近江屋事件始末(8) | またしちのブログ

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慶応三年(1867)十一月十五日、河原町通蛸薬師下ルの醤油商・近江屋の二階で坂本龍馬・中岡慎太郎、そして龍馬の家来藤吉の三人が殺害されましたが、襲撃者に関しては事件直後から

 

「新選組等の仕業なるべしとの報知也」(『寺村左膳日記』)

「坂本首馬暴殺の事、いよいよ新撰(組)に相違無き向き、聞き申し候」(『大久保利通書簡』)

「相手は恐らくは新選組中ならんとの事」(『丁卯日記』)

 

などと、新選組がやったに違いないという噂で持ち切りでした。

 

 

そして三日後の十一月十八日の夜、新選組を脱退し御陵衛士を組織していた伊東甲子太郎が新選組の手によって暗殺されてしまいます。その遺体を引き取りに行った御陵衛士たちも新選組に待ち伏せされ、藤堂平助・毛内有之助、服部武雄の三人が殺害されてしまいます(油小路事件)。

 

 

残った御陵衛士の残党は伏見薩摩藩邸に匿われましたが、土佐の谷干城・毛利恭助と、京にいた薩摩の中村半次郎の三人が伏見薩摩藩邸を訪ね、近江屋の二階に残されていた、襲撃者の残していった黒鞘を彼等に見せたところ

 

これは原田左之助の刀と思うと言い出した。なるほど、この原田左之助というのは腕前の男だ。新選組の中でもまず実行委員という理屈で、人を斬りに行くには何時でも先に立って行く。そこで私はハアなるほど。どうもその挙動といい、いかにも武辺場数の者であろう。何しろ敏捷なやり方である。どうしてもそれに違いないというので、もはや一人は原田左之助、その他斬った者は新選組の者に相違ないということに、まあ決定しておる。(『谷干城談話』明治三十三年)

 

 

というわけで、これはもう新選組のしわざだ。同年四月に発生した「いろは丸沈没事件」で多額の賠償金を払わされることになった紀州藩の三浦休太郎が、新選組にやらせたに違いないということになって、同年十二月七日に陸援隊・海援隊の隊士が、新選組が警護する三浦を襲撃した天満屋事件が発生します。

 

 

土佐藩の新選組に対する怨恨はその後も消えることなく、慶応四年(1868)四月二十五日、下総流山で新政府軍に投降した新選組局長近藤勇は、谷ら土佐藩の強硬な主張により斬首されてしまいます。