近江屋事件始末(9) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

谷干城ら、坂本龍馬や中岡慎太郎と関係の深かった土佐藩の人々は、坂本・中岡を殺害したのは新選組だと信じ、新政府軍に投降した近藤勇の首を刎ねました。同時に元新選組の大石鍬次郎を捕えるのですが、取り調べに対し大石は意外な供述をします。

 

 

刑部省口書

一橋家来 大石捨二郎(「伜」脱か)

元新選組 大石鍬次郎 口上 年三十二歳

 

(前略)

その節、伊豆太郎(※.加納鷲雄)より相尋ね候にて、京師に於いて土州藩坂本龍馬殺害に及び候も私共の所業にこれ有るべし。その証は、場所に新選組原田左之助差料の刀鞘落としこれ有り。その上(近藤)勇捕縛の節、白状に及びし旨、申し聞き候得共、右はかねがね勇話すには坂本龍馬討ち取り候ものは見廻組今井信郎、高橋某など少人数にて、剛勇の龍馬仕留め候義は感賞致すべしなど、折々酒席にて組頭のものなどへ話候を脇聞き致し降り候(以下略)

 

 

戊辰戦争当時、薩摩藩に属していた元新選組・御陵衛士の加納鷲雄(当時伊豆太郎を名乗る)に召し捕られ、坂本龍馬殺害の件を尋問された。龍馬殺害は新選組のしわざであろう。その証拠に殺害場所である近江屋の二階に新選組原田左之助の差料の刀の鞘が落ちていた、と言われた。しかも近藤勇が捕らわれた際に龍馬殺害を白状したぞとまで言われたが、近藤は「坂本龍馬を討ち取ったのは見廻組の今井信郎、高橋某などで、少人数で剛勇の龍馬を討ち取ったのは讃えるべきことだ」などと酒の席でちょくちょく組頭の者たちなどへ話していた、と大石鍬次郎は供述したのでした。近江屋を襲撃したのは新選組ではなく京都見廻組だったというのです。更に大石は兵部省の取り調べに対しても同様の供述を繰り返します。

 

 

兵部省口書

元一橋家来 大石捨二郎 伜

新選組 大石鍬次郎 事 新吉 年三十三歳

 

同(慶応三)年十月頃、土州藩坂本龍馬、石川清之助両人を暗殺の義、私共の所業にはこれ無し。これは見廻組海野某、高橋某、今井信郎、ほか一人にて暗殺致し候由、(近藤)勇よりたしかに承知仕り候。先だって薩藩加納伊豆太郎(鷲雄)に召し捕られ候節、私共暗殺に及び候段、申し立て候得共、これは全く彼の薩の拷問を逃れ候為にて、実は前申し上げ候通りに御座候。 

 

 

坂本龍馬と石川清之助(中岡慎太郎)を暗殺したのは新選組ではない。二人を殺害したのは見廻組の海野某、高橋某、今井信郎ともう一人の四人で、そのことは近藤勇もたしかに承知していた。加納に捕らわれた際に新選組がやったと申し立てたが、これは薩摩藩の拷問を逃れたかったからで、真実は今申し上げたとおりだ、と言うのでした。

 

 

更に箱館で降伏した新選組の横倉甚五郎は「坂本龍馬殺害の件は全く知らない。ただ、どうも相手方は新選組がやったと思い込んでいるようだから、油断するなと近藤勇より達しがあった」と証言し、同じく相馬肇は「坂本龍馬暗殺の件はすべて見廻組がやったという通達が組内に回された」と証言しました。

 

 

そして同じく箱館で降伏した元見廻組の今井信郎が以下の供述をし、近江屋を襲撃したのは自分たち京都見廻組であったことを認めたのでした。

 

 

箱館降伏人

兵部省口書

今井信郎(三十歳)

 

坂本龍馬を殺害の義は、見廻組与頭佐々木只三郎より指図にて、龍馬事不軌(※)を謀り候に付、先だって召し捕りにかかり候ところ、取り逃がし候に付、このたびはきっと召し捕るべし。万一手に余り候節は、打ち果たし申すべき旨、達しこれ有り。

 

私義は上京早々の事ゆえ、委細の義は承知仕らず候得共、佐々木只三郎先立ち、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎、私共都合七人にて河原町三条下ル龍馬旅宿へ昼参り候ところ、同人留守にて、その夜五つ頃再び参り候ところ在宅に付、佐々木只三郎先へ参り、あとよりすぐに桂隼之助、渡辺吉太郎、高橋安次郎二階へ上り、土肥仲蔵、桜井大三郎は下に控え居り候ところ、二階の様子は存じ申さず候得共、二階より下し申し聞き候には、召し捕るべく申せのところ、両三人居合わせ候間、よんどころ無く打ち果たし候旨、申し聞き、すぐに立ち退けと申すことゆえ、一同右場所立ち退き、二条通にて高橋、渡辺両人は見廻組屋敷へ帰り、佐々木は帰り、ほか私共は旅宿に居り候間、旅宿へ帰り申し候。

 

※.不軌…ふき。法を破ること。謀反を企てること。

 

(史料はすべて読み下しにし、漢字は現用のものに置き換えました)

 

坂本龍馬を殺害したのは見廻組与頭佐々木只三郎の指図であって、龍馬が幕府に対して謀反を企てたため先だって召し捕りに向かったところ取り逃がしてしまった(寺田屋事件)。そこで今回は必ず召し捕らなければいけない。万が一手に余る場合は殺害せよとの指示があった。

 

私はまだ上京して間もなかったので、詳しいことはわからなかったが、佐々木只三郎が先導して渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎、そして私と都合七人で河原町三条下ルの龍馬の下宿先(近江屋)へ昼に向かったが、その時は龍馬は留守だった。そこで夜五つ(午後8時)頃に再び近江屋に行ったところ、本人が在宅していた。

 

そこで佐々木只三郎が先に入り、そのあとすぐに桂隼之助、渡辺吉太郎、高橋安次郎が二階に上った。土肥仲蔵と桜井大三郎(と私)は一階に控えていたので二階の様子はわからなかったが、二階から下りてきた者たちに聞いたところ、「召し捕れという命令だったが、三人もいたので殺害した」とのことだった。

 

すぐに立ち退けと言われ、皆近江屋を離れた。二条通まで来たところで高橋と渡辺が見廻組屋敷に帰り、佐々木は自分の宿舎に帰り、ほか私共は別に下宿先があったので、それぞれの宿舎に帰った。

 

 

というのでした。

 

 

 

 

 

ちなみに高橋・渡辺と別れたという二条通は、図よりだいぶ南にあります。早めに別れて別行動をとったということでしょうか。もしくは一条通の記憶違いでしょうか。