森寛斎と新選組(5) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

元治元年(1864)七月に京を脱出した森寛斎は同志の岡村熊七(長州藩士。儒学者)や京都の商人平野屋嘉兵衛と共に大坂に下り、大坂で岡村と別れて平野屋嘉兵衛と二人で長州に向かいました。萩に到着したのは同年の十一月二日だったと記録にあります。しばらく萩に滞在して京の情勢を報告したり建白書を提出したりしましたが、情が湧いてしまうのを嫌って実家には敢えて帰らなかったといいます。

 

 

そして寛斎は再び京に戻って来ます。いつ頃帰って来たのかは残念ながら分かりませんが、翌元治二年(慶応元年/1865)年中であったことは間違いなさそうです。『近世名匠談』(森大狂/明治33年)に

 

この時の京都は大火の後にて去年までも壮麗を極めたる街衢(がいく=町)も今は漠々たる一面の焼原と変わり果てて、花も紅葉も昔の夢に見るばかりなるあさましき様なるが上に、白昼の盗賊横行し、加うるに壬生浪士処々に屯(たむろ)して、その暴虐至らざるところなく、最も酷を極めたるがわきて長人を憎むこと甚だしく、これを捕えて恩賞を得ばやとて、その捜索すこぶる厳なり。この間に寛斎は或いは隠れ、或いは走り、様々苦心して機密を探りぬ。

 

とあり、禁門の変の翌年に京に戻って来て、壬生浪士こと新選組に追われながらも機密を探る隠密活動を続けていたとされています。

 

 

さて、『近世名匠談』には上記の記述に続けて、非常に興味深いことが書かれています。

 

この年の九月はその忌日なれば、これをその香火所(ぼだいしょ)なる仏光寺通大宮の浄土宗清光寺に納めて法要を行わんとなせしが、この寺も当時は会津新撰隊別組の屯所なれるをもって、うかつに門に入りがたし。

 

 

「その忌日」というのは寛斎の師匠で養父でもある森徹山の命日を指しています。その法要のために寛斎は、自ら描いた如意輪観音像と般若心経の写経を菩提寺である仏光寺通大宮の清光寺に奉納しようとしたのですが、同寺は新選組の「別組の屯所」となっていたために、うかつに入ることが出来なかったというのです。

 

 

実はこの逸話、いろいろと辻褄が合わないところがあります。まず「仏光寺通大宮の浄土宗清光寺」なる寺は存在しません。おそらくこれは一つ北隣の綾小路通の大宮通西入ルにある西方寺の間違いだと思われます。「せいこうじ」と「せいほうじ」を間違ったのでしょう。ちなみにその西方寺は、山南敬助ら新選組隊士の墓があることで知られる光縁寺のとなりのとなりになります。

 

 

が、そもそも森徹山の菩提寺は西方寺ではありません。森徹山の墓があるのは仏光寺通大宮西入ルの帰命院になります。帰命院も浄土宗の寺なので、つまりこの逸話は帰命院と西方寺を混同してしまった上に、その西方寺を清光寺と誤記したということになりそうです。

 

 

 

 

結局、寛斎は如意輪観音像と般若心経を門内にひそかに投げ入れることしか出来ませんでしたが、意図を汲んだ和尚が翌日に法要を執り行ってくれたとしています。

 

 

それはともかく、新選組の別組屯所というのは興味深いです。実はこの逸話の直後に新選組の屯所が西本願寺にあるという話が出てくるので、この逸話が慶応元年のことなのか、それとも翌慶応二年のことなのかは判断つきかねますが、西本願寺に移ったあとも「別組屯所」が残っていたのだとしたら面白い話です。

 

 

考えてみれば、当時の新選組は長州系浪士たちにとっては不倶戴天の敵であり、池田屋事件で多くの同志を討ち取り、その後も追いかけ回している憎んでも憎みきれない相手なわけですから、その恨みを晴らさんと光縁寺や壬生寺に残された隊士たちの墓に危害を加えようとする者がいても不思議ではありません。あるいは前川家や八木家など、新選組に屋敷を提供した人々を逆恨みして襲おうとする者もいたかも知れない。そう考えると、西本願寺に屯所を移転した後も新選組が壬生に「別組」を残して常駐させていた可能性は十分考えられそうです。

 

 

※.新選組の別組屯所があった?帰命院

 

 

ただ、実はそう考えるには大きな問題があります。というのも森徹山が亡くなったのは天保十二年(1841)の五月六日なのです。となると、そもそも九月が忌日というのがおかしいのですが、これに関しては口述筆記ゆえに「ごがつ」を「くがつ」と聞き間違えたと考えることは出来ます。が、天保十二年(1841)に死亡した人の忌日ということになると、慶応元年(1865)であっても慶応二年(1866)でも少し都合が悪そうです。計算してみたところ、二十三回忌だと文久三年(1863)、二十七回忌だと慶応三年(1867)になってしまうからです。無論、毎年命日の法要を欠かさなかった可能性もあるし、新選組に追われながらも養父徹山の命日には必ず帰命院を訪れて法要を欠かず行なっていたという方が、話としては断然面白くなりますが、現実的に考えるとどうでしょう。

 

 

また、この話は新選組に追われていた森寛斎の側から出た逸話であるという点も注意する必要があると思います。つまり、実際には法要のためこっそりと帰命院に入ろうとしたところ、数人の新選組隊士がたまたま立ち寄っていただけだったとか、或いはそれこそ寛斎自身を捕らえようと張り込んでいた新選組隊士がいたのを「別組屯所」に違いないと寛斎が思い込んだだけという可能性もありそうです。

 

 

※.山南敬助らの墓がある光縁寺