望月亀弥太(13)終焉の地 | またしちのブログ

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池田屋から脱出した望月亀弥太は北に向かって逃げ、長州藩の北側にあった角倉家の屋敷の近くまで来たところで力尽きて自刃したといわれています。望月亀弥太(と思われる人物)の死を伝えている史料・文献は

 

 

逃げ去り候内一人は、二条下ル御用角倉屋敷脇にて自殺致し居り申し候。(『肥後藩国事史料』)

 

何者とも知れず。一人自殺。角倉長屋前にて(『京武坂風説』)

 

同町(※.河原町通のこと)三条通り角倉鍋次郎門前に、二十二三の人、槍疵を負い自殺して果てる者あり。(『備前池田家史料草按』)

 

会津藩兵の追跡するところとなり、囲いを衝いて奮闘、数人を倒し力尽きて角倉の近傍に遁れ自刃して死す。(『贈位諸賢伝 二』)

 

角倉のあたりにて腹掻き切りて失せぬ。(『殉難録稿』)

 

翌朝、河原町角倉屋敷辺にて一人切り捨てに致しこれ有り。(『佐野正敬手記』)

 

 

これらの記述をみると角倉屋敷周辺で自殺した者がいたという点で一致しており、他に該当者がいないことから、これらは望月亀弥太のことであるのは間違いないでしょう。亀弥太が長州藩邸にたどり着いた頃には、既に会津藩をはじめとする幕府の兵に長州藩邸は囲まれていたものと思われ、邸内に入ることが出来ずに戦闘ののち自決したものと思われます。

 

 

大勢を相手に一人で奮戦したといえば聞こえは良いのですが、当時長州藩邸内には大勢の浪士が結集していました。しかし、その門は固く閉ざされ、亀弥太を助けようと外に出て来る者は一人もいませんでした。「どうして誰も出て来てくれないんだ」そんな絶望感に打ちのめされた挙げ句の自刃だったのかも知れません。

 

 

現在その角倉屋敷跡には、日本銀行京都支店が建っています。「門前」「屋敷長屋前」などとあることから河原町通に面した表門の近くで息を引き取ったのではないかと思われます。「屋敷脇」というのも「屋敷の門の脇」と解釈出来るのではないでしょうか。

 

 

 

 

また地図を作ってみました。明治二十五年の地図「仮製図」を元にしています。ちなみに現在は京都市を代表する大動脈のひとつである御池通は、江戸時代においては本能寺や妙満寺の西(左)側の寺町通以西の道を指し、長州藩邸の南側にある道は御池通ではありません。『佐野正敬手記』には「長州藩邸南横手通」とあります。