近江屋事件考証 世良敏郎(1) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

前回、近江屋襲撃に参加した可能性のある京都見廻組隊士は十一人いるという話をしました。そのうち世良敏郎については、渡辺篤の『渡辺家由緒暦代系図履歴書』に

 

 

 

刀の鞘を忘れ残し帰りしは世良敏郎という人にて、書物は少し読み候得共、武芸の余り無き者故、鞘を残し帰るという不都合出来、帰途平素剣術を学ぶ事薄き故、呼吸相切れ、歩みも出来難き始末によって、拙子、世良の腕を肩に掛け、鞘の無き刀を拙子の袴の中へ堅(たて)に入れて保護し、連れ帰り候。

 

 

と記され、菊地明先生の研究によりその実在が確認されたことにより、渡辺篤の証言の信憑性を高めることとなりました。その世良敏郎は天保十四年(1843)生まれ。桑名藩の飛び地である越後国柏崎で寄合番をつとめていた小林家の出身で、元の名前は小林甚七(重幸)といいました。近江屋事件の起きた慶応三年(1867)には二十四歳だったことになります。

 

 

菊地先生の『京都見廻組史録』によると小林家の系図に慶応三年五月に弟の𨫍助(鎌蔵)に家督を譲って京都見廻組世良家へ養子に入り、世良敏郎と改めたとあるそうです。また同書によれば「見廻組並之者番代之義申上候書付」に以下の記述があるといいます。

 

 

 

高四十俵三人扶持 見廻組並

現米十石三人扶持元高 世良吉五郎

十一俵一斗五升五足高 辰歳三十八

外役扶持二人扶持

 御譜代の者にて御座なく候

   吉五郎伜

 同無足見習

   世良敏郎 辰歳二十五

 

右吉五郎儀、病気にて御奉公相勤むべき体(に)御座なく候に付、御暇下され、取り越し御切米、御扶持方をもって伜敏郎御抱え入れの儀、願い奉り候旨、申し聞き候。敏郎儀、人物宜しく、常々芸術出精、御用立ち候者に付、吉五郎取り越し御切米、御扶持をもって抱え入れ、見廻組並仰せ付けられ、勤め候内、並の通り御足高、役扶持も下され候よう仕りたく、この段願い奉り候。以上。

 辰二月 岩田織部正

 

 

こうして世良敏郎が世良吉五郎の養子であることがはっきり確認され、ならばこそ渡辺篤の記述のとおり、世良敏郎は近江屋事件に参加し、渡辺篤いわく「武芸の余り無き者ゆえ」鞘を現場に残してしまうという失態を犯してしまったというのは、たしかに納得出来る話です。

 

 

ですが、ここで疑問を呈してみたいと思います。まず疑問点その一は、上記史料に記されている「辰二月」ですが、これは説明するまでもなく辰年の二月のことであり、その辰年とは戊辰、つまり慶応四年/明治元年(1868)のことです。一月に鳥羽伏見の戦いで敗れた見廻組は、この二月にはすでに江戸に渡っていたのですが、その時点でも世良敏郎は家督を相続していない「無足見習」つまり禄(給料)をもらっていない見習隊士だったことがわかります。

 

 

そして疑問その二はもっと根本的な問題です。討つべき敵・坂本龍馬は、同郷の谷干城に「剣術は無辺の達人」と称され、敵方の新選組局長近藤勇をして「剛勇」(大石鍬次郎供述)と言わしめたほどの人物です。しかも前年の慶応二年(1866)一月の寺田屋事件において拳銃を所持し、捕り方の伏見奉行所同心二名を射殺しています。今も拳銃を所持している可能性が高い危険な相手。幕府側から見れば、現代風に言えば間違いなく凶悪犯です。

 

 

更にその潜伏先の近江屋は土佐藩邸の目の前。結果的に見廻組の襲撃は完璧に成功したから見落としがちですが、実際は近江屋の家人などに藩邸に駆け込まれ通報されると、土佐藩兵に取り囲まれ、全員が討ち死にする可能性もあっただけでなく、万が一そうなってしまえば、微妙な立場だった土佐藩を完全に薩長の味方につける結果にすらなりかねないという、非常に危険な賭けだったのです。だからこそ佐々木只三郎は「このたびはきっと召し捕り申すべく、万一手余り候節は討ち果たし申すべし」(今井信郎供述より)という並々ならぬ決意で臨んだのです。

 

 

そんな修羅場に「書物は少し読み候得共、武芸はあまり無き者」「常々芸術に出精(精を出す)」という、しかも見習隊士にすぎなかった世良敏郎をわざわざ連れて行く必要があるでしょうか。京都見廻組約400人、腕に覚えのある剣客は他にも数え切れないほどいたはずです。