近江屋事件考証 敏郎か吉五郎か | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

世良吉五郎が西岡是心流の剣客で、渡辺篤や桂早之助の師・大野応之助の兄弟弟子であり、相当腕が立ち、なおかつ当時三十七歳と年齢的にはややピークは過ぎたか感があるとはいえ、まだまだ動ける年齢であったことを考えれば、非常に危険な戦いとなる襲撃に、養子で文官肌だった敏郎と、その養父吉五郎と、どちらを連れて行くだろうかというのは問うまでもないだろうと思います。

 

 

しかも、近江屋襲撃に参加したのは吉五郎の方だったと書き残した中川重麗は自身が京都見廻組であったのみならず、渡辺篤とは幼少から見知った間柄であって、渡辺篤本人から「坂本龍馬を斬ったのはオレだ」と打ち明けられているのです。

 

 

 

『南天荘所蔵品絵葉書 三』(久保田米斎/大正十一年)

 

草間時福君(※.中川の実弟)より告げ来られたる大意左の如し

 

京都城番組与力に渡辺一郎という人ありて、亡兄中川四明の養父萬次郎の友にて剣の達人なりき。小生もこの人に就きて剣を学びし事あり。先年京都に帰りし時、四明より「渡辺氏も年老いて近頃物故したが、死ぬ前に、かの坂本龍馬を斬ったは実はオレである」と聞きたり。

 

 

では、なぜ渡辺篤は世良敏郎であったと言い残したのか。ひとつ考えられるのが師匠の兄弟弟子である吉五郎が現場に鞘を残してしまった上に、その帰途に渡辺の談話にあるような「呼吸相切れ歩みも出来がたき」という情けない状態だったとしたら、それをそのまま伝え残すことは流派にとっての恥になると考え、そのまま伝え残すことを躊躇したのではないでしょうか。その ”恥” を養子の敏郎にたぶってもらったとしても、彼は元々武芸者ではないから、まあ仕方ないだろうと思ったのかも知れません。

 

 

無論、これは完全に推測であり渡辺篤の証言を否定出来るほどのものではありません。逆に敏郎も実はかなりの剣客であったが、近江屋での醜態から、武芸者ではないことにした方が本人のためになると忖度したのかも知れません。そして、そもそも中川は渡辺篤から「もう一人は世良」としか聞いていなかった可能性もあります。中川が勝手に「世良?ああ吉ナントカさんのことか」と養父の方だと思い込んでしまったのかも知れない。

 

 

ただ、やっぱり今ある材料だけで判断すると、やっぱり普通に考えれば文官の養子よりは剣客の養父の方を連れて行くだろうな、と思うのです。