島津義弘の甲冑 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

薩摩の戦国武将・島津義弘(1535‐1619)は関ヶ原の戦いにおける「敵中突破」の退却行で有名ですが、その島津義弘が関ヶ原の戦いで着用していた甲冑に関して、興味深い話を見つけました。

 

 

島津義弘の甲冑ですが、実は幕末期の幕臣・窪田治部右衛門(鎮勝。浪士組取締役)が所持していたというのです。これは窪田と交遊があり、お互いの屋敷をたびたび訪問し合っていたという西村茂樹(佐野藩士。のち貴族院議員)が語っているのですが、曰く

 

 

余、一日その家を訪(と)いし、床の間に一領の具足を置く。草摺二枚落ちて両袖なし。おどし糸は色褪して何色なるを弁ぜず。窪田曰く、この具足は島津義弘のものなり。

 

 

窪田の話によると、義弘率いる島津勢は追手を撃退しつつ関が原を脱出し九州へと逃れますが、肥後の球磨川まで来たところで渡し舟がなく、行く手を阻まれてしまいます。が、それを見た村人の一人が舟を用意してくれたため、義弘一行は無事に川を渡ることが出来ました。義弘は着ていた甲冑を脱いで村人に渡しその厚意に感謝したといいます。甲冑はのちに細川家へ献上されたのですが、扱心流柔術の達人であった窪田治部右衛門の父江口秀隆が肥後藩に師範として招かれた際に、細川侯からこの甲冑を拝領したというのです。

 

 

あり得ない話ではないと思うのですがいかがでしょう。島津義弘は薩摩藩にとっては神様みたいな存在(というか、実際に神として祀られてますね)なので、もしお隣の肥後藩細川家がその甲冑を持っていたと知ったら、是が非でも返してもらいたかったところだったでしょうが、肥後藩の方も絶対に薩摩には返したくなかったかも知れませんね(笑)。

 

 

ちなみに、その治部右衛門鎮勝の息子である泉太郎鎮章(備前守)は鳥羽・伏見の戦いで薩摩藩兵と戦い戦死しており、その泉太郎の子、つまり治部右衛門の孫にあたる俊輔は彰義隊に加わり、黒門口の戦いでやはり薩摩藩兵と戦い、凄絶な最期を遂げたと伝わります。これも何かの因果でしょうか。

 

 

この窪田家が所蔵していたという島津義弘の甲冑、その後の所在については全く情報がないので、おそらく行方不明なのでしょうね。もしかしたら、ひょっとしたらですが、泉太郎か俊輔が薩摩兵と戦うに際して敢えて島津義弘の甲冑を身にまとい、「義弘公の甲冑だ。討てるもんなら討ってみやがれ!」なんて啖呵きってたりしたら面白いのですが。でも薩摩の兵はそれとは知らず、ボロボロの甲冑を着た亡骸を見て「古臭か甲冑じゃ。どこん貧乏旗本か」なんて嘲笑ってたりしてね(笑)。