近江屋事件始末(13)渡辺篤の遺言 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

『近畿評論』の騒動から更に時を経て大正四年(1915)のこと。大阪朝日新聞8月5日号に近江屋事件に関する記事が掲載されました。それはこの年に亡くなった元京都見廻組の渡辺篤が、生前に愛弟子の飯田岩太郎と実弟の渡辺安平の二人に語り残したとされるもので、坂本龍馬を斬ったのは自分だったと告白する内容であり、『坂本龍馬を殺害した老剣客  =悔恨の情に責められて逝く=』と題されていました。

 

 

しかし、この記事で述べられた渡辺の “告白“ 内容は、それまでに確認されていた「事実」と異なる点が多々あったことや、そもそもの話、当時はまだ近江屋事件は新選組のしわざだと信じられていたことなどから、それほど注目されませんでした。

 

 

更に同新聞の9月1日・2日号により詳細な内容を記した『坂本龍馬を殺した剣客 =発表された遺言の記録=』が掲載されます。こちらは飯田・渡辺両氏の証言に加え、渡辺篤の娘きみの協力も得てまとめ上げたとされるものですが、注目すべきは近江屋を襲撃したメンバーの中に世良敏郎の名前が初めて加えられていることです。いわく

 

 

 

一行中の世良敏郎という男、少々取りのぼせた気味で、刀の鞘を現場へ置き忘れた。そこで渡辺は見かねて世良の腕を肩へ打ち掛け、刀の抜き身を袴の中へ竪(たて)に差し入れて保護しながら四条通へ出ると、未だ宵の口の事とて人の往来織るが如き賑わいであった。

 

 

というもので、『近畿評論』では渡辺吉太郎だとされた現場に刀の鞘を残していった人物を、実は世良敏郎であるとしたのでした。ちなみにこの記事では近江屋を襲撃したのは佐々木只三郎と渡辺篤ほか三名とし、そのうちの一人が世良敏郎であるとしていました。

 

 

更に時は下って昭和五十三年(1978)、渡辺篤の子孫が、保管していた篤直筆の『渡辺家由緒暦代系図履歴書』の存在を公表し、その具体的な記述などから注目を浴びました。更に菊地明先生の研究により、鞘を忘れた人物とされる世良敏郎の実在が証明され、渡辺篤の残した記録の信ぴょう性を高めることとなります。

 

 

こうして、近江屋事件の “真犯人“ は京都見廻組であるとする説が有力視され、ほぼ確定的とまで言われるようになり現在に至るのですが、その一方で従来の新選組説や、平成に一種のブームとなった感のある陰謀論に基づく御陵衛士説、十津川郷士説、その背後の存在として薩摩藩黒幕説、後藤象二郎黒幕説、更には、実は当時から一部で囁かれていた陸援隊説、土佐藩説など諸説を支持する人も一定数存在しており、近江屋事件は歴史上の未解決事件として現在でもたびたび取り上げられています。

 

 

といったところが坂本龍馬・中岡慎太郎及び藤吉が殺害された近江屋事件と、その「真犯人探し」の論争の大方のあらまし「近江屋事件始末」と言えるでしょうか。次からはタイトルを変えて、自分なりの検証を始めてみたいと思いますが、これまで通りゆるゆるとやって行くつもりですので、どうか気長におつき合いいただければ幸いです。

 

 

 

 

 

 

・・・誰よりも先に自分が飽きそうなのが心配ですが(笑)

 

 

※.元京都見廻組 渡辺篤(一郎、鱗三郎)