元治元年(1864)六月五日の夜、池田屋から脱出したのち河原町二条下ルの角倉屋敷の門前あたりで自害した望月亀弥太ですが、その遺体に関して『佐野正敬手記』に以下の記述があります。
翌朝、河原町角倉屋敷辺に一人切り捨てに致しこれ有り。また長州屋敷南横手通地蔵の後ろに手負い一人死に居り候処、右屋敷内より板囲いを破り取り入れ候由の事。
河原町角倉屋敷辺で切り捨てられていたとされるのが望月亀弥太であり、一方長州屋敷南横手通の地蔵の後ろで死んでいたというのが吉田稔麿だと思われますが、長州屋敷の板囲いを破って遺体を屋敷内に取り入れたらしいというのです。「共に」「両人」などの言葉がないので、これは吉田稔麿のみの話だとも解釈出来ますが、おそらくはそうでないでしょう。というのも望月亀弥太の遺体は、その後長州藩士品川弥二郎の手によって霊明舎(現在の霊明神社)墓地に葬られていることが「霊明神社神名帳」に記されているからです。
ただし、土佐藩の望月亀弥太としてではなく長州藩の松尾甲之進として葬られ、年齢や死亡年月日も事実と異なり、死亡したのは文久三年八月二十日ということになっています。おそらくは池田屋事件で死亡した人物だと悟られないよう偽装したのではないかと思われます。
文久三亥年八月廿日神去 歳廿九才 体ヲ葬ス
○ 実葬 松尾甲之進則信神霊
「霊明神社神名帳」~『幕末勤王志士と神葬』(村上繁樹著)参照
霊明舎墓地は明治維新後、国によって接収され霊山護国神社が管理する霊山墓地となっています。松尾甲之進こと望月亀弥太の墓はそのほぼ中央、長州藩士や池田屋事件の殉難者を集めた区画の最上段の左から4番目に立っています。
※.望月亀弥太(松尾甲之進)の墓
どういうわけだか、同じ列に並ぶ墓の中で亀弥太の墓だけが後ろに大きく傾いてしまっています。
このまま放置していると、そのうち倒れてしまいそうで心配です。
下の写真は奥から船越清蔵(長門清末藩士。陽明学者)、堤松左衛門(肥後藩士。宇郷玄蕃頭の暗殺等で知られる。亀弥太同様、変名の南木四郎を用いて葬られている)、松浦亀太郎(長州藩士。文久二年四月十三日切腹。吉田松陰の肖像画を描いたことで知られる)、望月亀弥太、周田半蔵(長州藩士。文久三年九月病死)、そして吉田稔麿、杉山松介、所山五六郎(野老山五吉郎。土佐藩士)の墓となっていますが、こうしてみると亀弥太の墓だけが傾いているのがわかります。
ちなみに招魂祭の第一号であった船越清蔵をのぞく7人は全員「実葬」つまり実際に遺体が埋葬されている人物であり、あるいは霊明舎墓地が霊山墓地になった際に遺体が埋葬されている墓をこの最上段の一画に集めたのかも知れません。
京都の町と、苦楽をともにした仲間である坂本龍馬と中岡慎太郎の墓を見下ろせる位置にあるというのは、本人的には結構ご満悦なのかも知れませんね。
最後に話変わって、望月亀弥太終焉の地である旧角倉屋敷つまり現在の日本銀行京都支店の北に100m弱の場所にある法雲寺の門前に、そのことを示す石碑が立っています。
・・・が、「久坂玄瑞・吉田稔麿等寓居跡」の石碑の裏側に彫られており、回り込まないとわからないようになっています。
「そりゃあないぜよ」という亀弥太のボヤキが聞こえてきそうな気がします・・・。
(終)