、ない方が素敵っす」

 村井は少しどもりながら言った。

 

 防波堤は既にごった返していて、村井のSR311は慎重に人波を分けるように徐行する。ホウッと言う眼差しが注がれるのを感じる。優子のせいだろう。すこし躊躇いながら、村井は鷹応の元へ向かった。

 「おう村井、遅かったな。ああ、なるほど、そういうことか」

 鷹応がニヤニヤした。

 「どなた?」

 優子が村井に訊ねる。

 「あん?この町で俺を知らねえとはもぐりだぜ。そっちこそ誰だよ」

 鷹応が気分を損ねたように聞き返した。

 「この町で私を知らないとは、もぐりだわ」

 優子が怯むことなく言い返す。

 「ああ、この人は新しく診療所に来た先生で、来森優子さんっす。網元のところの鷹応さん、俺たちのリーダーだよ」

 村井が慌てて互いを紹介した。

 「そっか、新しく来たんじゃしょうがねえな。よろしく頼むよ」

 鷹応は今度は気さくな笑いを浮かべた。

 「ところで村井、今日は気合入ってるじゃねえか。格好もそうだがよ、オープンにしてくるとはな」

 村井はどう答えていいか分からず黙り込む。

 「俺はよ、SRはオープンの方がいいと思ってたぜ。幌がない分軽くなるからな」

 鷹応の反応は村井にとって嬉しい誤算だ。幌は後ろにたたまずに置いてきて良かった。たたんだ幌はどうもダサい気がしたからだ。

 

 ゼロヨンが始まり、村井は出走に向かった。漁師仲間からは優勝候補と期待されるがフェアレディ240ZGに後塵を浴び続けている。この夜も2台が順当に勝ち進み、決勝で相まみえた。

 「速えだろ、奴は俺たちのエースだからな」

 鷹応に言われて、優子は村井に誇らしさを感じた。

 「こんなところで美しいレディにお目にかかれるのも珍しいですわ」

 そう声を掛けて来たのは、岬の製鉄所跡でペンションとマリンショップを構える柳美奈子だ。父から受け継いだ資金で美しい砂浜を作り、ビーチリゾートの魅力を高めるとともに景観の向上に貢献している。

 「あれ、私の旦那様。悪いけど今夜も頂きだわ」

 以前は目立ちたくない一心で出場を控えていた柳恭一は、今は勝つことでペンションの宣伝にもなるのでゼロヨンに精力を注いでいる。互いに定位置となった決勝のスタートラインに村井と恭一は車を並べた。

 今夜の村井はいつになく調子が良かった。気持ちがハイになってるのと、幌を外したことによる軽量化が効いているようだ。スターターの腕に集中すると、村井は会心のスタートを切った。恭一の240ZGを僅かにリードしている。

 「一発咬ましてやる」

 普段はレッドゾーンの手前でシフトアップするが、このレースで村井は禁断のレッドゾーンにタコメーターの針を飛び込ませる。悲鳴に近いエンジン音を上げながらSR311はグッと車速を伸ばす。さらに2速でも同様にレッドゾーンを使って、ついに村井は恭一の前でゴールを通過した。

 漁師仲間の歓声が上がる中、SR311はエンジンから激しくオイルを噴き出す。それ以上走ることは叶わず、急遽積載車で秀雄が引き取る形になった。

 「すまない、やっちまった」

 村井は優子に頭を下げた。

 「ううん、素敵だったわ。車がなくてもいいじゃない。今夜はゆっくりと夜の散歩を楽しみましょ」

 優子は労わるように村井の手を取った。

 

 

3

 

 優子は村井の出航を見守るようになった。仲間の漁師たちとも挨拶を交わし、懇意になっていった。その姿は町の人々に好感を与え、医師としての信用を高めた。

 「よく続くじゃねえか」

 共に若者漁師たちを見送りながら鷹応が声を掛ける。

 「私こういう賑やかな雰囲気が好きなんです。週末のゼロヨンもそう。あの華やかさに浸っていると気分が高揚してくるの」

 優子がにこやかに答えた。更に加えれば、優子は強い者が好きで、一番が好きだ。そういうものに気持ちが惹かれることは自分で抑えることができない。

 「鷹応さんはまだ結婚していないのね。私はてっきり奥さんがいると思ってた」

 優子がプライバシーに遠慮なく踏み込む。他の者にはなかなか出来ない芸当だろうが、医師として人の生死に関わる体験を積み、何度も死を看取ってきた優子は怖いという感覚が麻痺してきている。

 「俺についてくるような女は居ねえよ」

 鷹応がぶっきらぼうに答えた。

 「え?どうしてそう思うの?鷹応さんは見てくれも素敵だし、女性にとって魅力的な男性よ」

 そう言いながら優子はそれが自分の気持ちであることに気付いた。一番強い者に無条件に惹かれてしまう。

 「け!」

 鷹応は背を向けて帰って行った。

 

 翌朝から優子は村井を見送りながら、鷹応に寄り添うようになった。傍目から見たらまるで夫婦のようだ。それは自然と町の噂となり、鷹応の耳にも入る。

 「おい、どういう考えか知らねえが、俺はお前を相手にする気はねえぜ。それと村井をもてあそんでるなら許さねえ」

 周囲に誰も居ないことを確認して、鷹応が優子に釘を刺した。優子は鷹応をまっすぐに見つめる。

 「私の何がお気に召さないの?私はあなたに惹かれてる。村井さんとは親しいお友達だし、誤解されるようなら村井さんにははっきりと伝えるわ」

 鷹応は大きく溜め息を吐いた。

 「お前が気に入るとか気に入らないとかの問題じゃねえよ。俺の家は網元で、根っからの封建一家ってやつだ。親父が絶対的で親父には誰も逆らえねえ。親父にとって女は黙って飯を作って、家を綺麗にして、せっせと洗濯する、それが当たり前だと思ってる。おまけに漁師たちもそんな親父だから自分たちの命を預けてるのさ。俺のお袋はそんな親父に、そんな家に文句一つ言わずに尽くし続けて、挙句は心労がたたって死んじまった。今は家政婦が金で家事をしてるが、そうでもなきゃやり切れねえと思うぜ。俺は親父を継いで漁師たちを束ねていかなきゃならねえ立場だ。だから絶対的な男でいなくちゃいけねえ。だが二度とお袋のような女を見たくねえ。分かるだろ?俺は結婚なんてできねえし、する気もねえんだよ」

 優子はしばらく俯いて、「寂しい人ね」と帰って行った。

 

 優子は釈然としない。鷹応の言う事に違和感を拭えないのだ。網元?封建?一体いつの話をしているのか。だいたい優子は結婚なんて考えてもいないのに、何て短絡的なのだ。怒りが湧き上がり、鷹応への熱が急激に冷めると見方が変わる。果たして網元を継ぐというのは鷹応の意思なのだろうか?若い漁師たちのリーダー気取りだが、鷹応自身が父親に縛られているではないか。そんなの全然一番じゃない。

 放っておけばいいのに、優子はすぐに深入りしたくなってしまう。網元というものが気に入らない。漁業権について調べてみると、権力を握る網元制度は明治の遺物みたいなものではないか。今は漁業協同組合が漁業権を管理していて、港は国や地方自治体が管理することになっている。この町はどうなっているのだろう?

 役場に問い合わせてみると、この漁港にも漁業共同組合が設立されていて、漁業権を持つ独立した漁師たちが理事を務めている。そして理事長が網元である鷹応源太郎だ。港は大型船の出入りなどない漁港のため、町役場が港湾管理を行うことになっているが、それも民間委託として鷹応源太郎が引き受けていた。それにより鷹応源太郎は網元としての権力を握っているのだ。

 村井を始めとする鷹応の雇われ漁師たちは、ほとんどが5年以上経過したベテランだ。一般的には2、3年の雇用で共同漁業権の取得が許されるようなのに、村井などは8年も鷹応に雇われ続けている。優子はそういう搾取みたいなことを目にするとどうも許せなくなってしまう。それで若手の漁師たちに独立運動をけしかけてみた。

 ところがどうだ、彼らは誰一人として今のままで十分だと言う。結局、優子の正義感は徒労に空回りした形だ。

 

 優子の動きは網元の鷹応源太郎に伝わり、波紋を広げる。よそ者に漁港の慣わしを荒らされるくらいなら居ない方がましだ。漁業協同組合の理事会として町役場に優子の罷免要求が出されたのだ。

 「まあ、あんたらの気持ちは分かるがね、そうそうこんな田舎町に来てくれる医者も居ないのだよ」

 後任の不在という事で、優子の罷免要求は何とか却下されたのだった。しかし診療所に訪れる患者の数は明らかに減った。患者が少ないのはいい事とも取れるが、どうやら電車とバスを乗り継いで1日掛かりで隣町の病院に通うようになったらしい。大変な苦労だが、網元の圧力に従わざるを得ないのだろう。優子には無医地区への赴任手当ても入るので生活に困ることはないが、何とも嫌らしい仕打ちに心の中は煮えくり返る思いだった。

 

 

4

 

 村井は診療時間を終える頃を見計らって優子を訪ねた。

 「ごめんなさい、もうあなたに誤解を与えるようなことはしたくないの。折角来て頂いたのにお相手は出来ないわ」

 優子はやんわりと村井を断る。

 「別にそういう意図で来た訳じゃないっす。何かこのままだと先生も町の奴らも大変だなと思って、どうだろう先生、網元に詫び入れた方がいいと思うんだ。俺も一緒に行くからさ」

 「謝るって、別に私は悪い事をしたとは思っていないわ」

 「分かる、分かってるって。けど誤解もあると思うのさ。な、頼むから元通りの町にしようよ」

 村井の説得に、優子は渋々応じることにした。

 

 夜の鷹応家、座敷のテーブルを挟んで鷹応源太郎と優子が向かい合う。優子の脇には村井が座った。壮一は席を外している。

 「親父さん、すいません。今回のことは俺らを思って先生が善意で動いてくれたんです。どうかあまり大人気ないことは…」

 村井が切り出す。優子も不本意ながら「すみませんでした」と頭を下げた。

 「町には町のしきたりってもんがある。この町は殆ど漁で成り立ってるのは分かるな?漁ってのはただ魚を獲ればいいってもんじゃねえ。みんなが自分勝手に獲りゃこの湾の魚はそのうち居なくなっちまう。だからワシらは毎年漁獲量を調整した上で配分を決めてるんだ。むやみやたらに漁業権を認めたら収拾がつかなくなる。ワシはお前たちを一生このままにしておく気はねえ。頃合を見て、調整した上で独り立ちさせてくつもりだ。分かるだろ村井」

 「はい、何から何まで親父さんには世話になって、頭が上がらねえっす」

 優子は完全に自分の勘違いだったと気付き、顔から火が出る思いだ。網元と呼ばれてはいるが、鷹応は決して権力を振りかざす支配者ではないようだ。

 「分かりゃいいさ、よしつまらねえ事は水に流して、一杯いこうぜ。飲めるだろ?先生」

 源太郎は上機嫌になり、酒と刺身を用意させた。酒が入るにつれ、源太郎の口が軽くなる。

 「正直なところワシは女の医者ってもんを信用できなくてな。風邪やら何やら放っておきゃ治るものはいい。だが漁には危険が付き物だ。何かあったときにゃやはり男の先生でねえと不安でな。女のか細い腕で何が出来るって思っちまう訳じゃ

 優子の綺麗な腕を見ながら日頃の胸の内を明かした。優子は不味いと思いながらもカチンと来た。

 「それは女性蔑視なのではないかしら。医者に男も女もないと思いますわ」

 「だがよ、いざという時ってやはり力も必要になるじゃろう。あんたみたいな上品なお嬢様だとなぁ…」

 「私、上品でもお嬢様でもないのですよ」

 優子は釣られるように答えた。それは嘘ではない。昔は社会に反抗してグレていた時期があり、仲間の不慮の死を救えなかった事を切っ掛けに医者を目指した。たまにやり切れない思いが募ると夜の高速でスピードに自分を埋没させて来た。この町に赴任を引き受けたのは、豊かな自然に触れて、そんな自分を払拭しようと思ったからだ。

 「度胸みたいなものをお見せすれば少しは私のこと認めて下さるかしら。例えば自慢のご子息の得意分野でタイマン張るとか」

 優子の口から思わず昔の口調がこぼれる。

 「ほう、あれは勉強は出来んが腕っ節と車に掛けちゃこの町で右に出る者は居ないらしい。だからワシの引き取った荒くれ者たちを心底束ねてるんじゃ。そうだな?村井」

 「は、はい」

 「喧嘩じゃ無理そうだけど、車なら何とかなると思うわよ」

 優子は妙な自信をチラつかせた。

 

 「待てよ、俺の居ねえ所で勝手に盛り上げてんじゃねえよ」

 襖の向こうで話を聞いていた壮一が顔を出す。

 「先生よ、何考えてるか知らねえが、あんたの非力なエスハチで何が出来るってんだ。寝ぼけてるのか?」

 「フフッ、やる気があるのかないのかを聞かせてちょうだい」

 「悪いがよ、ゼロヨンなんてつまらねえものはやらねえよ。やるならワインディングの公道勝負で挑んで来な」

 「分かったわ、楽しみにしていてね」

 優子は壮一の視線を外さずに答えた。

 

 

5

 

 「先生どうするつもりだ?俺は味方してえが立場上表立ってそうもいかねえ。せめて俺のSRを使ってくれと言いてえが修理中だ。エスハチじゃ虎に猫が挑むようなもんだしなぁ」

 村井が心配する。自分が切っ掛けを作ったようなもので他人事ではいられない。

 「そうよね、冷静になってみれば無茶な申し出をしたものだわ」

 優子は他人事のように笑っている。

 「とにかく鷹応さんの速さは半端ねえ。負けたって誰も先生を責めやしねえさ」

 「そうかもしれないわねぇ」

 そう言いながら優子は何処かへ電話を掛ける。

 「あ、もしもし公二君?アタシ、優子。元気?ちょっと急なんだけど速い車が必要になっちゃって、売却頼んでるアタシの車、まだ手元に残ってるかしら?え、ある?良かった。売るのは延期、気が変わったの」

 

 翌日、優子は長い髪をバッサリと切った。

 「フフッ、この方が身軽でいいわ」

 数人の通院者をこなすと午後は暇になる。一度離れた患者たちはなかなか戻りにくいのだろう。同じく暇になった村井がやってきて、何を話すでもなく二人でぼんやりと庭先を眺めていた。その静寂を壊すようにトラックが入ってきた。荷台にカバーで覆った車を積んでいる。

 「相変わらず仕事が速いわ」

 優子は迎えに出た。

 「持って来ましたよ、優子さん」

 運転席から胸板の厚い若者がにこやかに降り立つ。

 「ありがとう公二君、遥々ご苦労様」

 公二は手早く荷台のカバーを取り、車を降ろし始める。コーラルピンクの丸っこいオープンカー、村井は即座には車種が分からなかった。

 「これは?」

 「うん、アタシの元愛車。手放そうと思ったんだけど腐れ縁ね」

 「まあ、世界に1台といっても過言じゃないですよ、こいつは」

 降ろし終えた公二が二人の会話に加わる。

 「王者の道ってハリウッド映画がしばらく前に上映されましてね。まあB級映画ってやつだからあまり見た人もいないんですが、主役のポルシェがやたら格好いいんですよ。俺、車のボディーワークやってるもんで、手頃なフォルクスワーゲンのビートルをベースにそのポルシェのレプリカっていうのを作って乗ってたんです。それが優子さんの目に留まったらしくて」

 「そう!ワイドボディーの356、アタシも何度も映画を見て素敵だなぁと思ってたから、それが目の前走ってるのに出会ったらもうキャーよ。それで自分のポルシェを356風に改造してもらったの。930SCをね」

 「ポルシェっすか…」

 村井は住んでる世界が違うようで目を丸くする。

 「お医者さんには結構人気なのよね、ポルシェ。アタシもそんな一人」

 「はあ…」

 「ここではどう見られてるか知りませんが、俺たちの間じゃ優子さんはクイーンって呼ばれてて、舐めて掛かると痛い目に遭うよって走り屋ですよ。俺の知る限りじゃ優子さん以上に速い女性には会ったことがないですね。あの事故さえなきゃ、ここに飛ばされることもなかった筈です」

 「あの事故?」

 村井は言葉尻を捕えて聞き返した。

 「あ、不味いな、内緒でしたかね」

 公二は口を噤む。

 「いいわよ、もういい子ぶるのは止めたの」

 優子はサバサバした感じで笑った。

 「俺の店のお客が峠で優子さんに挑んで、無理な運転からミスってポルシェがお釈迦になるほどのクラッシュしたんです。救急車で病院運ぶまで持たないと判断した優子さんが的確な応急処置を施して、お客は一命を取り留めました。ところが優子さんが何故その場に居合わせたのかが病院で追求されて、夜の街道レースがばれてしまって、別に警察沙汰にはならなかったんですが病院医師としてのモラルがどうとかって話で、優子さん、左遷みたいな形で地方行きになったんです。そうですよね?」

 「ええ、そういうこと」

 優子は公二の説明に頷いた。

 「だから大人しく人生やり直そうかと思ったんだけどね」

 「いやいや、大人しくなんて優子さんには絶対似合わないって。だったらむしろ医者なんか辞めてウチの店の広告塔でもやってもらいたいですよ。報酬は保障しますって」

 「ま、それもありかもだけど、アタシは医者で居たいのよね」

 村井は呆気に取られて言葉が出なかった。

 

 夕刻、左の岬へのワインディング道路に鷹応と優子が顔を揃えた。製鉄所が無くなって以来、この道の交通量は殆どない。今回は噂を聞きつけた鷹応の舎弟たちや町の車好きの若者たちがこぞって見物に集まっている。

 「何だ、こりゃ?」

 目立つコーラルピンクのオープンカーに鷹応が驚く。

 「何って、アタシの元の愛車よ」

 優子がにこやかに答えた。

 「ポルシェの356か、いや356に似せた改造車だな、迫力が違う」

 「フフッ、さすがね。中身は930SC、FRPボディーで軽量化されてるから速いわよ」

 「け、口先だけじゃなさそうだな」

 鷹応は真顔になってGT-Rに乗り込むと、ベルトを締めた。

 

 

 

6

 

 スカイラインGTとポルシェは因縁の関係だ。第2回日本GPのGT-Ⅱクラスにおいて、圧倒的速さのポルシェ904GTSをスカイラインGTが一度抜いたことでスカイラインGTの名声は一気に上がった。ポルシェとスカイラインは上位のGT-Ⅲクラスを制したジャガーEタイプのタイムよりも速く、実質的にGTカテゴリーの双璧と言えた。ちなみにGT-Ⅰクラスを独占したのはホンダS600だった。その逸話もあって、鷹応にとってポルシェは宿敵に見えるのだ。優子はそんな鷹応の思いなど知らない。ただの無骨な4ドアセダンに熱を上げる気持ちもよく分からない。車はお洒落でスタイリッシュでなくちゃね。

 

 スタート位置に2台が並ぶ。例によって秀雄の合図で猛然とダッシュしていった。加速に勝る優子のポルシェが前を抑える。鷹応には想定済みの展開だ。まずは後ろから走りを見てやろうじゃないか。優子の走りは上品だ。アウトインアウトの基本通りにコーナーを抜けていく。速いがかつて死闘を演じた柳恭一のフェアレディ240GZほどではない。鷹応はほくそ笑んだ。

 追い越しポイントとするヘアピンコーナーで鷹応は勝負に出た。コーナー手前でドリフトに持ち込みポルシェのインに飛び込もうとする。ところがどうだ、優子はその動きをバックミラーで見てか、インを開けようとしない。ブレーキも踏まずに、どうみてもオーバースピードでヘアピンに突っ込んだ。

 「終わったな」

 鷹応は優子のクラッシュを避けるべく車間を開けた。優子のポルシェはヘアピンの向こうでガードレールに刺さるかスピンしている筈だ。ドリフトのままヘアピンを回った鷹応の視界にポルシェの残骸はなかった。それどころか遥か前を悠然と飛ばしている。

 「!何が起きた?」

 鷹応は未体験の光景に愕然とした。

 優子は上品な仮面をかなぐり捨てて本気モードに切り替えた。コーナー手前でアウトに寄せることなくインベタに付くと、レールの上を走るが如くクルリと回っていく。まるで魔法使いだ。コーナーを抜ける度に鷹応との距離は開き、全く打つ手がない。

 

 「慣性ドリフトって言うのですよ」

 2台を追随する秀雄のサニーB10バンはステアリングを村井が握り、スターターを務めた秀雄が助手席に飛び乗った。後部座席に同乗した公二が優子の走りを解説する。

 「後ろが極端に重いポルシェならではの上級テクニックです。減速してステアリングを切ると重たいリアはそのまま直進を続けようとする。それでドライバーが意図した以上にノーズが切れ込んでいくのです。タックインと言って、ポルシェが難しいとか危ないと言われる要因ですけどね。優子さんはそのタックインを思い通りに駆使してドリフトに見えないような優しいドリフトで超ハイスピードでコーナーを回っていくのです。俺らの頂点に君臨するクイーンの神技です」

 岬への海岸線の道路は、左が山で右が海、車を停めて置くスペースなどない。ところどころにエスケープゾーンはあるが、全速で飛ばす主役たちのために開けて置かなければ危険だ。それでレースの様子を見るには後ろから追い掛けるしかないのだ。しかしとてつもなく速い2台に付いて行ける訳もなく、どんどん遠ざかって行く。後ろからセドリックがもっと早く行けとせっつくので、村井は道を譲った。漁師仲間の黒木だ。

 「黒木のやつ、無茶しなきゃいいが…」

 セドリックはふらつきながらサニーバンとの距離を次第に開いていった。

 「優子さんのポルシェは特別にチューニングを施した訳ではないんですよ。俺はボディーワークと足回り専門でエンジンはやらないもので。3リッターのフラット6で180馬力の筈なんですが、どうも優子さんのSCは並行輸入の本国仕様のようで、同じ3リッターながら204馬力出すエンジンらしいです。車重は改造で1トン切ってるからまあ遅い訳がないですね。ワインディングじゃモンスターと言われる930ターボともいい勝負ですよ」

 村井はすげえなと感心する。自分とは無縁の世界だ。

 

 優子と鷹応のレースはもう勝負が決したかのように見えたし、実際には決していた…。

 

 

7

 

 黒木は追っても追っても見えなくなる2台に焦りを感じていた。粋がってサニーバンを抜いた手前、とにかく突っ走るしかない。左回りのコーナーで思わずオーバースピードになり、コントロールを失った。セドリックはガードレールに激しくぶつかると、勢い余ってそれを乗り越え、海へ転落した。村井は驚いてサニーを停めると海を覗き込む。波紋が広がって空気の泡が浮き上がる中、黒木の姿は見えない。村井は急いでシャツとズボンを脱ぎ捨てると海へと飛び込んだ。

 

 鷹応は後方に激しく噴き上がる水柱を見た。誰か落ちやがった!直感的に自分の弟分だと判断する。もうレースどころではない。スピンターンで向きを変えると事故現場に急いだ。優子もバックミラーで鷹応の動きを見て向きを変えると後を追った。

 「どうした?!」

 鷹応が秀雄に訊ねる。

 「黒木さんて人が車ごと海に落ちて…」

 「村井は?」

 「海です」

 秀雄は震える指先で波紋を指す。村井が海中から顔を出した。

 「黒木は、奴は居たのか?」

 鷹応が聞く。

 「居ましたが挟まれてて動かせません!」

 「よし、任せろ!」

 鷹応も海へ飛び込むと、村井とともに黒木の救出に潜った。

 

 優子が着くとちょうど鷹応と村井が黒木を海面に引き上げたところだった。血で海が赤く染まる。集まったみんなで黒木を持ち上げ、道路へ寝かす。呼吸はない。優子は鼻を摘んで息を吹き込み、蘇生を図った。水を噴き出して激しく咳き込み、黒木の呼吸は戻った。優子は急いで怪我の状況を確認する。太ももから激しく出血していて黒木の顔から血の気が失せていく。

 「まずいわ、動脈を損傷しているみたい。このままでは出血多量で死んでしまう」

 黒木は車中で足を挟まれていて、鷹応と村井が力づくで引き抜いた。その際に傷を広げたようだ。優子は自分のシャツの裾を破ると、黒木の足の付け根を強く縛り、太ももへの血流を止めた。

 「ひとまずこうするしかないけど、このままでは足が壊死するわ。病院で手術が必要だけど時間がない、診療所へ運んで!」

 

 優子は設備の足りない中、黒木の動脈を縫う大手術を行った。失敗するかもしれない、その時は自分が責任を負おう。どの道病院へ運んでいたらよくて片足切断だ。病院に連絡して、至急応援の医師と輸血用の保存血液を手配した。空が白む中、優子はホッと息を吐いた。

 「やりましたね、あなたほどの腕を持つ医師がこんな港町に居るなんて驚きだ。この人は運がいい。脱帽です」

 隣町の病院から応援に駆けつけた外科医が優子を褒め称えた。

 

 

8

 

 馴染みのファミレスのテーブルを、4人が囲む。鷹応と村井、優子と公二だ。

 「先生、心から礼を言うぜ。お蔭で黒木はまた歩けるようになるってよ」

 鷹応が深々と頭を下げる。

 「レースも文句無く先生の勝ちだ。おみそれしたぜ」

 「あら、レースは成立してないわよ、ゴールしてないもの。それに網元もアタシのこと認めてくれたようで、もうレースなんて意味がないわ、白紙に戻しましょ」

 優子があっけらかんと返す。鷹応は釈然としないながらも再レースを申し込む気にもならない。今のままでは勝ち目がないだろう。

 「それにもうあのポルシェも手放す予定だもの。引き続きよろしくお願いね、公二君」

 「ちょ、ちょっと待って下さい」

 公二は慌てて優子を制する。

 「やっぱりあのポルシェは売れませんよ。多少安くしたとしても大抵のポルシェ乗りはクイーンの愛車に手は出せないと思います。ポルシェを知らない奴は興味持つかもしれませんが、とても乗りこなせるとは思えません。俺がそんな奴には売れません。つまり買い手がつかないってことです」

 「あら、困ったわね…」

 「金に困ってる訳じゃなかったら、お願いですからこのまま乗ってて下さいよ」

 「うーん、そうするとこの町じゃメインテナンスがねぇ…」

 優子は考え込む。

 「俺ね、何かこの町が気に入っちゃったんです。それで知り合いに声掛けして丘の上の見晴らしいい場所でショップを構えようかと思いまして。ちょうど手頃な空倉庫があるらしいんですよ。俺の他にバイヤーとエンジンチューナーで組んで店出せば結構いけると思いますよ。それで優子さんのポルシェは普段宣伝代わりに店に飾りたいんです。完璧なメンテはサービスするし、何時でも乗り出せるようにしますから」

 公二は夢に目を輝かせる。優子もその計画にワクワクした。

 村井は秘かに自分もポルシェを狙おうかなと思った。

 

終わり