森寛斎と新選組(3) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

堺町通蛸薬師に自宅を構えた森寛斎でしたが、「その名、未だよく世に知られず、加うるに当時騒乱の際なりしかば、揮毫を求むる者いと稀なり」(『近世名匠談話』森大狂/明治33年)つまり絵師としてはまだ無名であったばかりか、世は幕末の動乱期であり、絵を描いてくれと依頼する人も稀だったといいます。そんなこともあってか、寛斎はますます尊皇攘夷運動にのめり込んでいったようで、長州藩とのつながりもより強くなって行きました。

 

 

そんな中の文久三年(1863)、将軍徳川家茂が孝明天皇へ謁見するために上洛することになり、その警護の一翼を担うべく浪士組が結成され、将軍に先んじて京都にやって来ました。浪士組は間もなく江戸に引き返すことになるのですが、一部の隊士が京に残ることを希望します。そして彼らは京都守護職を務めていた会津藩の預かりとなり、新選組へと発展していくことはよく知られています。しかし、実は会津藩は新選組よりも先に在京浪士を集めて一隊となし、傘下に治める計画を立てていました。

 

 

その計画に協力して浪士を集めたのが寛斎の友人であった藤本鉄石だったのですが、鉄石本人をはじめ、彼が集めた浪士たちは結局会津藩預かりとなることはありませんでした。その理由はよく分かっていませんが、鉄石の友人に長州藩とつながりのあった森寛斎がいたことを会津藩が察知したとすれば、会津藩が鉄石と彼の同志たちを排除する原因のひとつとなったことは間違いないでしょう。

 

 

実際に、間もなく寛斎は幕吏に追われる身となってしまいます。寛斎は八月十八日の政変で長州藩が京を追われた際に七卿落ちの一行に加わろうとしましたが、「お主は京に残って情勢を探索し、長州に知らせてほしい」と頼まれていました。いわば「長州の間者」となったわけですが、その動きはすぐに露見して堺町通蛸薬師の自宅は襲撃を受けます。襲撃したのが新選組であったのか、あるいは別の幕吏であったのかは不明ですが、寛斎は命からがら逃げ出し、清水三年坂(産寧坂)の料亭・明保野亭に逃げ込んで、しばらくここに潜伏することを余儀なくされました。

 

 

※.清水三年坂(産寧坂)明保野亭(左側の建物)