【街外れの夢工場】 〈前作→フェニセ (ロベルトの遺作)

 

 

ツバメ (ヒロコの挑戦)

 

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 ヒロコは大学で航空力学を学んだ。だが卒業しても日本では飛行機産業は衰退していて、ましてや女だてらの技術者に就職先はなく、かと言って海外で働くコネも度胸もなかった。それで解体屋を手伝っている現状だ。そんな日々に不満があるわけではなかったが、レースウィークでドラッグレースを目の当たりにして眠っていた情熱に火がついてしまったようだ。

 ケリー少尉のホットロッドに対抗出来る車を作ってみたい。そんな思いが頭を占めた。

 「ねえ、ロベルトの図面やフェニセのスペアパーツは残ってるわよね」

 ヒロコは図面を元にメインシャシーやサスペンションの製作を依頼し、フェニセの姉妹車を作ることにした。

 ドラッグレースを考慮するとスタート時後輪に荷重のかかりやすいリアエンジンやミッドシップが理想的だ。ポルシェもビートルもリアエンジン、どちらもフェルナンド・ポルシェ博士の送り出した姉妹車だから当然と言える。ロベルトの作ったフェニセもツァガート時代にアバルトを手がけた経験からリアに近いミッドシップだ。だからフェニセそのものを改造すれば速いドラッグレーサーになるだろうがそれは出来ない。手間がかかっても一から組み上げた方がいい。

 ヒロコには、いや他の誰にもロベルトのようなパイプフレームは作れず、ましてやアルミの叩き出しも無理であるから、図面を引き直してモノコックでカーボンFRPのボディーにした。デザインもヒロコ調である。最大の特徴は下回りをパネルにして空気の流れを制御し、車体全体を翼のように使って路面への逆揚力を得るウイングカーとしたことだ。ここにヒロコの秘めたる力が発揮された。問題は車体下面の空気の流れをどうシミュレートするかである。最近では構造解析の有限要素法の応用で流速計算も出来るようだが、こんな解体屋で高性能なコンピュータの導入など望めるわけがない。とりあえず机上で何パターンか試作したものを実車でテストしていくしかないのだ。比較的簡単なのは鋼板パネルをプレス加工することだが重量がかさんでしまう。理想はアルミかカーボンにしたいところだが、どちらもトライアンドエラーには向いていないので、最終的な形式が決まってからの話だ。こんな時、ロベルトだったらアルミ板を叩いて簡単にやってしまうのだろうなと思う。

 もう一つ、同じく重量を考慮するとフェニセに積んだ5MGエンジンなどは不利だ。やはりポルシェやビートルの空冷エンジンは軽くて凄いなと思うが、解体屋にはなかなか入ってこない代物だし、使うのも何かシャクだ。閃いたのがマツダのロータリーで、ペリフェラルポートという吸排気にすることで爆発的な出力が得られるらしい。

 「俺には無理だよ」 

 チューナーの東次郎に相談したら一発で断られた。相当勘と経験の世界のようだ。

 「最近マツダの整備士から独立した奴がいてな、そいつなら…」

 とオートサービス・アペックスの三隅という男を紹介された。ヒロコはついてるなと思った。

 

 

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 わずか3ヶ月で車はとりあえず形になり、ヒロコは路面を掠めて飛ぶイメージでツバメと名付けた。早速テスト走行したいが翔はもういない。誰もそんな大役は引き受けたがらないのでヒロコは自分でドライブすることにした。もともとスポーツドライブの経験があるわけではないが、翔の道案内で同乗するうちに一通りのテクニックは覚えてしまった。

 ドラッグレースはタイヤの消耗が激しい。フェニセに倣ってツバメもピレリの特殊サイズをおごったが、毎回新品を履かせては湯水のごとくお金が飛んでいく。レースというのはとかく費用がかかるものだが、スポンサーも賞金もない名誉だけのアマチュアレースだから出来るだけ出費を抑えていきたい。すると亜久津が再生タイヤの工場と交渉して消耗タイヤを安く再生出来ることになった。もちろんトレッドコンパウンドはピレリ純正とはいかないが、この際贅沢は言っていられない。

 ケリー少尉が基地のパスをくれていたので、広い敷地の隅をテスト走行に使わせてもらうことにした。ケリーも興味深く見つめる中、ツバメのシェイクダウンを行なった。

 ファババ!ファババ!ロータリー13Bペリフェラルの快音が響く。ヒロコはシートベルトを確かめ、大きく深呼吸すると最大トルクを発生する7000rpmで勢いよくクラッチを繋いだ。一瞬タイヤが空転し、焦げたゴムの匂いとブラックマークを残してツバメは蹴飛ばすように発進した。すぐに一速のレッドゾーンに達し、素早くシフトアップする。つまりはそれだけだ、ドラッグレースでは絶妙のタイミングのスタートと素早いシフトアップ、そして上位クラスでは数秒間出力を上げるナイトロガスの噴射タイミングが全てなのだ。ツバメは加速とともにグッと車体を沈める。ベンチュリー効果が効いているのだ。ヒロコは狙い通りとほくそ笑む。3速にシフトアップして400mを越えた。タイムは13秒台、ケリーのビートルにはとても及ばないが、最初にしては充分な記録だ。ケリーが親指を立てている。

 「タイヤをクラッチ代わりに使うのは正解だが、さらに上を目指すならフロントだけブレーキを利かせて後輪を空転させて温めてスタートすることだ。ビデオでも見るといい」

 スタート地点に戻ったヒロコにケリーがアドバイスをくれた。無敵のビートルはすでに月1回のレースウィークで30連勝していて、ライバルの出現を望んでいるのだ。「グッドラック」と笑顔で去っていった。

 それから4本ゼロヨンをやると、ヒロコは5本目にもう少し高速域の挙動を見ようと400mからさらに加速を続けた。1kmに達する辺りで突然ガコン!と車体が沈み込み、ツバメは後方に激しい火花を散らして制御不能になった。ステアリングは全く効かず、辛うじてブレーキで事無きを得る。速度が増すほど強まるベンチュリー効果にサスペンションのスプリングが耐えられなくなって完全に底付きしてしまったのだ。一般道だったら大変なことになっていたかもしれない。ヒロコは思わぬ難題を突き付けられて、複雑な気持ちでテストを終えた。

 

 

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 スプリングの強度を変えてみたが、多少強くした程度では底付きを防げず、大幅に強度アップしてしまうと低速でのベンチュリー効果は期待出来なくなってしまう。もっともベンチュリー効果は本来高速域で求めるものなので、ヒロコの設計思想が突飛なのだ。

 どう考えても答えは二つしかない。つまり一つは最初から車高をベンチュリーの効く低さにしておいて、ガチガチに硬いスプリングでそれ以上の沈みを許さないこと。これはいわゆるシャコタンと同じ、いやそれ以上に過激な選択だ。ベンチュリーを有効に発生させるための路面との隙間は狭ければ狭いほど良く、これが数ミリの最低地上高なら言うことはないが、「車庫から出られない」ほど路面の凹凸に弱い車になってしまう。さらに完全にシステムを活かすにはガチガチのスプリングどころか鉄の棒でも入れておけとなってしまう。

 もう一つの答えは、可変スプリングという発想である。つまり初期の荷重に対しては柔らかく反応し、以降は頑固に抵抗する二重性格のようなスプリングだ。専門的には非線形応答スプリングという。ヒロコはそれしか道はないと思った。そして試験的に柔らかいスプリングと硬いスプリングを半分づつ切って直列に繋げておく手法を取った。

 テスト走行の結果は底付きも発生せず、なかなか良好であったがどうもスマートではない。それで鉄工所のタツに相談して徐々に太さの変わっていく専用スプリングを作った。

 これで完成と思いきや、最高速トライをしたらまたもトラブルが判明した。スプリングの細い部分が強度不足で亀裂が入っていて、あわや大惨事になる寸前であったのだ。ヒロコは守られている気がして胸を撫で下ろした。しかし次々に難問が立ちはだかるものだ。もうやめてしまおうかと思うこともある。だがその度に最後の気力を振り絞ってフェニセを作り上げたロベルトの姿が浮かび、鼓舞される。スプリングの強度は太くするか材質を替えるかしかない。太さは散々煮詰めた結果だから後は材質という事になる。タツに相談すると最近話題のチタン合金がお勧めだと言う。鉄よりも剛性も靭性も高く、あらゆる分野で革命を起こしている金属だ。ただ難点は加工が難しくてコストが跳ね上がってしまうことだ。ヒロコは三つ目の解決策として、スプリングへの負荷の軽減もあると閃いた。ツバメの狙いは最高速ではなく加速であるから、ミッションの最終減速比を高めて最高速を犠牲にして加速を僅かでも良くしてやるという手法だ。それとチタン合金の採用で安全を確保することにした。

 完成したツバメ、ケリー少尉のアドバイスでサイドブレーキをフロントに組み替えて後は本番のレースウィークを待つばかりだ。ところが最後にして最大の難問がヒロコを待ち受けているとはその時思いもしなかった。

 

 

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 ベンチュリー効果を持つウイングカー、あるいはグランドエフェクトカーはその画期的な速さと裏腹に、シャシー下面の気流の乱れが生じた際には車が浮き上がり、宙を舞うことになってしまう。F1やインディではジル・ビルヌーブの事故死を切っ掛けに1982年でウイングカーは禁止になっている。

 

 

 ドラッグレースではレースの性質上スタート時に前輪が浮き上がるウイリー状態になりやすく、そのため前輪の浮き上がり防止に後方にバーを付ける場合もある。だがヒロコは余計な付加物は付けたくないと思った。

 

 

 結局のところ下面の形状を突き詰めるしかない。考え得るあらゆる場合を想定してヒロコが作り上げたのは、前輪の浮き上がり防止にベンチュリー効果を車体中央よりも前方で発生するようにし、さらに後輪の前で左右に流れを逃す整流板を付け、万が一スピンした際に後輪から浮き上がらないようにした。効果をテストした後、最終的にアルミで成形し、ツバメは完成した。

 

 久しぶりのレースウィークにヒロコたちの姿があった。もちろんツバメで参加するためだ。目標はドラッグレースなのだが、その参加資格を得るためにロードレースにエントリーして優勝を目指す。最高速を意図的に抑えたツバメは、コーナーのテクニック勝負だ。「翔なら勝ってしまうんだろうな」と思いつつ自らステアリングを握った。

 予選のタイム計測は4番手、ギリギリ決勝進出だ。例によって3位はワトソンのフェラーリ308GTB、2位はケリーのオールド仕様ビートル、そしてトップはACコブラのブライト少尉だ。ヒロコは内心満足していた。最終的な下面カバーは後輪よりも前輪のグリップを増す形になり、ステアリング操作で簡単にドリフトに持ち込める。そして流された側のサイド整流板が効いて片側の後輪のグリップが回復する。つまり素人でも比較的簡単にドリフト走行出来るのだ。

 決勝、スタートと同時に飛び出したのはヒロコだ。ドラッグ仕様だから発進加速には自信がある。今回のコースは最初短いストレートで高速コーナーを大きく弧を描くように回り、そこからゴールまで長いストレートの加速競争だ。トップで高速コーナーに入ったヒロコは勝手にドリフトしようとするツバメを上手く抑えながら回っていく。だが後輪が滑ったりグリップしたりの小刻みな繰り返しは逆に完全なグリップ走行よりも遅く、コーナーの途中でビートルとコブラに抜かれた。フェラーリは抑えて長い直線に入る。再びツバメが差を詰め、ゴール寸前で前の2台を抜けそうになったその時だ。2台は排気管から炎を吹いて爆発的加速を見せツバメを振り切った。やられた、ナイトロだ!こんな場面で使うんだ。

 ゴールしたヒロコは終わったと思い放心状態だったが、ケリーもブライトも午後のドラッグレースのシード出場権を持っているのでヒロコが繰り上げで出場出来ることになった。

 

 

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 ヒロコはこの時のためにツバメを作り、仕上げて来たようなものだ。ドラッグレース、加速自慢の32台によるトーナメント戦。スタート地点に2列に分かれて16台づつ並ぶ。みんなエンジンフードを上げて車好きの観客たちに心臓部を披露している。一番人気は30連勝中で無敵のビートル、ケリー少尉の黄金色のドラッグレーサーだ。ブライト少尉のコブラを含めて圧倒的に多いのはアメリカンV8最大8リッターのモンスターエンジンたちがピカピカに磨き上げられ、そこにフードから突き出るエアインテークを付けたり上方に向けて火を吹く排気管を付けたり、それぞれのこだわりを競い合っている。異色なのは何と言ってもツバメのロータリーで、みんなこんなに小さなエンジンで怪物たちに太刀打ち出来るわけがないと冷ややかな視線を送っていた。

 その冷ややかな視線はヒロコの初戦で驚きの目に変わった。カマロを相手に圧倒的な差で勝ち上がってしまったのだ。タイムは10秒7、出場車の多くが12秒から13秒台なのだから異次元の速さなのだ。2戦目、3戦目と勝ち上がり、次に隣に並んだのはブライト少尉だった。残るは4台による準決勝と決勝だ。ボボボボボボ…コブラが野太い排気音を上げる。スターターが両手を上げるとファワワワワワン!と排気音が勢い付き、後輪が空転してモウモウと白煙を上げ始めた。ヒロコは迷いながら、そのスタート方法は温存することにした。ブライトやケリーのようにスペアタイヤを用意していないからだ。またナイトロ噴射装置も付けているが、日本ではボンベの入手が難しく、今日は2本だけ用意してきた。

 スターターが両手を振り下ろし、両者は猛然と発進した。タイヤを空転して温めていたブライトのコブラが先行し、ツバメが僅差で追う。ドラッグレースではこの僅差が時に勝負の分かれ道だ。ベンチュリーが効いてタイヤのグリップが増すが、怪物コブラとの差は詰まらない。ノーマルでゼロヨン12秒台のACコブラ、ブライトの愛車はさらに手を加えているはずだ。しかしながりツバメも速度が増すほど路面グリップも増し、確実にパワーを加速に変える。中間点を過ぎてようやくコブラとの差がなくなり、肩を並べた。ブライトはこちらをチラリと見るとニヤリとし、グンと速度を増す。ナイトロだ!ヒロコも3速に入れると同時に初めてナイトロのボタンを押した。景色が溶けるような加速が始まる。速度が増すほどツバメは有利だ、ゴール寸前でコブラを抜くとヒロコはやったと拳を握った。タイムは10秒1、ナイトロの威力だ。

 「素晴らしい車だ。ケリー以外に久しぶりに負けたよ」

 ブライト少尉が寄って来て称えた。

 

 決勝、ケリー少尉のビートルが隣に並ぶ。もう温存することはない、ここで全てを出し切るのだ。スタート準備、ヒロコはフロントサイドブレーキを引いてクラッチを繋ぎ、後輪を空転させる。ケリーも同じく後輪から白煙を上げる。スターターの腕が僅かに動くやいなやビートルは飛び出していく。ヒロコも絶妙のスタートを切ったつもりだが、反射神経の差だ。女性が最終的にレースで勝てないのはこの性別差だと言われている。すでに車体半分前に出たビートルは、マフラーから炎を吹いて猛然と加速を始めた。ツバメがグングン離されていく。ナイトロを使っているのだ。一度炎が消えたと思いきや、セカンドにシフトアップして再び炎を吹く。もはや手遅れに感じた。ケリーのビートルはナイトロを何本か使えるのだ。ヒロコも3速に入れるとナイトロを入れた。異次元の加速が始まるが、遥か前をビートルが同じように加速していき、圧倒的な差で先にゴールを越えた。ヒロコは9秒9という凄いタイムを出したのだが、ケリーは9秒3でそれを退けた。

 

 ヒロコはしばらく呆然とし、そして泣いた。苦労して努力して作り上げたツバメが時間の浪費にさえ思えた。「良くやった」という亜久津の言葉も耳に届かない。ケリーが近寄って来て、

 「久しぶりに歯応えのあるレースだったよ」と握手を求めた。

ヒロコは涙を拭ってそれに応じる。

 「私のビートルはナイトロを3本積んでいる。普段はせいぜい1本使うかどうかだが、ブライトとのレースを見て全力を出させてもらったよ。今ドラッグレースはナイトロ全盛といえるが、エンジンには半端ない負担が掛かるから私のビートルはもう走れた状態じゃない。キミの車はちゃんと走れるだろ?本当に勝ったのはどちらなのだろうね」

 ケリーはエンジンをダメにする覚悟で勝負に出たのだ。それを聞いてヒロコは少し報われた気がした。

 

 ケリーはマクダネル・ダグラスやロッキードに紹介出来るから、アメリカで働いてみないかとヒロコに提案した。とても魅力的な話だが、おそらく軍事開発に関わることになるのだろう。ヒロコはそれは生理的に受け付けない気がして、丁重に断った。

 

 

6

 

 「折角のチャンスを断わっちまって良かったのかよ」

 解体屋に戻って一息つきながら亜久津が聞いた。

 「私がいなくなったら誰もお茶淹れてくれないでしょ」とヒロコが笑う。そう、この時間が止まったような寛ぎ感覚がここの魅力なのだ。だからこそロベルトのフェニセが生まれ、ツバメが生まれたのだ。世界一の夢工場、そう思うと屑鉄が輝いて見えた。

 

 

          ツバメ(ヒロコの挑戦) 完