【街外れの夢工場】 〈前作→ツバメ (ヒロコの挑戦)

 

 

シグノラ(カルロの情熱)

 

1

 

 「スミマセン、こちらにロベルトは居ますか?」

 巻き毛の若いイタリア人が突然訪ねて来た。

 「ボクはロベルトの甥でカルロと言います。彼から手紙をもらって差し出しの住所を辿って来たのですが」

 カルロは陽気に喋ると倉庫の奥のフェニセを目ざとく見付けた。

 「ワォ!ロベルトの車だ、彼のアイデンティティがバッチリだ。カロッツェリアでは一流のデザイナーみんなアイデンティティ持ってます。自分の作品だと世にアピールするためにね。ロベルト何処ですか?早く会いたいよ」

 ヒロコがすでに他界したことを告げると、カルロは急に神妙な面持ちになった。

 「そうでしたか、まさかそんな事とは…」

 教会に案内すると神父に丁重に礼を言って祈りを捧げた。ロベルトが天国で喜んでいる気がする。

 解体屋に戻るとカルロは困った顔をした。

 「実はロベルトの手紙がとても楽しそうで充実しているようで、ボクも無性に一緒にやってみたくなったのです。ボク、昔ロベルトからカロッツェリアの技術一通り習いました。でも仕事もあってなかなか自由がきかなくて、結局湧き上がる情熱抑えられなくなって仕事もアパートも引き払ってビザ取って来ました。ボクここで働けない?」

 亜久津はまたややこしい奴が現れたと思った。

 「アンタ勘違いしとるが、ここは自動車工場じゃない。まあ知り合いがなくもないからどうしても何処かで働きたいなら紹介してやらんでもないが」

 「何で?あれもここで作ったでしょ?ロベルトに似てるけどロベルトの作品じゃない。別のデザイナーさん居るね」

 ツバメを見てそう食い下がる。アレはあたしの作品とヒロコが言うとちょっと詳しく見たいとなった。

 

 「凄い、ベンチュリーカーね。何処かで習ったの?えっ?独学で?凄いよ、凄いよ!」

 カルロは盛んにヒロコを褒め称えた。

 「ロベルトの車より速いんじゃない?」

 ヒロコがツバメを作った経緯を説明すると、カルロはちょっと表情を変えた。

 「ドイツ人もそうだけど、日本人特に真面目。でもそれがつまらないこと多いよ」

 「何でもそうなんだろうけど、車はこうでなければいけないという枠があって、実用性が第一ね。普通はそれでいいよ、でも自分が自由に出来る最高の条件でアレじゃ勿体無いね。デザインとても素敵、でもロベルトの設計をベースにした時点でボクに言わせれば負けね。ボクだったらもっと自由に設計するさ」

 この言葉にはヒロコもカチンと来た。

 「随分な言い方じゃない、そこまで言うならあなたやって見せてよ」

 言った後でしまったと感じた。まんまとカルロの策にハマったか、結局解体作業の傍でという条件で新しい家族を迎えることになってしまった。

 

 

2

 

 ケリー少尉のドラッグレース用ビートルは予想以上にエンジンと車体のダメージが大きく、大掛かりな整備が必要となった。だがポルシェのレーシングターボエンジンとなるとそうそう弄れる物でもない。さらにこれまでロードレースとドラッグレースを2台体制でやってきたが、あまりいい目で見られていない事は知っている。明確なルールは設けられていなかったが次回からは乗り換えは禁止されそうだ。30連勝の金字塔を区切りに考える時期が来たようだ。

 「車ごと新調するか」

 

 ブライト少尉も同じ様に乗り換えを考えていた。ACコブラ427はポルシェ930ターボと並び加速については市販車最速だが、レースは最早そんなレベルではない。もともとケリーのドラッグビートルに歯が立たなかったが、余興的なロードレースでは充分に通用した。ところが、ショウのフェニセに敗れ、ドラッグレースではヒロコのツバメに敗れ、散々な目に遭った。さらに第三の男だったワトソン航空兵がどうやらフェラーリに代わる秘密兵器を持ち込んだらしい。噂ではC2コルベット、武骨いアメリカンスポーツカーの象徴だ。コブラのシャシーでは今以上のパワーアップはキツイだろう。だったらこちらもアメリカンマッスルで臨もうか。

 

 ドロドロドロドロ…野太いV8サウンドが轟く。

 「いやぁ、うるせえなこりゃ」亜久津が何事かと出て来た。

 「こりゃまた、プリムスバラクーダじゃないか!」

 「パパ、アメ車にも詳しいの?」とヒロコ。

 「まあ商売柄一通りは知ってないとな。こいつは72年型、ヘミエンジン搭載の奴だ」

 「ヘミエンジンって?」

 「アメリカ流のレーシングエンジンさ。V字形吸排気バルブにセンタープラグの半球型燃焼室を持ったクロスフローOHV、トップフューエルのベースにも使われてる」

 バラクーダから降り立った見慣れたアメリカ人が説明した。

 「ブライト少尉!」

 予想外の訪問者にヒロコは驚きの声を上げた。

 「何故こんな所に?」

 「コブラよりも速い車を仕上げたくなってね。ベースとしてこのバラクーダを手に入れたが、チューニングを任せられるショップが分からないのだよ。トヨタやらニッサンやらロータリーやらの専門は在るが、どうもアメリカ車は好まれていない様で、扱う店がない。それにドラッグレース仕様にしたいのだが、クォーターマイルを8秒台というレベルはとんでもないと言われる。彼らは12秒台が実力値らしい。でもユーは9秒台の車を作ったじゃないか、どうだろう相談に乗ってくれないか?」

 ブライトは行き詰まっていた。

 「勘違いされてる様ですが、私は素人みたいなものですよ。エンジンとかサスペンションとかほとんど人任せ、とても相談に乗れるとは思えません」

 ヒロコは懸命に断る。

 「フム、困ったな。では始めてみる気はないかね?ヘイ!ジョージ」

 ブライトに呼ばれて車からまだ少年とも言える若者が出て来た。

 「彼はジョージ、基地の近くの施設で育った日系二世だ。機械弄りが好きで、年中基地に出入りしては我々の車の整備を手伝ってくれてる。もっと本格的に車弄りをしたいらしいが、基地ではどうにもならなくてね」

 「初めまして、沢田譲二です」

 見た目は白人の青年が流暢な日本語で挨拶した。

 「僕、もうすぐ施設を出なければならないんだけど、仕事が決まってないです。学校もちゃんと出てないから雇ってもらえない」

 「はっは、またウチ向きの奴が来たもんだ」

 亜久津が笑った。

 「そんなにいい給料は払えねえが、食事付きの住み込みで働いてみるか?」

 「は、はい!」

 思わぬ話にジョージは目を輝かせた。

 「ヒロコ、お前新しく看板掲げろ。ここの山ほどのパーツ使って、好みの車作りますみてえな」

 「ヤッタ、ボクを忘れないでね」

 亜久津の提案に後ろで聞いていたカルロが歓声を上げる。

 それで「HeroCCB」が誕生した。ヒロコのカスタムカービルダーである。

 「バラクーダは預けていくが、なるべく内密で頼む」

 ブライトは基地から迎えの軍用ジープを呼んだ。ジョージも身支度に戻る。

 「なあブライトさん、一つ聞いていいかい?何でまたバラクーダなんだ?」

 亜久津が尋ねた。めったに見ないマイナーな車種だ。

 「私にとって車は丸目の2灯でツードアが条件だ」

 ウインクしながらブライトは答えた。彼のこだわりだ。

 「だったらマスタングやらが普通だろ」

 「よしてくれ、アイデンティティが無いのは性に合わない」

 「はっは、分かったよ、同類だ」

 亜久津はブライトと通じ合える気がした。

 

 ドッドッドッ…野太いV8サウンドが響く。

 「またかい」連日の轟音に、亜久津はうんざりした様子だ。

 「今度はビューイックのお出ましかい」

 「ハイ!ヒロコ」

 中から現れたのはケリー少尉だ。

 「実は…」

 「この車をチューンアップしたいけど、ショップが見つからないって感じかしら」

 「ワォ、いつからキミは心が読めるようになったんだ」

 ヒロコの対応にケリーは驚いた様子だ。ブライトとの経緯を話したいところだが、そうもいかない。ブライトという先客がいる以上、残念ながらケリーに協力するのは難しい。

 「ジョージ、降りたまえ」

 今度はヒロコたちが驚いた。

 「えっと、初めまして」ジョージは決まり悪そうに頭を掻いている。どうやら妙なダブルブッキングを受けたようだ。

 「この車はビューイックスペシャル、1962年製のコンパクトカーだ」

 ケリーが説明する。コンパクトと言ってもアメリカンフルサイズに比べればの話で、日本の感覚では充分な大きさである。

 「軽くて気に入っているが、どうもライト周りが私のセンスに合わなくてね。車は丸目2灯のツードアでないとね」

 何処かで聞いたセリフにヒロコは笑いたくなる。

 「で、このジョージがパーツさえあればエンジンを別物に仕上げてくれる。当然ドラッグカーだが、無骨にボンネットからブロワーが突き出たホットロッドは好みではない」

 ヒロコはジョージを手招きして、「どうするつもり?」と小声で聞いた。「済みません、どちらもお世話になってるから断れなくて。僕がちゃんと両方やりますから」

 そう言う訳で、HeroCCBは波乱の船出となった。

 

 

3

 

 「さて困った事になったわね、どうしようかしら」

 ヒロコが小さなプレハブの事務所にカルロとジョージを集めて話し合う。

 「僕が両方やりますから」ジョージは改めて頭を下げた。

 「あのさ、キミが思っているほど事態は単純じゃないぞ」

 カルロは呆れていた。

 「まず、ボクが何故ここに来たかと言えば、まさに新しいドラッグカーを作るためさ。ボクはイタリアのカロッツェリア、そして車作りは予定通りやらせてもらう。目標は彼らの基地でのレースに勝つ事」と続ける。

 「そうなんだ、いいよ」とジョージは軽く受け流す。

 「分かってないな、つまりキミが彼らの車を引き受けるって事はボクの目標は具体的に明確になる。何秒で走ればいいのかとね」

 「タイムが明確でも、それを出せるかは簡単じゃないでしょ。アナタが全力を尽くすだけだと思うけど」

 「むう…」カルロは鼻っ柱を折られてカチンと来た。

 「厄介なのはそこじゃない。キミはライバル同士の車を同時に引き受けて勝てるように仕上げなければならない。それは矛盾だろ。必ず敗者が出て、キミは恩を返せずに信頼を失う事になる」

 「う…ん」

 カルロに核心を突かれてジョージは黙り込んだ。

 「ちゃんと彼らに話して、謝って、どちらか、いや出来れば二人とも断るべきだ」

 「そうね、それしかないわ」

 最初の仕事が厄介な交渉、ヒロコは溜め息を吐いた。

 

 ヒロコはジョージとカルロを連れて基地を訪ねた。カルロは直接関係する訳ではないがなんとなく心強い。ケリーとブライトに同時に話を聞いてもらえることになった。

 「…と言う訳で、今回のお二人の依頼はお断りしたいのです」

 「申し訳ありません」ジョージは深々と頭を下げた。

 「ハッハ、何だブライトが先に動いてくれてたのか」

 ケリーは怒るでもなく愉快そうに笑った。

 「ケリーも同じ考えだったとはね」とブライトがウインクする。

 ヒロコはキョトンとして、二人の顔を交互に見た。

 「いや、私はどうしても車のチューニングを頼みたい訳ではなくて、まあ口実と思ってもらってもいい。本当はジョージの事をユーに頼みたかったのさ」

 ブライトが打ち明けた。

 「そう、実は私も同じなんだよ」ケリーが同意する。

 「だから車は遠慮なく戻してもらって結構だ。本国のチューナーにエンジンを頼んで空輸してもらうよ」

 そう言ってブライトは席を立とうとした。

 「私のビューイックスペシャルは2灯化だけお願いしたい」

 ケリーが改めて依頼する。

 「ビューイックスペシャルだって?それもライトを2灯にするのか」

 ブライトがムズムズした様子で座り直した。

 「そういう発想はなかった。そうなるとまさに私の理想だ」

 落ち着きを無くしてケリーをチラチラ見る。

 「ケリー、ビートルはどうするんだ?ユーの象徴みたいなものじゃないか」

 「うむ、まあそう言われればそうなのだが、エンジンも車体も限界のようでね」

 「ロードレース用のビートルをドラッグにしたらどうだ?今度から乗り換えは禁止になるそうじゃないか」

 「うむ、それも手だが、チョップドルーフやホイールベースの延長は譲れないこだわりで、結構大変な改造だ」

 「えっと」

 話を聞いていたカルロが口を挟む。

 「ボクはイタリアのカロッツェリアで、車体弄りは専門です。ドラッグ仕様のビートルはとても興味あるし修復も手掛けられると思う」

 「そうか!だったらポルシェターボのエンジンを移し替えればいいか」

 ケリーが俄然興味を示した。

 「ちょっと待って、ポルシェターボの車体補強は半端じゃない。ビートルに無理に載せたら車体も痛むよ。それよりビートルのフラット4をチューニングした方が相性がいいと思うけどな」

 カルロの意外な提案にジョージも頷く。

 「僕もその方がいいと思う。フラット4なら日本にも溢れてるしチューニングパーツも多いから面白そう。カリカリのメカチューンは最高のやりがいさ」

 根っからの機械好きの血が騒ぐようだ。

 「オウ、それがいいじゃないか」ブライトはニコニコして、ケリーに提案する。

 「ビューイックは私に譲ってくれないか?そうしたらバラクーダのヘミを載せて、本国にエンジンを頼む必要もなくなる」

 

 話がややこしくなったが、断るつもりが仕事を増やしてしまったようだ。だが嬉しそうなカルロとジョージを見て、ヒロコは「ま、いいか」と引き受けることにした。

 

 部屋を出ようとしたところに、ワトソン航空兵が慌てて飛び込んで来た。

 「お二人一緒でちょうど良かった。大変なんです」

 「どうしたね」上官のブライト少尉が問い正す。

 「本日付けで新しく少佐が赴任されることはご存知だと思いますが、我々のレースリクレーションを聞いてけしからんと仰ったようで、即刻中止の指令が出されたようです」

 「何だって!」

 ブライトとケリーは同時に声を上げた。

 「どうも平和ボケして弛んでいるんじゃないかと思われたようで、少佐はもともとスポーツカーに興味がなく、そんなものに割く時間があるなら訓練に励めと」

 「もっともなご意見だが、基地の士気を高めるのも大事なんだがなぁ」

 ケリーは頭を抱えた。

 「ああ、悪いがキミたちは今日のところは引き上げてくれたまえ。車の件も保留にしてくれ」

 

 「いい人たちだね」

 帰り道、カルロが感心する。

 「うん、とっても良い人たちなんだよ」とジョージ。

 「レース、どうなってしまうのかな」

 「あの人たちなら、きっと一番良い結果を出してくれるよ」

 

 

4

 

 翌日、ヒロコたちはケリーに呼ばれて基地に出向いた。

 「やあ、昨日の今日で申し訳ない。話が思わぬ方向に進んでね」

 そう言うとケリーは一行を司令棟の奥へと案内した。

 「お連れしました!」

 敬礼して部屋に入る。そこには基地司令官のオブライエン大佐が待っていた。

 「この方たちかね」

 「ハッ、そうであります!」

 ケリーは直立不動で答える。

 「まあ、私的な話なのだから緩めたまえ」

 大佐はそう言うとヒロコに向き直った。

 「部下たちが世話になっているようで礼を言う。昨日少尉から基地内でのカーレースについて相談されてね、どうも新任の少佐が意気込み過ぎたようだ。私としてはレースは嫌いではない。大目に見ると言うよりも、多いに楽しんでもらいたいと考えている」

 威厳漂う風格にヒロコたちは圧倒されてしまう。まるで別世界の存在だ。

 「しかしながら少佐の顔を潰す訳にもいかない。それで少佐の本心を聞いてみたのだが、どうやら前任の基地でもレースが盛んになって、挙げ句の果てが航空機用のジェットエンジンまでレース用に横流しされたらしい。さすがにそれは私も行き過ぎだと思う。そこで「自動車用レシプロエンジン限定」としてリクレーションレースを続行する形で少佐にも納得してもらった」

 「それは良かったです。ありがとうございます」

 ヒロコはお礼を言った。

 「それでキミたちに相談なのだが」

 大佐が改まる。

 「実は私も車は好きでね、特に英国のビンテージがいい。最近レースを観ているうちに年甲斐もなく走ってみたくなってきてね。どうだろう、ちょっと私の車を見てくれないか」

 そこにはスポーツカーのようなステーションワゴンが置かれていた。見事に磨かれ光り輝いている。パパも連れて来れば良かったかなとヒロコは悔やんだ。

 「ワォ、アストンマーティンDB6シューティングブレーク!」

 カルロが驚きの声を上げた。

 「ほう、若いのに良く知っているね」

 大佐が感心する。

 「世界に数台しかないと言われる幻の車ですからね」

 「で、どうだろう、これでドラッグレースは可能だろうか?」

 「うーん…」考え込むカルロにケリーが耳打ちする。「頼む、大佐の機嫌を損ねないでくれたまえ」

 「正直この手の車は完全オリジナルを保つことをお勧めしますが、戻せる範囲でチューニングしましょうか。勝てるレベルは難しいけど、ゾクゾクする怪物には成りますよ」

 カルロはケリーの顔を立てた。

 「そうか、では宜しく頼むよ」

 大佐は満足の笑みを浮かべてキーを手渡した。

 

 「ありがとう」

 大佐が去った後でケリーは改めて礼を言った。

 「大変だが、私の依頼も含めて正式に仕事を頼むよ」

 ヒロコは「大丈夫?」とカルロに聞く。自分ではとてもじゃないが対処出来ない。

 「うん、まず大佐のDB6は足回りを中心にボクがやる。パーツを交換してオリジナルは大佐に保管してもらうよ。馬力も上げたいところだけど…」カルロは専門外とばかりにジョージを見た。

 「大丈夫。オリジナルのまま完全にバランスとってみるさ」

 「よし、任せた。次にケリー少尉のビートルは一度フレームを裸にして痛みや歪みを修正しよう。で、エンジンを載せ替えだ。フラット4はストックにあると思うがレストア出来るかい?」

 「大丈夫。アストンよりも楽だよ」

 「よし、キミの仕事はそんなところだ。後はヘミエンジンのビューイックへの載せ替えはそれほど大事(おおごと)じゃない。2灯化もサニー辺りを流用してグリルと配線を手直しするだけだ」

 ヒロコはいいチームが出来たなと嬉しく思った。

 

 ケリーが「それで…」と気まずそうに切り出す。

 「聞き逃したかもしれないが、新しい規定は自動車用レシプロエンジンだ。つまり意図的か偶然か分からないがヒロコのロータリーはこのままでは出場出来なくなる。レシプロという規制を見直すように私から大佐にお願いしようか?」

 ヒロコは困ったなと思いながらもケリーの申し出を断った。

 「これ以上波風立てない方がいいと思います」

 

 「ヒロコ、どうするの?ツバメはもうそのままじゃ使えないよ」

 HeroCCBに戻ってカルロが心配した。

 「別に私はどうしてもレースに出たい訳じゃないの。それにカルロ、あなた新しく自分の自由な車作るんでしょ?それでレースに出ればいいわ」

 「ハハ、さすがにそこまでは間に合わないかもね」

 「それは私が手伝うわ」

 最初は小憎らしく見えたカルロだが、今は頼もしく感じる。ヒロコはカルロの渾身の作を早く見てみたかった。

 

 

5

 

 「アストンマーティンってさ、もっと評価されて売れてもいいと思うんだよね」DB6のサスペンションを交換しながらカルロが言う。

 「まあイギリスの車なんだけどさ、イタリアのカロッツェリア・トゥーリングのスーペルレッジェーラで組まれた軽量車体なのさ。つまり従来の鋼管組みに代えて、鋼板溶接のプラットフォーム上に小径鋼管溶接でボディー骨格を作ってさ、アルミのボディーパネルを被せるってやり方。凄い技術なんだけど結局見えない部分だし、今の主流のモノコックに比べたら物凄く手間がかかる職人ワザだからかな、すたれちゃうよね、悲しいけど」

 ヒロコはロベルトのフェニセと自分のツバメを思い浮かべる。フェニセのようなチューブラーパイプの溶接フレームにアルミパネルのボディーなんて素人には出来ない。それでツバメは無難なモノコックにカーボンFRPのボディーにした。ただ長い目で見た耐久性では断然アルミがいい。

 カルロはDB6の作業に入る前に手早く図面を引き、鉄工所のタツに鋼管チューブラーフレームの溶接を頼んでいた。すでに新しい車の基本構造は決めていたようだ。ただエンジンに関してはツバメと同じロータリーを考えていたらしく、新たな候補を何にするか亜久津やエンジン屋の東次郎に相談していた。寸法や重量が分からないと荷重強度を確定出来ないからだ。

 「出来るだけ軽くて高出力がいいです」

 「そりゃお前、誰だってそう望むさ」

 「まあ無難なのはトヨタの2T-G辺りだな。あんな手軽なツインカムは他にない」

 「いやツインカムったって7000までしか回らんだろう。サニーやチェリーのホモロゲーションが切れて、レース用のA型が入って来てる。OHVで13000回せる化け物だぜ」

 それは良いかもとカルロは思った。

 「あとな、運が良いんだが何だかスズキの逆輸入バイクGSX-R750が2台も廃車で入ってる。市販で100馬力、軽さはピカイチだ」

 「面白え、インライン4だよな。例えばよクランクシャフト自作して2機でV8にするって手もある。かなり手間掛かるがやってもいいぜ、280馬力は出してやる」

 東次郎が燃える。

 「ちょっと待って、自動車用エンジンという制限だからバイクは使えないよ。だったらA型2機でV8は難しい?」

 カルロが難題を出す。

 「形にはなるが、折角の軽量メリットがなくなるな。それよりA型だったらボアアップがお勧めだ。狙いは200プラスアルファー馬力ってとこだな」

 

 「エンジンの方はどうだい?」DB6から一度降ろしたエンジンをばらし始めたジョージにカルロが声を掛ける。チェーンブロックやリフターを備える東次郎の作業場を借りていた。

 「凄いよ、ウェーバーの3連キャブ付いてるし、高性能のヴァンテージだね。圧縮比は弄りにくいからバルブタイミングを変えてみようかな。それなら元に戻すのも楽だし」

 「大佐はそこそこのチューニングでいいと思うよ。ミッションもATだし」

 「OK、じゃあ早めに片付けて次行こう」

 

 DB6は実質3日で納車した。パーツ待ちがあったからカレンダーでは1週間だ。大佐は「もう出来たのか」と驚いていた。その間ビューイックスペシャルのグリルを現物合わせで作成し、エンジンをヘミに載せ換えた。

 「でもこれじゃコブラのが速いよ。ブライト少尉は本当はどうしたいんだろう」

 ジョージが気に掛けた途端、荷物が直送されてきた。小型のブロア(スーパーチャージャー)とナイトロキットだ。

 「そうこなくっちゃね」

 推定600馬力超えのモンスターの誕生だ。

 

 いよいよ佳境に入る。

 ジョージはビートルエンジンのアフターパーツを調べ、2276ccへのボアアップにターゲットを絞った。人気があるのは軽快に回り、サーキット走行にうってつけの1641ccキットだが、ドラッグレースでは出来るだけパワーが欲しい。ソレックスのツインキャブレターにハイカムを組んで高回転型にする。ソレックスツインはオートチョークが効かなくなるらしいが、レース用なら問題ない。ベースが古いエンジンだからまずは全部バラして綺麗に補修していこう。完全にバランス取って9000回転いければ、270馬力も夢じゃないだろう。それにしても乾燥重量を量ってみて驚いた。109kg、何て軽いエンジンなのだろう。トヨタの2T-Gでさえ152kgあるのだ。

 

 ケリー少尉のドラッグビートルを間近に見て、カルロは感心する。何て凝った改造車だ、ただホイールベースを突き出したチョップドルーフではない、細部まで手を加えリアビューはワゴン風に仕上げている。ルーフのサーフボードもただの飾りと言うよりはウイングの機能を持たせているようだ。西海岸のビルダーらしいが、会ってみたいものだ。

 フェルディナンド・ポルシェ博士の設計によるビートルは、元々930以前のポルシェと同じくトーションバーのサスペンションなので、カルロはその破損を心配していたが、ケリーのビートルはすでにコイルスプリングの凝ったダブルウィッシュボーンに改造されていて全く問題無かった。ただポルシェのターボエンジンを積むためにリアフレームが追加で延長されていて、その溶接部が過度のストレスで割れていた。敏感なケリーはそれを「真直ぐ走らない」異常として感じ取っていたのだろうが、このままレースで走らせていたら大事故に繋がっていたかもしれない。カルロは補強のためにリアフレームを新設し溶接をやり直した。後はやる事もなく、ジョージのエンジン待ちになった。

 

 カルロは一息つく間もなく、自分の作品の製作に移る。タツがフレームを手曲げ加工しながら図面通りに仕上げていてくれたため、上からアルミパネルをリベットで固定し、美しい曲線ボディーを作り上げていく。最近はFRPが軽量の代名詞になっているが、アルミなら鋼板よりも100kg、FRPよりもさらに30kgは軽く出来るが、技量と手間が要求される。カロッツェリアの本領発揮だ。軽量化を追求するためカルロはフレームを細くし、アルミボディーとベンチュリーを狙った下面のアルミパネルにも強度を負担させる設計にした。ヒロコはツバメで培った経験を活かして、下面構造でカルロに協力した。

 「どんな車にしたいの?」ヒロコは見た事もない細身の超ロングノーズに想像を膨らませる。

 「うん、世界一美しいドラッグカーさ。アルファロメオTZやマセラティティーポのように、カロッツェリアの全盛期を彷彿させるイタリアのアルミ芸術でみんなを魅了してみせる」

 

 

 突然オブライエン大佐からお呼びがかかり、ヒロコたちは緊張の面持ちで基地に出向いた。

 「何か不具合がありましたか?」

 「いや、車は実に素晴らしい。ビンテージの外観で加速は以前とは比べ物にならない。ドライブするだけで青春時代にタイムスリップするようだ」

 「では今日はなんで…」

 「うむ、是非キミたちにお礼がしたくてね。本来なら私から出向くべきだが、生憎となかなか基地を空ける訳にいかないのだよ。それで申し訳ないが呼び立てさせてもらった」

 ヒロコはひとまずホッと胸を撫で下ろした。

 「これなんだが、受け取ってもらえんかね」

 と大佐はメッキされたマスコットのような物を差し出した。

 「ロールスロイスのオーナメント、フライングレディー。それもビンテージものですね!」

 カルロが目を輝かせる。

 「ロンドンのビンテージショップで見つけてね。書類の重し代わりに使っていたのだが、キミたちがまた車を作っていると聞いて、良かったら幸運のシンボルとしてプレゼントしたいのだよ」

 「ありがとうございます」

 カルロは大佐が大好きになった。

 

 ポリカーボネイトのウインド類など、特注のパーツも揃い、カルロは車を組み上げた。エンジンはニッサンのA型を1600ccにボアアップした超高回転レーシング仕様をリアに搭載し、ソレックスのツインキャブレターに東次郎オリジナルのタコ足マニホールドで210馬力を絞り出す。重心を下げるために当然の如くドライサンプとし、さらにナイトロ噴射装置を装着した。ヒロコのベンチュリーアンダーカバーでウイングレスとしたボディーは流れる様な曲線美で見る者を魅了する。フロントグリルには機能的には無意味なメッキバンパーにフライングレディーのオーナメントを驕った。

 「これは理屈でない性能を付加してくれるよ」とカルロはフライングレディーを撫でた。

 

 一方、ジョージの手掛けていたビートルエンジンも組み上がり、ケリー少尉の車も完成した。役者が揃った。

 

 

6

 

 「さて、この車のシェイクダウンと行きたいところなんだけど、公道を走れる仕様ではないし、僕も運転は得意じゃないんだ」

 シングルシートの美しい完成車を前にカルロが呟く。

 「まあ!運転が苦手なんて意外ね」

 ヒロコがからかう様に笑った。

 「あなたはどうなの?ジョージ」

 「正直言うとボクも得意じゃない。というか、ボク高校出たばかりでまだ免許持ってないし」

 あ、そうかとヒロコは大人びた風貌のジョージを眺めた。白人は日本人から見ると年齢より上に思えてしまう。

 「ヒロコ、頼むよ」カルロが嘆願する。

 「分かったわ、ケリーに頼んで基地で走らせてもらいましょ」

 「オゥ、出来ればレースまで秘密にしたいな」とまたカルロが無理を言い出す。

 ヒロコはツバメ用にもらった基地の軍用車両ナンバーがあることを思い出した。この際使わせてもらおう。

 「ところでこの車は何と呼べばいいのかしら?」

 「うん、シグノラ、イタリア語で『貴婦人』がいいと思うんだ」

 燦然と輝くフライングレディーのオーナメント、ピッタリの名前だ。

 

 アクツレーシングの周辺では夜間から早朝にかけて車が通る事はほとんどない。ヒロコたちはシグノラをひと気の無い早朝に持ち出した。一人乗りのシートにヒロコが収まりエンジンを始動する。ニッサンのA型レーシングエンジンは掛け損なったら厄介だ。プラグをかぶらせないようにアクセルペダルを軽く2回ほど踏み、セルのボタンを押す。ボッ、ボッ、と火花の飛ぶ音を聞き、タイミング良くアクセルを煽るとボッボッ、ファーン、ファン、ファンと小気味良いレーシングサウンドが響き渡った。ヒロコはホッと息を吐いた。失敗したらプラグを外して磨いてやり直しになるところだ。始動の儀式はカルロに任せても良かったなと思った。

 ニッサンの5速ミッションは市販車でもレースを前提にした独特の物だ。通常オーバードライブ設定の5速のギア比を1.00の直結にし、バックギアのシフト位置が5速になっている。代わりにローギアの位置がバックになっているので、知らずに乗ると勢い良く後ろに走り出すことになる。危険だとクレームがありそうだが、そもそもニッサン5速ミッションはそういう物だという暗黙の了解があり、それがまたマニア受けするのだ。そう言う点ではポルシェ911などと似た所がある。シグノラではリアエンジンにした関係でミッションが前後逆になり、余計に話がややこしい。結局のところバックは通常のポジションにあり、5速の位置がローギアで、そこからシフトダウンしていくほどシフトアップされるのだ。ドラッグレースでは何とかなるが、ロードレースではパニックになるだろう。ヒロコはローギアに入れて発進のタイミングを計る。低い着座位置はツバメとそれほど大差無いが、前方に伸びたノーズは狭い車幅と相まって独特の雰囲気を醸し出す。3、2、1と自分でカウントしてアクセルを開けてクラッチミートした。ノーズが浮き上がろうとするのをベンチュリーが直ぐに制御する。直進安定性は極めて良い。クォーンン…と甲高い排気音を奏でて、タコメーターの針は跳ね上がり、瞬く間に1万回転を超える。シフトアップを促すイエローランプが点滅するのを見て、即座にセカンドに入れた。凄まじい加速に視界は溶けるように流れて行く。とてもではないが回転計を読み取ることなど無理だから、ランプは必需品と言えた。発進して4秒程度でヒロコはアクセルを閉じてブレーキを踏んだ。この先、道は緩いながらもカーブしていて危険だ。フロントタイヤは飾りに近く、加減速はリアタイヤが主役だ。レースではパラシュートを付けた方が安心だが、カルロは不細工になるのを嫌うだろう。

 「どう?」

 スクーターにジョージと二人乗りで追いかけて来たカルロが聞く。

 「うん、凄くいいと思う。思うけど…なんか私には無理かな」 

 ヒロコはモヤモヤした気分で答えた。

 「不具合があるのかい?」

 「そうではなくて、一体感が薄いと言うか、感覚的な話だけどこのシグノラはホント女性なのよね。それで気高くて女友達なんて求めなくて、私を受け入れてくれそうにないの。男性がいいみたいよ」

 「何だよそれ」と言いながらカルロは分かってもいた。燦然と輝くフライングレディ、まさにシグノラはそう言う車なのだ。

 

 「さて、どうしよう」

 HeroCCBのプレハブオフィスに戻ったカルロは塞ぎ込んだ。まさか車自体のトラブルではなく、ドライバーで悩む事になるとは。

 「自分では駄目なの?カルロ」

 「う…ん、実のところボク、運動オンチというか、反射神経が鈍いんだ。ドラッグレースは反射神経が全てと言ってもいいからね、とてもじゃないが無理だよ」

 何だか可愛いいとヒロコは思った。切れ者カルロの思わぬ弱点に母性本能が疼くようだ。

 「この際、基地の誰かに貸し出しちゃう?癪だけど」

 「いや、ボク自身はシグノラを作り上げて満足で、無理に走らせるよりは、このまま飾って置きたい気分だよ。でも結構費用掛かっているし、ヒロコがショップの宣伝で走らせたければ任せるよ」

 カルロの眼の奥には寂しさが窺えた。ヒロコに乗ってもらおうと作ったからだ。

 「分かったわ、少し私が預かる」

 ヒロコはシグノラを見詰めて、頑張って乗ってあげようかと思う。だが、極限のドライビングでは僅かな不安や違和感が命取りになりかねない。ふと、ブラジルに帰った翔の顔が浮かぶ。こんな時、彼が居てくれたら…。

 

 基地ではワトソン航空兵が新任のゴードン少佐に呼ばれていた。

 「キミは軍隊において上官の指令は絶対的である事を知っているね?」

 「ハッ、承知しております」

 「私は此処へ赴任するにあたり、くだらんイベントを止めるように指令を出した。だがそれは基地司令官によって撤回された」

 「…」ワトソンの頬を冷汗が伝う。

 「まあその事自体は仕方がない。だがどうやら大佐に進言した者がいるらしい。だとすれば軍の規律を乱す由々しき事態だ。私はキミが進言者ではないかと思ってね、正直に答えなければ軍法会議も辞さない所存だ」

 ワトソンは震え上がった。

 「じ、自分ではありません」

 「ほう、だがキミはイベントに熱心なメンバーだと聞いたぞ」

 「ケ、ケリー少尉であります」

 ゴードンはニヤリと口を歪めた。

 「よかろう、退がってよし!」

 肩を落として立ち去ろうとするワトソンにゴードンは一言掛けた。

 「そう言えばイベントではケリー少尉が常勝らしいじゃないか。それでは固執もする訳だ。そろそろ彼の時代が終わってもいいと思わんかね?もし今回もケリーが優勝するようなら、キミも彼に加担する一味と私は思うだろうなぁ」

 

 

7

 

 アクツレーシングには不似合いな黒光りのベンツが入って来て、スーツにサングラスの運転手が出て来た。何事かと亜久津は身構える。

 「社長ヒサシブリネ」

 サングラスを外すと人懐っこい笑顔が現れた。

 「ピコ!無事だったのか、一体どうした、その服や車は」

 亜久津はかつての油まみれの従業員の変貌に心底驚いた。

 「話セバ長クナルケド、全部坊ッチャンノオ陰ネ」

 そう言うや否や、ベンツの後部座席から洒落た開襟シャツの若者が降り立った。

 「翔!」

 亜久津の背後でヒロコが大声を出した。

 「どうしてここに?」

 「やっぱり日本が恋しくなってさ、パパに頼んで留学する事にしたんだ。昨日着いたばかりだよ」

 「えと、ピコが何故一緒なの?」

 「うん、僕のせいで迷惑掛けたからさ、執事というか僕の世話係として働いてもらう事にした」

 「坊チャン素晴ラシイ人、私ノ奥サン一緒ニ雇ッタヨ。日本ニモ一緒ニ来タネ」

 ピコが嬉しそうにはしゃいだ。

 「そうか!そいつは良かったな」

 亜久津も胸のつっかえが取れた気がした。

 「私、急ニ居ナクナテ社長サンニ迷惑掛ケタヨ」

 「ああ、そいつは大丈夫だ」と亜久津はカルロとジョージを紹介した。

 「何だか前より凄く活気が出たよね、格好いい車が増えてるし」

 翔は遠目でツバメやシグノラを見て羨ましそうだ。

 「そう!ちょうどあなたを待ってたのよ、翔」

 

 「さあ、お待ちかねのレースウィークだ。今回から幾つかルール改正されて、レシプロエンジンによるドラッグの祭典になったぜ。前回2位だったジャパニーズガール・ヒロコの愛車が残念ながら見られないが、どうやら驚きの車を持ち込んで来たようだ。楽しみにしてくれよ。それともう一つのサプライズは我らが司令官オブライエン大佐が参戦して下さるぜ」

 基地は朝から興奮を盛り上げている。50台近い速さ自慢がエントリーしていた。ヒロコたちはシグノラをキャリアカーで運び入れ、最終チェックを済ませた。

 「後は頼んだわよ、翔」

 

 「ケリー少尉の車はどれかね?」

 会場整理員に尋ねるのはゴードン少佐だ。

 「ハ!少尉のお車はディフェンディングチャンプですので、車列の先頭であります」

 ゴードンは軽く手を上げて立ち去った。

 「おい、今回は大佐が先頭だぞ」

 「あっそうか」別の整理員に指摘された時には少佐の姿は見えなくなっていた」

 

 パレードが終わり、レースが開始される。勝ち上がりのトーナメント方式だ。出走を待つ車列に身を潜めるように屈むゴードン少佐の部下の姿があった。彼はゴードンが目を付けていた車の脇に移動すると、腰から軍用ナイフを抜き、車のタイヤのサイドウォール目掛けて突き刺そうとした。

 「そこで何をしている!」

 振り向くとオブライエン大佐が立っていた。

 「それは私の車だが?」

 MP(憲兵)が呼ばれ、言い訳の通らない状況でゴードンの部下は拘束された。

 「馬鹿者が!軍法会議を覚悟したまえ」

 

 スタートラインに付こうとする大佐にジョージが「点検しましょうか?」と声を掛ける。

 「大丈夫だ、何も問題無い」

 オブライエンは軽く手を上げて答えた。

 「さあ、続いての登場は我らがオブライエン司令官だ。相手はド派手なホットロッドカマロのニック、クラシカルなファミリーワゴンに負けたら恥ずかしいぜ、怯まず行こう。両者スタートラインについて、シグナルの点灯が始まった…Go!」

 大佐は思い切りアクセルを踏んだが、年齢による反射神経の衰えには逆らえず、僅かに出遅れた。ドラッグレースでの僅かは致命的で、そのままカマロに追い付く事なくゴールを迎えた。

 「ニックのカマロが順当に勝ち上がり。タイムは驚異の11秒36、だが大佐も何と13秒88だ。これはお世辞抜きで称賛に値するぜ」

 観衆の喝采に大佐は満足気に手を振った。

 

 フェラーリ308GTBからC2コルベットに乗り換えたワトソン航空兵は圧倒的な差で相手を捩じ伏せた。タイムは11秒そこそこだが、全力を出し切っているようには見えない。ブライト少尉も地面を擦る様な2灯のビューイックスペシャルで、切り札のナイトロを使わずに11秒台を出して勝ち上がった。続いてはシグノラの登場である。

 「頼むわよ、翔」

 ヒロコが祈る様な面持ちで呟く。

 「うん?僕ならここに居るよ」

 その声に驚いて振り向くと、翔がニコニコして立っていた。

 「ええ!どうして?シグノラのドライビングはどうするの」

 「カルロに任せたんだ。シグノラのシートに座ってみたら強烈な念を感じてさ、僕じゃ駄目だって言うんだ。彼女はカルロにしか気を許さない」

 ヒロコは自分が感じた違和感を思い出して、それは納得出来た。だが…

 「カルロは嫌がったでしょ?」

 「うん、自分は鈍いから駄目だって盛んに言ってた。でも言葉の裏側には、ヒロコのため、ショップのために負けてはいけないってプレッシャーが凄いんだ。だから僕は、勝ち負けはどうでもいいんじゃないかって言ってみた。それよりもシグノラはカルロの夢を形にしたもので、カルロに喜んでもらいたい、カルロと楽しさを分かち合いたい、それに答えてあげないのは可哀想じゃないかってね」

 翔はヒロコが漠然と感じた事を見事に言葉にしていた。そうなのだ、フェニセが翔を選んだように、自分にツバメがあるように、シグノラはやはりカルロなのだ。

 

 「さあ、ひと目見たら忘れられないスリムビューティーの登場だ。新生HeroCCBが送り出したドラッグスター、シグノラ。どんな走りを見せてくれるのか楽しみだぜ」

 カルロはタイヤをバーンアウトさせてスタートラインについた。相手はマスタング、シグノラの操作は目を瞑ってでも出来る、後は高鳴る心臓を収めて冷静になるだけだ。シグノラはとても温かく包み込んでくれて至福の安心感がある。シグナルの点灯が始まった。最後のシグナル間隔は0.4秒、それよりも早く発進したらフライングで失格だ。カルロは絶妙のタイミングでクラッチミートしたつもりだが、並走するマスタングが斜め前に見えた。フライングの合図は出ていない。やはりスタートは難しいものだ。タコメーターのランプ点滅を視界の隅に捉えてシフトアップしていく。1万回転からグッと伸びる魔法のような奇跡のOHVエンジンは、セカンドでマスタングを捉え、サードギアにシフトアップした時には突き離していた。マスタングは慌ててナイトロを使うが及ばない。そのまま3速でゴールを越えた。タイムは10秒17、今日の最速だ。

 ギアは5速まであるわけだからもっとファイナルを落として有効に使った方が良いのではと思われるが、そう単純ではない。シフトアップ操作の間は駆動力が無くなるから、あと2回もロスするより3速ホールドで走り切れた方が速いのだ。ナイトロを活用する場合も噴射量と噴射時間のバランス調整が重要となる。単純に見えるドラッグレースだが、奥が深いのだ。

 

 続けてディフェンディングチャンプのケリー少尉が登場。今までとは異なる高回転サウンドのビートルホットロッドで余裕の9秒91を叩き出して最速タイムで勝ち上がった。

 

 2回戦、3回戦と、シグノラとビートルが最速を塗り替えながら進み、6台による決勝ヒートを迎えた。メンバーはタイム順にビートルのケリー、コルベットのワトソン、シグノラのカルロ、ビューイックスペシャルのブライト、カマロのニック、ダッジチャージャーのメルケルだ。カルロはすっかりドライビングの魅惑に陶酔していた。スタートのタイミングも慣れてきた。後はタイムを削るためにレッドゾーンギリギリまで引っ張ってシフトアップ出来るかが鍵だ。一歩間違えればエンジンを壊すスリルが堪らない。それはケリーも同じだった。これまでナイトロで優越感を味わって来たが、この繊細な世界を知ってしまったら戻れない気がする。瞬間的パワーではターボやナイトロだが、言わばスポーツにおけるドーピングのようなものだ。ノーマルアスピレーションにこそ究極的なアーティスティックな香りが漂う。

 

 「さあお待ちかねのクライマックス、決勝ヒートの始まりだ。今回は勝ち残った上位6台が、これまでのタイム順で1位と6位、2位と5位といった組み合わせで準決勝を行い、その勝者3台で決勝レースを行うぜ。先ずは3位のHeroCCBのシグノラに、ビューイックスペシャルを駆るブライト少尉が挑む」

 レース前にブライトが握手を求めて来た。カルロはちょっと複雑な気持ちだった。シグノラもビューイックも自分が手掛け、中身まで把握している。まあ、どちらが勝っても口惜しさは残らないだろう。バーンアウトを済ませ、スタートラインにつく。シグナルを数えて好スタートを切った。ビューイックがジリジリと離されて車1台分の差が出来た。だがここからだ。ブライトは3速にシフトアップすると同時にナイトロを使った。グンと背中が押され、見る見るシグノラとの差が詰まる。両者ほとんど同時にゴールラインを駆け抜けた。

 「凄いレースだぜ、どちらが勝ったか肉眼じゃ分からない。タイム表示は…こいつは驚いた!ビューイックスペシャルが8秒98のレコードタイムだ。一方のシグノラは…8秒95だ!」

 観客は沸きに沸いた。遂に夢の8秒台に突入だ。

 だがその興奮も束の間、続くワトソンのコルベットはさらに8秒74を出し、それをケリーのビートルが8秒61で軽々と突き離した。

 

 カルロの前にジョージがやって来た。新生ビートルは彼の作品と言ってもいい。

 「参ったな、あのタイムは出せそうにない」

 「ハハッ、シグノラも見てあげようか?」

 ジョージは手早くプラグをチェックする。

 「同じソレックスだからさ、ニードルを1/4絞ってプラグ熱価を1番上げればもう500回転ピークバンドを上げられると思う」

 カルロはそのジョージスペシャルをお願いする事にした。シフトアップランプは500回転で1回点滅する設定にしてある。これまでは2回目でシフトしていたが、3回目にずらせばいい。だがバルブクラッシュを起こす可能性もあるからギリギリの賭けだ。

 

 「いよいよ最終レースを迎えるぜ。今回初めての試みとして、コース幅を拡張して3台の同時走行だ。実況にも力が入るってものさ。右端にトップタイムのケリー少尉、中央にワトソン航空兵、そして左端がスペシャルゲストHeroCCBからカルロ君だ。毎回魅了してくれるが、今回持ち込んだ貴婦人シグノラは格別だぜ、情報ではフライングレディーのオーナメントはオブライエン大佐の贈り物だそうだ。何故って大佐の馬鹿っ速いアストンを手掛けたのも彼らで、その出来栄えへの御礼らしいぜ。興味ある奴は愛車を頼んでみたらどうだ?」

 それは明らかに大佐の粋な計らいだった。

 「各車バーンアウトを終え、スタートラインに並んだ。シグナルがカウントを告げる…」

 3台の奏でる空吹かしサウンドが実況をも掻き消す。トップ3はほぼ同時にスタートした様に見えた。「ワトソンのフライングだ」いち早く察知したケリーは黒旗の合図と同時にアクセルを緩めた。次の瞬間、カルロはワトソンが右にステアリングを切るのを見た。有り得ない行為だ。コルベットはビートルに体当たりしそうになったが、減速していたケリーはさらにブレーキと左へのステアリング操作で間一髪で衝突を回避した。ワトソンはコース脇のパイロンを薙ぎ倒し、観客に突っ込みそうになり、車をスピンさせて何とか最悪の事態は避けたが、パニックで将棋倒しが起きて7人が怪我をした。

 ケリーはいち早くワトソンに駆け寄り、カルロも車を停めて走り寄った。ワトソンは深くうな垂れている。「大丈夫か?」というケリーの声も耳に届かない感じだ。救急隊が来て負傷した観客とワトソンを搬送して行った。

 「あの…」

 カルロがケリーに話し掛ける。

 「僕は見てしまったんです、ワトソンさんがわざとステアリングを切るのを」

 「ああ、私も見たよ。だが彼の名誉の為に、この件は黙っていてくれないか?」

 

 貴賓席でゴードンが笑いを堪えていた。これをネタに再び今後のイベントの中止を提案出来る。それどころかオブライエンの責も追求出来るだろう。上手くいけは自分が一気に基地司令官に就任だ。

 「ゴードン少佐」

 憲兵を連れたオブライエンが立っていた。

 「聞きたい事がある。一緒に来たまえ」

 

 簡易裁判が行われ、ゴードンは反逆罪に問われて本国へ送還となった。加担した部下とワトソンは3日間の禁錮刑となり、さらにワトソンは今後のレースへの出場を失った。

 

 決勝レースは1時間のクールタイムを置いて観客をやや遠ざけて再開される事になった。

 「こんな事態になってしまったが、改めてよろしく頼む」

 ケリーの差し出す右手をカルロはしっかりと握り返した。

 複雑な騒めきの中、二人はそれぞれの愛車に乗り込んでスタート位置についた。カルロは大きく深呼吸して冷静を取り戻す。すっかり慣れたスタートシグナルの点灯に集中し、絶妙の発進をした。ケリーも並んでいる。シフトアップランプの点滅3回目で素早くセカンドに入れ、さらに加速。隣のビートルとは全く差がない。同じ様に3速にシフトアップしてアクセル全開でゴールを駆け抜けた。

 「さあ2台同時のゴールだ、決着は付いたのか?少尉のビートルは8秒58、またも驚異のレコードタイムだ。だが待て、シグノラは…8秒57!ニューチャンプの誕生だ!」

 

 カルロとシグノラは観衆の喝采を浴び、基地を出る頃にはすっかり暗くなっていた。レストランで祝杯を挙げようとなり、亜久津パパたちも合流した。

 「今日の立役者はジョージなんだ」カルロが持ち上げ、ジュースで乾杯した。

 ヒロコはカルロがとても逞ましく、キラキラと輝いて見えた。

 「ねえカルロ、結婚しましょう」

 ヒロコは頬を染める。カルロは優しくキスをした。

 「イヤッホー!!」

 翔とジョージが祝福の歓声を上げ、祝勝会は店を巻き込んでのウエディングパーティーとなった。

 

 

          シグノラ(カルロの情熱) 完