森寛斎と新選組(6) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

『近世名匠談』には森寛斎と新選組に関する逸話がもうひとつあります。

 

寛斎がかつて住みたる蛸薬師堺町の家は、その失踪せしより以来、新撰組の穿鑿(せんさく)もっとも厳しく、両三回もその町年寄なる八木良則を西本願寺の屯営へ喚(よ)びて詰問し、もし隠匿せば斬に処すとまで威迫せしとぞ。

 

※.穿鑿=細かく調べること

 

 

森寛斎が文久年間に住んでいた堺町通蛸薬師の家(の周辺)は、寛斎が行方をくらました後も新選組の探索厳しく、町年寄の八木良則は三度も西本願寺の屯所に呼び出されて「もし隠し立てをすれば斬るぞ」と脅されたというのです。そのため寛斎は家の近所に近づくことも出来ず、また匿ってくれる家もないので、やむなく林の中で野宿をしたり、或いは寺の床下をねぐらにしていました。

 

 

そんな頃のこと、三日間何も食べておらず弱り果てていた寛斎は、夜陰に紛れて柳馬場通に住む旧知の装潢師(そうこうし=書画や書物の表装職人)木村治助のもとを訪ねました。朝から雪が降っていた寒い冬の日のことだったといいます。治助は寛斎を憐れに思い、すぐに一椀の食事を用意しましたが、通りを新選組がウロウロしているからというので、寛斎は土蔵の床下に隠れて食事をとることにしました。そして寛斎が床下に隠れた直後のことです。

 

 

新撰組の関三十郎等、捕吏六人と共に抜刀にて入り来たり、治助を呼び起こして長州の森某、今この家へ来たれり。すぐに引きずり出せと口々に叫びて、鉄扇にて治助の肩を乱打す。

 

 

隊士を率いて木村治助の家に乗り込んで来た "関三十郎" は三十郎という名前から谷三十郎であることは間違いありません。「たに」を聞き間違えたのだから「せき」ではなく「かんさんじゅうろう」と聞こえたのでしょう。あるいは谷先生、舌っ足らずだったのでしょうか。

 

 

※.木村治助の自宅があった?柳馬場通蛸薬師付近

 

 

治助はうろたえずに落ち着き払って知らぬふりをし、新選組は家探しをはじめましたが、土蔵や二階を探したものの、まさか床下に隠れているとは気づかず、寛斎を捕らえられずに引き揚げて行きました。寛斎は食事を済ませると匿ってくれた礼にと、「根笹に亀の図」を描いて治助に渡し、農夫に変装して大和路へと逃れて行きました。

 

 

その木村治助の家ですが、柳馬場通のどこかは書かれていないものの、おそらくは森寛斎の自宅からそう離れていないだろうと思われます。ちなみに柳馬場通は寛斎の自宅があった堺町通の東隣なので、ごく近所であったかも知れないし、だからこそ新選組が治助の家の周りをウロウロしていたのではないかと思われます。

 

 

ただ、この逸話にも少し疑問がありまして、事件当時の新選組の屯所が西本願寺だとしていることから、これは慶応二年(1866)か三年(1867)の話ということになりますが、そんな頃になってもまだ森寛斎が文久年間に住んでいた自宅のあたりを新選組が探索し続けるというのは、ちょっと不自然な気がしないでもありません。この逸話は、ひょっとしたらもっと前の、元治元年(1864)頃の話なのかも知れません。

 

 

余談になりますが、森寛斎の自宅があった堺町通蛸薬師の周辺には、装潢師の木村治助(柳馬場通)をはじめ、天誅組総裁で絵師でもあった藤本鉄石(富小路通蛸薬師上ル)や「伏見鳥羽戦争図」の作者で挿絵画家の遠藤茂平(蛙斎。六角通り柳馬場西)、更に時代は一、二世代さかのぼりますが伊藤若冲(高倉通錦小路下ル)など絵に関わる人物が多く住んでいたようです。

 

※.森寛斎自宅周辺の図。各色枠はだいたいこのあたりに住んでいたという意味です。住んでいた時期はそれぞれ異なります。ちなみに森寛斎と藤本鉄石の自宅の間で徒歩1,2分といったところです。