近江屋事件考証 世良吉五郎の漫画剣 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

中川重麗の『怪傑岩倉入道』では近江屋事件に参加したのは世良敏郎ではなく、その養父である世良吉五郎だったとされています。世良吉五郎は元所司代同心で、『坂本龍馬関係文書』に収録されている中川の談話に京都見廻組入隊の経緯が記されています。

 

 

 

されば見廻組に於いては、京都にて城番組与力、所司代、組同心中より剣・槍・銃などの心得ある者を採用して、その欠を補うこととなりしより、渡辺一郎、内藤某、野條某(以上城番)。桂隼之助、世良吉之進、川勝某、大西某、児島某(以上同心)等、数十人は前後してこれに加わりしが、十六日(※.慶応二年五月)に至り、幕府にては開成所取締役小林弥兵衛等を新たに見廻組頭を命ぜり。

 

 

世良吉五郎の名を吉之進と間違ってはいますが、世良吉五郎は慶応二年(1866)五月に渡辺篤や桂早之助らと共に在京役人の中から選抜されて見廻組に編入されたことがわかります。中川は『怪傑岩倉入道』では世良吉太郎としていて、こちらも名を間違っているのですが、おそらく「世良吉◯◯さん」程度の記憶しかなかったのでしょう。

 

 

幕末というと「歳さん」「総司」あるいは「龍馬」または「吉之助さあ」や「一蔵どん」など、名前で呼び合うイメージがありますが、現代でもそうであるように、名前で呼び合うのはごく親しい間柄の話であって、見廻組のようにあちこちから集められ、役目としての付き合いだった場合は、やはり「桂」「渡辺さん」あるいは「佐々木様」など名字を呼んでいたのでしょう。

 

 

余談ながら談話中の ”某” はそれぞれ内藤音三郎(32)、野條作左衛門(?)、川勝栄左衛門(29)、大西政吉(27)もしくは政之助(20)、そして「児島」は小島激太(23)と思われ、小島が柔術家で、他はみな剣術を得意としていたようです。()内は慶応二年時の年齢。ちなみに世良吉五郎は慶応四年(1868)に三十八歳だったことがわかっているので、慶応二年に見廻組に参加した時には三十六歳でした。ちなみに野條作左衛門は円明流の剣客で、渡辺篤の師であった人物です。

 

 

その世良吉五郎に関して中川は『怪傑岩倉入道』の中で詳しい説明をしています。

 

 

世良は桂早之助と同じ新屋敷(※.所司代のこと)の同心であったが、自ら願って見廻組に転じた。

 

(中略)

 

世良の剣術は独特なものがあった。当時、新屋敷の大野応之助の門人には、四天王として安藤伍一郎、富田純蔵、桂早之助、渡辺一郎がいたが、世良は大野と相弟子であり、四天王を子供扱いしていたのであった。

 

当時は道具の形式も改まり、一般に胴などは短いものが喜ばれていたのに、世良は長身のせいか、長い行燈のような革胴を着け、腰がへそのところで折れていた。

 

呼吸も半間なやり方で、いかにも相手を馬鹿にしているようであった。絵に例えると、仙涯の漫画のようであった。

 

 

つまり世良吉五郎は西岡是心流の大野応之助とは兄弟弟子であって、桂早之助や渡辺一郎(篤)ら応之助門下の四天王を子供扱いにしていたというのです。ただ、この「子供扱い」が剣術の腕がそれほどすごかったと言っているのか、あるいはみな一回り年下であったろう四天王を、人として見下していたというような意味なのかは微妙なところではあります。ただ『京都見廻組史録』(菊地明)にも文武場剣術教授方であったことが記されているので、やはり相当な腕の剣客であったことは間違いないと思われます。

 

 

ちなみに「仙厓の漫画」の「仙厓」とは画家で禅僧の仙厓義梵(せんがい ぎぼん)のことで、ユーモアある画風で人気がありました。ウィキペディアに掲載されている『指月布袋図』を転載しますが、この画風を剣筋にたとえると、さしずめ柔軟かつ大胆といったところでしょうか。

 

 

※.仙厓義梵『指月布袋図』

 

 

なんか、コイツだったら勝てそうな気が・・・・・・いやいや(笑)。