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mathichenの徒然なるままに

mathichenの酔いどれ日記【Hatena版】
https://mathichen.hatenablog.com/
ココに常駐中

$mathichenの徒然なるままに-ワレサ議長

ユーロへの意気込みを語るワレサ氏
掲載: 2010年11月9日(火), 10.07CET
ポーランドの元大統領で1983年にノーベル平和賞を受賞したレフ・ワレサ氏が、UEFA EURO 2012をピッチ内外で成功させることに対する情熱と決意を語った。

旅の多い生活を送るうちに、地元のクラブ、KSレヒア・グダニスクへの情熱が薄れつつあるポーランドのレフ・ワレサ元大統領だが、UEFA EURO 2012の開催を前にサッカーへの愛を再び取り戻したいと考えている。

フレンズ・オブ・UEFA EURO 2012に選ばれた著名人の中でもひときわ大物のワレサ氏は、大会の成功に貢献したいとその意気込みを語った。

「できうる限り最高の準備をし、最高の大会運営ができるよう、私も全力を尽くすつもりだ」とワレサ氏はUEFA.comに語った。「具体的に何ができるか分からないが、いろいろなところにツテがあるし、ポーランドの歴史において一定の役割も示してきたので、それが何らかの形で活用できるかもしれない」

近年の歴史においてワレサ氏が果たしてきた役割は確かに非常に大きい。彼は旧ソ連政権下で初めて独立自主管理労働組合、『連帯』を共同設立。その後、独立国家となったポーランドの大統領を1990年から1995年まで務めた。1983年にノーベル平和賞を受賞した同氏は、今も祖国の発展のために奔走しており、UEFA EURO 2012はその運動を促進する絶好の機会と見ている。

「ポーランドは欧州、そして世界とのさらなる融合を図り、なるべく早く諸国と同じ土俵に立ちたいと願っている」と67歳のワレサ氏は続けた。故郷のグダニスクは、ユーロにおけるポーランド国内の4会場のうちの1つだ。「EURO 2012のような大会は、その目標の実現に大いに役立つ。だから成功させるために全力を尽くさなければならない」

だがワレサ氏は、休日も返上で仕事をしてきたため、スポーツ、とりわけレヒア・グダニスクへの情熱を満たすのは不可能だったと認めた。「最近はあちこち飛び回っているので、サッカー界のことはあまり追えていない」という。「だがついていけるように頑張るよ。私は勝利が好きだ。大会の組織運営の面でも、実際の試合でも負けたくはない」

さらに、「開催国は有利なことが多い」と続けたワレサ氏は、FIFAワールドカップで2度、3位に入賞した1970年代のポーランドの黄金世代について熱く語った。「(カジミエジュ・)ゴルスキ監督の下で見せた、グジェゴジュ・ラトー、(ウオジミエジュ・)ルバンスキ、そしてアンジェイ・シャルマフといった選手のスピードを生かした戦い。ああいうプレーをやってくれるのではないかと思っている」

「わが国には過去に快挙を達成した人たちがいる。彼らが、開催国として恥じない戦いを見せるための人材選びを手助けしてくれるかもしれない」とワレサ氏は語った。ピッチでは何が起こるか分からないが、ワレサ氏が一つだけ確信していることがある。それはUEFA EURO 2012の開催国を務めることで、ポーランドの人々がこの大会を思い出深いものにするため、一致団結するだろうということだ。

( 写真と文の出典先:UEFA.com )

mathichenの徒然なるままに-鉄の男


Ballad of Janek Wiśniewski in Man of Iron

~独立自主管理労働組合「連帯」(どくりつじしゅかんりろうどうくみあい「れんたい」、通称:「連帯」、Niezależny Samorządny Związek Zawodowy "Solidarność"、略称:NSZZ "Solidarność")は、ポーランドにおいて労働組合から公然たる反共運動へと発展した組織である。1980年、社会主義国家として初の労働者による自主的かつ全国規模の労働組合として結成。

「連帯」は、ポーランドにおける民主化運動において、主導的な役割を担った。

同労働組合は、自由な組合活動が認められていない中で成立したもので、成立当時、ポーランドの労働組合といえば政府主導の「労働組合中央評議会」であった。ポーランド政府によって一度非合法化されたものの、非合法化された後も活動を続けた。その後、ミハイル・ゴルバチョフによってペレストロイカが始まると、その流れの中でポーランド政府は「連帯」等の勢力との妥協を模索し、「連帯」運動は合法的地位を獲得する。

円卓会議が開催されると、政権維持を模索するポーランド統一労働者党に対し、「連帯」は民主化を求める民衆勢力を背景として強気の姿勢で交渉に臨み、最終的には、民主的手続きによる政権奪取に成功した。

なお、ポーランド出身のローマ教皇であるヨハネ・パウロ2世は、ポーランド政府による「連帯」の非合法化に対して度々憂慮する発言を行っていた上に、「連帯」を事実上支持する発言を行っていた。さらにアメリカのCIAが「連帯」への資金調達を行う際の抜け道として、ヨハネ・パウロ2世の黙認のもとで、ローマ教皇庁の資金管理、運営組織である宗教事業協会が利用されたという報道がなされたこともある。~

( Wikipedia:『独立自主管理労働組合「連帯」』より引用 )

ワレサ『議長』見たら、こういう流れになりました
‘鉄の男’(1981年)アンジェイ・ワイダ監督も『連帯』運動に参加していたのですなってんで

1980年代に『連帯』議長としての来日時
新幹線車内でだったか、修学旅行の中坊どもとフザけるご陽気なおっさんの一面を見せたとか
小さな村に生まれ育ち、高校卒業後グダニスク造船所(旧レーニン造船所)の電気技師に
大学出の頭デッカチな指導者とは人柄からして違うようで

旧東ベルリン市民の書いた本によれば
共産圏市民は、チャンピオンズカップやUEFAカップのホームゲームが待ち遠しかったそう
対戦組み合わせ次第ながら西側の有名チームやスター選手が観られますからね
著者の息子は、西ドイツ代表&バイエルン・ミュンヘンのカールハインツ・ルンメニゲのファン
学校の授業中に断言したため、12歳で人生負け組に入ったそうですが…
スター様コッソリ応援にしても、おらが町のチームでも、サッカーが庶民の楽しみだったのでしょう
ワレサ少年~青年も、労働から解放された週末には?

「私は勝利が好きだ。大会の組織運営の面でも、実際の試合でも負けたくはない」
その情熱あれば、サッカーへの愛を取り戻せまっせ
というか…KSレヒア・グダニスクって、情熱薄れさせるほど弱いのか???

独レバークーゼンが大迫&宇佐美を視察


 ドイツ・ブンデスリーガのレバークーゼンが将来的な獲得を目指し、FW大迫勇也(20)=鹿島=、FW宇佐美貴史(18)=G大阪=らに注目していることが8日、分かった。同クラブのスカウト担当が、F東京―G大阪(6日)、鹿島―名古屋(7日)を相次いで視察。関係者は「日本人の若手に注目している。ロンドン(五輪)世代」と、12年ロンドン五輪出場を目指すU―21(21歳以下)日本代表の世代に興味を示していることを明かした。


 今季ドイツへ移籍したDF内田(シャルケ04)、MF香川(ドルトムント)らがそれぞれのクラブで主力に定着。現地で日本人選手が評価を高めている背景も、今回の来日につながった。レバークーゼンは今後もロンドン世代をマークし、有望選手発掘に努めるという。


( 出典先:2010/11/9-06:02 スポーツ報知 )


mathichenの徒然なるままに-味スタ ゴール裏スクリーン


6日のFC東京vs.ガンバ大阪終了後に撮りました

(東京の試合だ、ガンバでなく青赤タヌキ、文句あっか?)


将来的な獲得の『将来』、いつ頃でしょう

大学生年代は伸びるもクサるも分かれる時期であり、サッカー修業選択肢多いのは悪くありません


育成しながらトップチーム起用出来る、クラブの必須

あと、極東メディア大応援団を制御、落ち着いた環境整えるも


一番大事なのは、欧州からお座敷かかった~と有頂天にならんことですけどね

もっと年長のおっさんでも泣きながら逃げて帰るを見たら、20歳前後だと…

クラブハウスの便所掃除や使いパシリから始めるも厭わないみたいな覚悟が必須


【ロッテ日本一】中日3年ぶり日本一ならず 「力でねじ伏せる強さがなかった」と落合監督
2010.11.8 01:51

 頼みの救援陣が崩れては、勝機は見いだせなかった。最大4点のリードを守れず、中日が逆転負け。連夜の延長戦に持ち込む粘りを見せたが、3年ぶりの日本一の夢が本拠地名古屋で途絶えた。

 「最後には勝てなかったけど、今年に関して言えば、選手をほめてやるよ。ただ、力でねじ伏せて勝ち上がっていく強さがまだなかった」

 落合監督は淡々と今季を総括した。井端の長期故障、センターに予定した新外国人セサルも日本に適応できず、チーム打率はリーグ5位。その弱い攻撃力を圧倒的な投手力で補い、守り抜く野球を徹底した。

 しかし、1つも負けられない土壇場で、先発吉見が4回3失点で降板。CS以降、中継ぎで役割を果たした河原が五回に3失点を喫し、同点に追いつかれたのが誤算の一つ。九回にブランコの中犠飛で追いついたが、追う展開で投手陣のコマが少なくなり、4イニング目に入ったセットアッパー浅尾が延長十二回に勝ち越し点を許した。先を読み、準備を怠らない落合野球らしからぬ事態で、力尽きた。

 「課題はたくさん。それを、1個ずつつぶしていかないと、セで野球になってもこの舞台で勝てない。それを探さないとな」と落合監督は、早くも10日から秋季練習開始の方針を発表。就任8年目の来季は、3年契約の3年目。リーグ、CS、日本シリーズの『完全制覇』という、あと一歩届かなかった大願へ再挑戦する。(喜瀬雅則)

【ロッテ日本一】森田健作千葉県知事「感動と元気与えてくれた」
2010.11.8 01:19

 優勝を決めベンチを飛び出すロッテナイン=ナゴヤドーム(撮影・中島信生) プロ野球日本シリーズでロッテが優勝したことを受け、本拠地のある千葉県の森田健作知事は7日「長い戦いの中で、マリーンズが見せてくれた勝利をあきらめない姿勢は、大きな感動と元気を与えてくれた」などとする祝福のコメントを出した。

 千葉市の熊谷俊人市長も談話を発表。「監督、選手、ファンが一丸となって勝ち取った栄冠。日本一という最高のプレゼントをいただいた」と喜んだ。

( 出典先:MSN産経ニュース )

日本一のロッテと中日との差は!?
プロ野球解説者・大塚光二の日本シリーズ解説
2010年11月8日(月)

 プロ野球の日本シリーズ第7戦、中日vs.千葉ロッテが7日、ナゴヤドームで行われ、千葉ロッテが延長12回の激闘を8対7で制し、5年ぶり4度目の日本一に輝いた。リーグ3位からの日本一は史上初。
 スポーツナビでは、日本シリーズの毎試合後にプロ野球解説者・大塚光二氏による特別解説をアップ。現役時代の1998年に敢闘選手賞を受賞した通算打率3割9分7厘の“日本シリーズ男”である大塚氏は、中日と千葉ロッテの第7戦をどう見たのか?

■第1戦で吉見を攻略して波に乗ったロッテ打線
 最高峰の戦いにふさわしい好ゲームでした。終わってみればロッテが強かった。想像以上に強かったです。シリーズ開幕前はどうしても「中日の投手陣がすごい」という考えがあったんですが、実際にはロッテ打線が振り負けずに、思い切りのいい打撃で攻略しました。
 振り返ってみれば第1戦が大きかったと思います。あそこで中日がチェンを先発させて、力のあるストレートでロッテ打線を抑えていれば、ロッテは硬くなったはずです。しかし、第1戦で吉見(一起)を打って、「あれ? これならいけるぞ」と思ったことで、ロッテ打線が伸び伸びと戦えました。中日がシーズン中に戦ってきた阪神や巨人も強力打線ですが、阪神と巨人は振り回してくるイメージがあります。それに対してロッテは超積極的ではありますが、つないできます。この差も大きかった。ナゴヤドームで中日が序盤に6対2とリードしてから負ける試合なんて見たことがありません。それだけ、ロッテ打線が想像以上の力を発揮したと言えます。

■素晴らしい活躍を見せた岡田と内
 延長12回に浅尾(拓也)から決勝打を放ったのが、育成でクラブチーム出身の岡田(幸文・全足利クラブ)というのも良かったですね。今季が始まる前には、誰も想像しない結末ですよ。去年の松本(哲也)もそうですけど、彼らが頑張ることで全国のクラブチームの選手や、独立リーグの選手に夢を与えていると思います。岡田に関しては、日本シリーズでは大松(尚逸)のケガで1試合すべてを任されたことが大きかったです。途中出場だと、どうしても三振が一番怖いので当てにいってしまうんですが、「おれしかいない」という状況なら地に足をつけた打撃ができます。もちろん、金森(栄治)打撃コーチらの指導もあったと思いますが、ボールを呼び込んで振り切る打撃ができるようになりました。
 ロッテでは内(竜也)も素晴らしかったです。伊藤(義弘)、薮田(安彦)とともに、ナゴヤドームの固くて高いマウンドが合っていました。テークバックが小さくて、左足で踏ん張って投げるタイプの投手には、ナゴヤドームは合うようです。渡辺俊介はやはりマウンドが合いませんでした。第3戦の千葉マリンで投げさせて正解でしたね。内は来季が楽しみで、ストッパーにしてもいいかもと思いました。中日のデータではロッテのリリーフ陣に、あそこまで抑えられるイメージはなかったでしょう。逆に、中日投手陣があんなに打たれるデータもなかったはずです。

■プレッシャーを感じて受け身になった中日
 中日は9回のベンちゃん(和田一浩の愛称)の三塁打は鳥肌が立ちました。本当にすごかった。森野将彦の途中交代は痛かったですけど、打線は頑張ったと思います。ただ、リーグ優勝しているから3位のチームには負けられないというプレッシャーがあったり、得意のナゴヤドームで初戦を落としたことで、ミスが増えました。落合(博満)監督は落ち着いていましたけど、選手が少し受け身になりましたね。
 前日のシリーズ最長試合と今日の延長戦は本当に緊張感のあるいいゲームで、ドキドキさせてくれる日本シリーズでした。最終的にはほんのちょっとの差でロッテが優勝しましたが、全体的には「想像以上の力を発揮したロッテと、予定通りの力を出せなかった中日の差」が今回の日本シリーズの結果として表れたと思います。

■大塚光二/Koji Otsuka

 1967年8月26日生まれ。兵庫県出身。育英高-東北福祉大-西武。180センチ、78キロ。右投げ左打ち。育英高で本格的に野球を始める。東北福祉大では主将を務め、同級生の佐々木主浩(元横浜・マリナーズ)、後輩の金本知憲(阪神)らとプレーした。89年のドラフト3位で西武に入団。抜群の勝負強さで西武の黄金時代を支えた。2001年に引退後は野球解説者として活躍。社会人野球クラブチーム「一球幸魂倶楽部」の監督も務めている。

( 出典先:スポーツナビ )

土曜日の夜11時半頃、タクシーに乗ったんですけど、ラジオ聴いて「まだ試合やっとんかい~」
で、翌日にまた試合。どちら様もお疲れ様でやんす

もう何年もちゃんと野球観ておらず、CS導入以降、より興味薄れました
MLBみたいにいくつもの地区に分かれ球団わんさかと違い、セパ合わせても12球団だけ
そんなショボイ環境だから、せっかくリーグ優勝したのに敗者復活戦させたらアホらしいでしょが

昨夜、料理屋の親父が店のTV観ながら、「地味な球団同士ですわ」
まぁその通りですが、中日はセ・リーグ覇者
何で、パ・リーグ3位のロッテが、日本一決める場所にノコノコ出てくるのか
パ・リーグの方が実力高いのは昔からで、それに文句はございませんけど
CS導入以降、サッカーの欧州CL同様、1度はTVにヤカラを
「王者の戦いなら、格の違いあっても王者同士で戦って決着つけるのが本筋やろ」

だもんで…

「マリーンズが見せてくれた勝利をあきらめない姿勢は、大きな感動と元気を与えてくれた」
千葉県知事の言葉、言いたいことは理解しますが


‘おれは男だ!’(1970年)オープニング場面

「小林くん、だから男は勝手なのよっ」(`∀´)
(1977年再放送時、ウィンクに「ゲッ…」となった小学生、吉川くんの言葉借りて仕返しだ!)
$mathichenの徒然なるままに-ジダン頭突き場面

ジダン、マテラッツィとついに和解
2010年11月04日22時04分 / 提供:Goal.com

スペイン『マルカ』は4日、元フランス代表MFジネディーヌ・ジダン氏が、インテルの元イタリア代表DFマルコ・マテラッツィと和解したと報じている。

両者は2006年ドイツワールドカップの決勝で激突。マテラッツィの挑発に憤慨したジダン氏が頭突きを見舞って退場になったシーンは、あまりに有名だ。その後、ジダン氏の怒りは続いたが、ついに終戦を迎えた模様である。

ジダン氏がアドバイザーを務めるレアル・マドリーは3日、チャンピオンズリーグでミランと対戦するため、イタリア・ミラノにやってきている。チームを指揮するジョゼ・モウリーニョ監督は、昨シーズンまで同じミラノを拠点とするインテルを率いていた。そのため、マテラッツィを含むインテルの数選手が、モウリーニョ監督にあいさつをするため、レアル・マドリーが滞在していたホテルを訪問している。

モウリーニョ監督との再会を終えた後、マテラッツィとジダン氏は偶然遭遇したそうだ。そこで2人は話をして、和解したという。

マルカは、「平和が訪れた。2人は抱き合い、過去のことは忘れ去られた」としている。

( 出典先:livedoorスポーツ )

ホントなんですかいね~
生中継観ていて「ゲッ…」となるくらい迫力あり、写真の目つきも尋常じゃぁない

アルジェリア移民2世のカビル人
マルセイユ北部郊外のラ・カステラン地区の貧困層が多く住む地域で育った
カビル人は、アルジェリアでも被差別少数民族
カビル人、アルジェリア人、移民と三重の被差別育ち
DNAには複雑怪奇な人間模様が形成されていると思います

そうそう忘れ去られるものやら?
まぁ忘れたということにしましょう
出来れば、二人で他の人真似しちゃダメよ運動始めたら~

自分でも意味不明な当所管理人なので、突飛もない展開を…


Princesse Sarah - Vox Angeli 小公女セーラ

~10歳の少女セーラ・クルーは寄宿学校に入学するため、実業家の父、ラルフ・クルーに連れられてインドからロンドンにやってくる。母は数年前に亡くなっていたが、セーラは大富豪の一人娘として不自由のない生活を送っており、入学したミンチン女子学院においても特別扱いを受けるが、それを自慢する事もなく、母を亡くして寂しがるロッティの母親代わりになったり、田舎から雇われて来た少女、ベッキーを庇うなど、持ち前の優しさで人気者になるが、それまで生徒たちのリーダー的立場であったラビニア、貧しい育ちのミンチン院長はセーラには悪意に近い感情を抱いていた。そしてセーラの11歳の誕生祝いの最中、インドにいる父がダイヤモンド鉱山の投資に失敗して全ての財産を失い、さらには熱病に冒されて亡くなったという知らせがもたらされる。投資が無駄になった事に激怒したミンチン院長だが、世間体を考慮し、学院の使用人として無賃金で働かせる事にする。ベッキーの隣りの屋根裏部屋に移されたセーラは使用人達・ラビニアらによるいじめを受けながらも、ベッキーを始めとする数人の味方に支えられてゆく。ある日、学院の隣の屋敷に、インドからクリスフォードという紳士が越して来た。病気の療養と、ある少女を捜しているというクリスフォードは、ある事からセーラに関心を抱き、使用人に命じて、夜間にこっそりと豪華な食事を届けさせる。しかし、この『魔法』はミンチン院長の知るところとなり、セーラは窃盗の疑いを掛けられ、馬小屋で寝泊まりさせられるようになる。そしてラビニアたちのいたずらが原因で起きた火事騒ぎの犯人に仕立て上げられてしまう。ミンチン院長はセーラに、学院からの追放を言い渡す。学院を出たセーラは、ピーターの家に居候していたが、学院に差出人不明のセーラ宛の贈り物が届けられた事から、学院に戻される。その贈り物から、セーラを支援する大金持ちの存在を知ったミンチン院長は態度を豹変させ、セーラに優しく接するようになる。やがてセーラは、ひょんなことからクリスフォードの屋敷を訪れることになった。そこで、贈り物の主がクリスフォードであること、クリスフォードが捜していた親友の娘がセーラであることが判明する。実はラルフの死後にダイヤモンド鉱山は成功。セーラに多額の遺産が残されたというのだ。そこへセーラを連れ戻そうとクリスフォード邸を訪れたミンチン院長は、事実を知って驚愕する。その翌日、セーラはミンチン院長に、10万ポンドもの寄付をし、生徒として学院に戻ると告げる。そして苦労を共にしたベッキーと屋敷で暮らす事になったセーラは、両親の墓参りのためインドへの旅路につくのであった。~

( Wikipedia:『小公女セーラ』より引用 )

セーラいびり後悔先に立たず
グズな妹のアメリア先生がブチ切れ、「お姉様が悪いっ」と怒り爆発
(アメリア先生、セーラに申し訳なく常々思っていた一方、何かのイビリの後に姉を庇う
亡き両親の代わりに育ててくれた姉への恩から、セーラに「お姉様を許して」と謝っていたけど)
立て続けのショックにすっかり腑抜けなミンチン院長だけに

世界名作劇場は大体、放送年の100年前の時代設定
従って、1985年放送の‘小公女セーラ’は、1885年のお話
1885年の10万ポンドって、どんだけの天文学的大金?
ミンチン院長は「じゅ、10万ポンド…」と小切手持つ手が震え気が遠くなりバッタリ

おまけに
インド里帰りの船に乗る見送り場面では、ラヴィニアとも和解する

当時TV観ていた当所管理人、1985年も2010年も、意見は変わりません
「人間には赦せることと赦せないことがある。何でも水に流せばエエゆうもんやないやろっ」

馬小屋火事騒ぎは、ハロウィンのかぼちゃ蝋燭が出火元
つまり、学院追放は、夜明けて11月の寒空の下へ
ピーターがいなければ、どんより曇ったロンドンの裏街に野垂れ死にしてたでっせ
早い話、児童虐待の極致および傲慢カネ持ち小娘が一種の殺人ほう助、その手前

ま、ミンチン院長が甚大な損害を被ったのは事実。賠償してやったと思えば?
しょせんは成金アメリカ育ちのラヴィニアに、大英帝国の余裕を見せたとか?

ヒネくれてる?アニメやあの筋立てしか知らなければ、そう見えるでしょう
原作を一度ちゃんと読んで下され
自分の失態に慌てたミンチン院長が猫撫で声で謝罪したら
「わたしを愛しておられたのですか。ちっとも知りませんでした」と上から目線返答
性格に難ありが見えまっせ

19世紀のインドに生まれ育った大富豪令嬢。言い換えれば、植民地における大英帝国支配階級人種
支配階級全員が搾取虐待に精力傾けていたわけではないし
何十人もの使用人を親切に扱ってもいたでしょうが
それって、支配する者される者の鉄則が破られない限りでは?
上流階級の子女の教育にあたりながら、いつもカルカッタの貧しい人々の姿が映っており
カルカッタの街中に自ら進んで入っていったマザー・テレサのような行動を取れなかったら
つまり、柔らかい絨毯を捨て、氷のように固いベッドに横たわるの選択するくらいでないと
植民地のことなんて何一つ理解出来なかったんじゃないですかね

三つ子の魂百までといいます
支配階級は植民地をを離れても、支配階級倫理はDNAに組み込まれていたでしょう
同国人でも同等以下の社会的地位にある者など、無意識でも同等の人間とは見なしていなかったはず

それゆえ
「セーラ・クルーのどこが小公女というのだ。鼻持ちならない偽善を感じるぞ」
こう評した人がいました。知り合いのおっさんも、「オレも同感や」
「あんな簡単にホイホイと赦しを与えるのは、物乞いに小銭放り投げるのと変わらん」
わかりますな

アニメ版セーラが本当の意味において赦しを与えているか?
上流生活を送っても、原作者が震え上がるであろう虐待を決して忘れず
二度と同じような子供が現れないための支援活動に生涯従事する
最終話以降がそんな展開であればの話

本日は


~死者の日(ししゃのひ)はカトリック教会で全ての死者の魂のために祈りを捧げる日で、諸聖人の日(諸聖人の祭日)の翌日にあたる11月2日が死者の日となる。死者の日が主日と重なった場合も、死者の日のミサが捧げられる。カトリック教会では、ミサの聖書朗読配分が定められているのだが、死者の日に関しては固定されておらず、死者のためのミサのものから自由に選ぶ事が出来る。


かつてカトリックでは、人間が死んだ後で、罪の清めが必要な霊魂は煉獄での清めを受けないと天国にいけないが、生きている人間の祈りとミサによってこの清めの期間が短くなるという考え方があった。死者の日はこのような発想にもとづいて、煉獄の死者のために祈る日という性格があった。


死者のために祈るという発想自体は古代から存在していたが、キリスト教の歴史の中で死者の日というものを取り入れたのは11世紀のクリュニー修道院の院長オド(オディロン)であるといわれている。


ペトルス・ダミアニの記した『聖オド伝』には、オドと死者の日についてこんな話がある。聖地から帰った巡礼者が嵐によってとある孤島に打ち上げられた。そこには一人の修道士が住んでいた。男はその修道士からある岩を示された。その岩のすきまから煉獄の様子が伺えるというのだ。男が覗き込むと煉獄で苦しむ人々の声が聞こえる。修道士は悪魔が「死者のために祈られると死者の魂が早く天国へいってしまうから不愉快だ」とぼやいているのも聞いたと男に語った。男は故郷に帰ると、すぐにオドに会ってその話を伝えた。そこでオドは11月2日を死者の日と定めたので、こうして死者の霊魂のために祈りを捧げる習慣が生まれた。そしてクリュニー修道院から系列修道院へとその習慣が伝えられ、やがてフランスから西欧全体へと広まった。


『 ヨーロッパ各国における死者の日』
宗教改革の時代、イギリス国教会で死者の日が廃止されたが、ヨーロッパの国々ではプロテスタントが主流の国であっても死者の日は廃止される事がなかった。マルティン・ルターは聖書に根拠のないすべてのキリスト教伝統を廃止しようとしたが、それでもザクセン地方から死者の日の習慣を廃止するには至らなかった。死者の日は単なる教会暦の祝い日という枠を超えて、人々の文化の中に根付いていたのである。フランスでは死者の日になると墓に飾りをほどこし、ドイツでは墓に花を飾るなど地方によって独自の習慣がある。 万霊節とも呼ばれる。
プロテスタント教会では聖徒の日、諸聖徒日、召天者記念日などとして主日の礼拝を捧げる教会もある。~


( Wikipedia:『死者の日』より引用 )


ですからして


mathichenの徒然なるままに-タコの源さん


タコの源さん「ナビスコ杯は広島」1日限りの予想屋人生
2010年11月1日22時39分

 サッカーW杯で数々の予想を的中させたタコ、故・パウル君の日本版が、3日のナビスコ杯決勝を前に現れた。Jリーグ関連会社の企画で、その名も「築地の源さん」。


 神奈川県沖で水揚げされ、1日朝、東京・築地市場で2千円で買い取られてさっそく優勝予想。水槽内に置かれた広島と磐田のエンブレムが張られた二つのツボのうち、源さんは脇目も振らずに広島のツボに体をうずめた。


 源さんの今後について担当者は「飼育が難しいので海に戻します」。はかなく「予想屋人生」を終えた。


( 出典先:asahi.com )

ナンで海に帰すねん?タコ焼きにして食うたらエエやんけ。大阪やったらお役御免後に速攻じゃ

タコは人間に食われるため海で生まれ育つのが原則(パウルは別格)

タコ焼き機という煉獄で美味しく清めな、タコの天国行かれへんがな

予想は、源さんの遺言状やったという方向で済むやろ


話ガラリ変わり



【東京国際映画祭】「これで終わりだと思って…」 審査員特別賞「一枚のハガキ」の新藤兼人監督
2010.10.31 22:08


 東京国際映画祭で審査員特別賞を受賞した「一枚のハガキ」の新藤兼人監督の話 「独立プロをたてて60年経った。はじめからお金がなくて金策に奔走していました。非常に面白いが、きつい仕事で、いつも金がない。98歳になって後がなくなって、これで終わりだと思ってこの1本を作った。もう死が直前に迫っていますから。でも、だれか応援してくれたら、またやってもいいかな」


( 出典先:MSN産経ニュース )


mathichenの徒然なるままに-午後の遺言状


~夏の蓼科高原に、女優・森本蓉子(杉村春子)が避暑にやって来た。彼女を迎えるのは30年もの間、その別荘を管理している農婦の豊子(乙羽信子)だ。言葉は乱暴だがきちんと仕事をこなす豊子に、庭師の六兵衛が死んだことを知らされた蓉子は、六兵衛が棺桶に乗せたのと同じ石を川原から拾って棚に飾る。豊子には22歳の娘・あけみ(瀬尾智美)がいた。子供のいない未亡人の蓉子は、あけみを自分の子供のように可愛がっている。翌日、別荘に古い友人の牛国夫妻がやって来る。しかし、夫人の登美江(朝霧鏡子)は痴呆症にかかっており、様子がおかしい。過去と現実が混濁している登美江を元に戻したい一心で、夫の藤八郎(観世栄夫)は蓉子に会わせたのだが、一瞬チェーホフの『かもめ』の一節を蓉子と空で言えたかと思うと、元の状態にすぐに戻ってしまう。と、そこへピストルを持った脱獄囚が別荘に押し入って来た。恐怖におののく蓉子たち。だが、男がひるんだ隙に警戒中の警官が難を救った。そして、蓉子たちはこの逮捕劇に協力したとのことで、警察から感謝状と金一封を受け取る。ご機嫌の蓉子たちは、その足で近くのホテルで祝杯を上げた。翌日、牛国夫妻は故郷へ行くと言って別荘を後にする。やっと落ち着ける蓉子だったが、近く嫁入りするあけみは実は豊子と蓉子の夫・三郎(津川雅彦)との子供だったという豊子の爆弾発言に、またもや心中を掻き乱されることになる。動揺した蓉子は不倫だと言って豊子をなじるが、あけみには真実を隠したままにしておくことになった。そして、結婚式を前にこの地方の風習である足入れの儀式が執り行われた。生と性をうたうその儀式に次第に酔いしれていく蓉子は、早く帰郷して舞台に立ちたいと思うようになった。ところが、そこへ一人の女性ルポライター・矢沢(倍賞美津子)が、牛国夫妻の訃報を持って現れた。驚いた蓉子は豊子を伴い、矢沢に牛国夫妻が辿った道を案内してもらう。二人が入水自殺を図った浜辺で、蓉子は残された人生を充実したものにすると、手を合わせる。別荘に戻った蓉子は舞台用の写真の撮影を済ませると、東京へ帰っていく。豊子は蓉子が死んだ時に棺桶の釘を打つために、以前拾ってきた石を預かるが、いつまでも死なないで強く生きて欲しいという願いを込めて、それを川原に捨ててしまうのだった。~


( Movie Walker:『午後の遺言状』より引用 )


新藤兼人監督‘午後の遺言状’(1995年)


いまから10年ほど前、MBS(TBS)系列でこんなドラマを観ました(題名は失念)

~安アパート暮らしの熟年夫婦。お隣さんから2、3万円借りるくらい貧乏ながらも仲良く暮らしていた

ある日、嫁に痴呆の症状が現れた。医療施設ある老人ホームに二人で入りたい

しかし、公立は夫婦不可、私立なんて手が届かないどころではない高額だから不可能

お隣の嫁さんに借金返した後、アパートをひっそり離れ

嫁の想い出の地巡りした後、二人で海に消えていった~


これの原案、新藤監督でした


『近代映画協会と新藤兼人』
1952年、松竹を退社して「近代映画協会」を設立していた新藤兼人の第1回自主制作映画『原爆の子』に大映の反対を押し切って出演する。これを機に大映を退社し、近代映画協会の同人となる。


以後、近代映画協会が製作する映画に立て続けに出演する中で、それまでの「宝塚歌劇団出身」「お嬢さま女優」「百万ドルのエクボ」「清純派」のイメージから180度転換し強烈なリアリズムあふれた演技を見せ、日本映画史にその名を残すこととなる。それを象徴する作品で、代表作となったのが、1960年の『裸の島』である。せりふが一切なく、登場人物も狭い島で働く夫婦(乙羽と殿山泰司が演じた)だけという実験的な映画であったが、そのリアリティーあふれる画面は大好評となり、第2回モスクワ国際映画祭でグランプリを受賞するなど、世界的に高い評価を受ける。


この作品以来、新藤の作品は、乙羽演じる主人公をどう生かすかを中心に構想されたといっても過言ではない。1978年、新藤と結婚。結婚後、最初の作品となった『絞殺』で、1979年、ヴェネツィア国際映画祭最優秀主演女優賞を受賞する。


ちなみに、新藤とは夫婦であっても、乙羽は「先生」と呼び、また新藤は「乙羽君」と呼び合っていた。『原爆の子』に出演した頃に恋仲になった時、新藤には既に妻がおり、忍ぶ間柄であった。しかし、新藤の前妻が亡くなった後の1978年に結ばれた2人を、前妻の子は祝福し迎えている。「いきなり子供達ができました」と、乙羽は喜んでいた。


『晩年』
……杉村春子との共演で話題になった新藤の『午後の遺言状』の撮影を終えた1994年12月22日午前、肝臓癌による肝硬変で死去。享年70。新藤は作品が乙羽の遺作になるという覚悟の上で制作に臨み、メガホンを取ったという。乙羽自身も残された時間を知った上で出演したといわれている。


( Wikipedia:『乙羽信子』より引用 )


…夫婦愛が一種の執念みたいな人生の主題。それくらいの気骨あるおかげで、何とまぁ98歳まで~


‘午後の遺言状’は、重荷背負わせ苦労させた嫁の清めとしてしたためた遺言状でしたかね