近江屋事件考証 世良敏郎(2) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

武芸があまり得意ではなかった世良敏郎が、近江屋襲撃メンバーの選ばれる理由があるとしたら何でしょう。ひとつ考えてみたのが元見廻組の中川重麗(登代蔵・四明)の遺作『怪傑岩倉入道』にある「永井尚志の警護に京都見廻組から7,8人派遣されていた」という点です。

 

 

文官肌の世良敏郎なら、永井の宿所の応接役か取り次ぎ役として、訪ねてきた坂本龍馬を永井の元に案内する役割だった可能性も有り得るかも知れません。つまり龍馬の顔を直接見ていたかも知れない。万が一、近江屋二階に複数の人物がいた場合に、誰が龍馬か特定するために同行させられた、というのは有り得そうな話です。

 

 

しかし、藤吉を直前に斬ってしまうという不測の事態が起きてしまったために、本来は戦闘に参加しないはずだった世良敏郎も巻き込まれてしまった、とすれば現場に鞘を残してしまうというところに話がつながりそうです。

 

 

ただ、そうすると根本的な問題に行き当たります。近江屋の二階にまで上がって「この男が坂本龍馬だ」と特定したとして、だったらどうするつもりだったのでしょう。いや、もっと突き詰めて考えれば「手に余り候節は討ち果たし申すべし」と佐々木只三郎が言ったというのですが、じゃあ手に余らなかったらどうするつもりだったのでしょう。つまり龍馬が「おお、幕府の見廻組のみなさん。私は逃げも隠れもしません。どうぞ煮るなり焼くなり好きになさって下さい」とあっさり降参したとしたら・・・。

 

 

お縄にしてどこかに連行するということが現実問題、可能だったとは思えません。何しろ目の前が土佐藩邸です。河原町通を歩いているうちに取り囲まれるのは目に見えています。では、近江屋の二階で腹を割って話をして、納得したら帰るつもりだったのでしょうか。いやいや、龍馬は懐に拳銃を忍ばせているかも知れないのです。

 

 

結局、「斬る」以外の選択肢はほぼなかったと思われます。だとすれば、二階に複数人いたとして、龍馬だけ斬って他は何もしないというわけにもいかない。結局みんな斬るしかないわけです。だとすれば龍馬の顔を見知っている ”特定役” を連れて行く意味がない。

 

 

というわけで、世良敏郎は本当に近江屋襲撃に参加しただろうかという疑問に対して、今現在の僕の考えは「否定出来るだけの根拠はないが、普通は連れて行かないだろう」といったところです。

 

 

その世良敏郎、明治維新後は名を重徳と改め、今井信郎ら見廻組の同志たちと同じく徳川家達に従い静岡県士族となりました。『国民過去帳 明治之巻』(大植四郎/昭和十年)によると、明治五年(1872)に政府に出仕して司法省職員となり、明治九年(1876)に判事補。翌十年(1877)に金沢裁判所、ついで同十二年(1879)には東京裁判所に勤務しています。

 

 

同十七年(1884)には判事に昇進し、秩父事件や飯田事件の裁判を担当しています。いずれも自由民権運動に触発された、政府に不満を持つ人々による武装蜂起事件ですが、実は世良自身も自由民権運動の一翼を担うと評されていた交詢社(※)のメンバーでした。また同時に森有礼・福沢諭吉らによって結成された明六社のメンバーでもありました(「京都見廻組 世良敏郎の新史料」勝山英~『歴史研究』第713号)。

 

 

その後、東京控訴裁判所(現在の東京高等裁判所)・東京始審裁判所(同じく東京地方裁判所)に勤務し続け、明治十九年(1886)には正七位に叙任されていますが、同二十二年(1889)一月十日に病を得て死去しています。世良は天保十四年(1843)生まれなのでまだ数えで四十七歳でした。東京の谷中霊園に埋葬されたそうですが、現在も墓は残っているのでしょうか。

 

 

世良の死の二年後には元新選組~御陵衛士~赤報隊で、維新後は世良と同じく司法省に出仕して判事となり、同じ東京控訴裁判所にも勤務していた新井忠雄(忠業)も谷中霊園の土となります。世良は明治十五年から二十一年頃まで、一方の新井は明治十四年から二十二年まで東京控訴裁の判事を勤めていたので、二人に面識はあったと思われます。

 

 

 

※.交詢社…こうじゅんしゃ。福沢諭吉を中心として結成された。日本初の実業家社交クラブといわれる。