森寛斎と新選組(2) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

本題に入る前にひとつ。森寛斎が下宿していた堀川通仏光寺の仏師・田中蔵之丞という人物ですが、『初代吉田四郎右衛門自当について』(加藤弓枝)によると、やはり寛斎の師匠であった森徹山の実子(長男)であったようです。つまり寛斎は義理の兄の家の土蔵に居候していたことになります。ちなみに田中蔵之丞の住所は史料によっては「堀川通綾小路下ル」としているものもあります。綾小路通は仏光寺通の北隣なので、二つの通りの中間あたりに家があったのでしょう。

 

 

※.堀川通仏光寺の辻跡。田中家は数軒北(画面奥)にあったと思われます。

 

 

ちなみに、この堀川通仏光寺付近では慶応元年(1865)に京都見廻組の西原邦之助が何者かに暗殺されています。その頃、寛斎は既にここにはいませんでしたが、あるいは寛斎の旧宅付近ということで、探索を行なっていたところを襲撃されたのかも知れません。

 

 

さて、森寛斎が絵師として実績を積みつつあった頃、世の中は黒船来航、欧米との不平等条約締結、更には安政の大獄と激動の幕末期に突入していました。長州出身であった寛斎も、平野国臣や河瀬太宰、同じ絵師であった藤本鉄石らの尊皇攘夷運動家と交流を持つようになり、堀川通仏光寺の土蔵は志士たちの格好の密会場所となりました。

 

 

しかし絵師と尊皇攘夷の志士という二足の草鞋を履くには、下宿先の土蔵は手狭過ぎたのでしょう。寛斎は田中家の土蔵を出て、新たに堺町通蛸薬師に居を構えることになります。時に文久年間のことだったといいます。

 

 

しかしちょうどその頃、各地から上京した過激派浪士たちの横暴に手を焼いていた幕府にとって、切り札と呼ぶべき集団が誕生していたのでした。

 

 

※.森寛斎の自宅があった堺町通蛸薬師付近