幕末 お馬の稽古 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

元京都見廻組で、のちに新聞ジャーナリスト、京都私立独逸学校(現在の京都薬科大学)の初代校主、そして俳人として多彩な才能を発揮した中川重麗(しげあき。維新前の通称は登代蔵。俳号は四明)は、自ら主催する俳句雑誌『懸葵』にたびたびコラムを投稿していましたが、そんな中に幕末期の馬の稽古に関するものがあったので紹介したいと思います。

 

 

中川重麗は嘉永三年(1850)に京都西町奉行与力・下田耕助の次男として生まれましたが、生後まもなく二条城番組・北番組与力で剣術師範であった中川萬次郎重興の養子となります。与力は「寄騎」とも書き、戦場では馬に騎乗して主君を守る役目。そんなわけで少年時代より馬の稽古は必須だったようで、はじめは同じ組屋敷の鈴木という人の屋敷に行き、木馬に乗って練習していたそうです。

 

 

その後、初めて買ってもらった馬は栃栗毛の美しい馬だったそうで、疾走すると、たてがみが綺麗にたなびくのにちなんで「タナビキ」と名付けたそうです。面白いことに買い与えたのは養父萬次郎ではなく、実父の下田耕助だったそうで、他の記述を見ても、養子に行ったあとも実家とは親密なつき合いがあったようです。

 

 

馬の稽古は三条屋敷(三条西組屋敷か)の西側にあった「三条の馬場」で行ない、一、三、六、八のつく日が稽古日でした。馬は自分の屋敷から引いてくる(洛中なので騎乗は禁止)か、もしくは馬屋から借りることも出来ました。洛内には今宮大将町の寅、日暮の美濃七、道場の小徳という三軒の馬屋があったそうです。このうち道場の小徳というのは「道場の芝居裏」にあったそうで、これは現在の新京極四条上ル付近のことを指すようです。それこそ近江屋の裏側の少し南ぐらいでしょうか。

 

 

 

 

稽古は有料で一鞍五十文だったそう。この一鞍というのは、わかりやすく言えば「乗馬一回」の意味です。この一鞍で馬場を12回往復出来るんだそうで、馬場所というところに大坪流馬術の老先生上田某(渡辺篤によれば上田鉄之助というらしい)が帳面に本日の騎乗者名を記して、それぞれの名前の上に一往復ごとに丸印をつけてチェックしていたんだとか。

 

 

持ち馬は互いに交換し合うのが通例で、最後には師匠もしくは高弟に「責め馬」というのをやってもらう(指導してもらう?)んだそうですが、この責め馬というのは馬場の一角で下図のように馬を走らせるんだそうで、鋭角の部分をいかに小さく速く回るかが腕の見せどころなんだそうです。

 

 

 

 

また、合図によって馬を急停止させるのですが、止まった時に馬の首はまっすぐ前を向き、前足を高く上げ、後ろ足は大きく開いた状態でピタッと止まってみせるのがもっとも美しいとされました。これって、仙台城の伊達政宗像のポーズですよね。つまり、このポーズは政宗が馬の名手であることを示しているということでしょうか。

 

 

 

 

が、しかしなかなかそう上手くは行かず、油断をすれば馬がゆるゆると歩き出してしまいます。これをダク(駄駆)といって、これをやってしまうとみんなに笑われたのだそうです。ちなみにダクという言葉は現在も使われているみたいですね。

 

 

また、当時の京都では紀州馬がもっとも良いとされていたようですが、南部馬や薩摩馬もいたそうです。陸路はるばる運ばれて来るのでしょうか。