森寛斎と新選組(7) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

新選組に追われながらも長州の密偵として暗躍していた森寛斎ですが、慶応元年(1865)には藩の御用絵師として二十五俵で召し抱えられたといいます(ウィキペディア参照)。だとすると林の中や寺の床下で野宿をして夜露をしのいでいたという前回の話は、やっぱり元治元年(1864)頃の話なのでは、という気もしますが、ともあれそれから時は過ぎ、戊辰戦争で徳川幕府は倒れ、明治維新となるのです。

 

 

維新後の寛斎は自らが政治に関わることはなく画業に専念していきます。が、世の中は文明開化。西洋から入って来た新しい文化の波に押され、日本画が顧みられることはなくなっていました。寛斎はやむなく露店を出して通行人相手に絵を描いて売り、わずかな金銭を得て生活の糧とせざるを得ない有り様でした。

 

 

そんな境遇を一変させたのが、他ならぬ、かつてあれほど忌み嫌っていた "夷敵" こと外国人でした。米国から来日したアーネスト・フェノロサの尽力によって日本美術再評価の動きが起こったのです。衰退の一途をたどっていた京都画壇も息を吹き返し、寛斎も円山応挙の流れをくむ日本画家として高い評価を得ることになります。

 

 

生活も一変し、木屋町二条の「井上伯爵の別邸」(※)を借り受けて住むことになりました。が、あまりに立派な邸宅だったので、「こんな屋敷に住む機会はまたとあるまい。どうせ一時の腰かけだ」と「一時館」と名付けたといいます。そして、やはり一時の仮の住まいであったらしく、のちに室町二条に家を購入して終の棲家としています。

 

 

※.『近世名匠談』(森大狂/明治33年)及び同書を参考にしたと思われる伝記本に同様に書かれています。おそらく同じ長州出身の井上馨のことだと思われます。井上馨は明治四十年に侯爵となっていますが、明治三十三年当時は伯爵でした。ただし、木屋町二条の別邸と聞いて連想されるのは、同じ長州の山県有朋の別邸(現・がんこ高瀬川二条苑)の方です。山県有朋は寛斎と親しかったようなので、むしろそちらの可能性の方が高いのではないかと思われます。

 

 

明治二十三年(1890)には帝室技芸委員に推挙され、また宮内省の要請で皇居に「小鍛冶錬刀の図」を描くなど画家として大成し、「明治の応挙」と称された森寛斎は、明治二十七年(1894)六月二日の朝、かねてから患っていた肺炎のために息を引き取りました。享年八十二歳。その遺体は二日後の六月二日に弟子たちの手によって霊明神社墓地(清閑寺霊山町)に埋葬されています。墓は現存していて、先日案内していただいたのですが、写真掲載の可否は確認出来なかったので掲載はやめておきます。

 

 

男子に恵まれなかったことと娘が一人いたことは分かっていますが、伝記に妻についての記述がないのが不思議です。その青年時代を密偵や諜報活動のために費やしたことを考えると、ひょっとしたら夫寛斎を逃がそうとして斬られたか、などと色々想像してしまいます。

 

 

余談ながら、画家としての寛斎は下絵を書くことを嫌い、ただ心のおもむくまま、筆の動くままに描いたといいます。また、京都に訪ねてきたフェノロサに「なぜ日本画は影を描かないのか」と尋ねられて「影はうつろいゆくもので、描くべきものではない」と答えたそうです。

 

(終)

 

 

※.室町二条の「勤皇画家 森寛斎旧宅蹟」の碑