慶応三年(1868)十一月十八日、七条油小路の辻で、かつての同志であった新選組と御陵衛士の隊士たちが斬り合いとなり、御陵衛士側は藤堂平助、服部武雄、毛内有之助の三人が討ち死にしてしまいました。世にいう油小路の変です。
※.七条油小路の辻(南側から撮影)
三人が倒れていた場所について、『鳥取藩慶応丁卯筆記』には
一、七条通油小路南西手に倒れ居り候もの
南部弥七郎(藤堂平助)
一、同所辻北東手に倒れ果て居り候もの
三宅安兵衛(服部武雄)
一、油小路通七条少し上ル東側へ寄り倒れ果て居り候
寺内監物(毛内有之助)
つまり、藤堂平助は南西の角、服部武雄は北東の角、そして毛内有之助は油小路通を少し北に行ったところだったとしています。ちなみに、服部武雄に関しては他の史料に毛内同様「少し上ル」だったとするものもあるようです。
ただ、七条通はのちに道幅を広げられているため、辻の角といっても、当時と今とでは場所が違っている可能性があります。そこで、七条通の道幅がどう広げられたのかを確かめるために、現地に行って地元の人に聞いてみることにしました。
幸いすぐ近くに、いかにも古そうな商店があったので入ってみたところ、ご高齢の奥さんが応対して下さいました。案の定、創業は江戸時代という老舗のお店でした。そこで七条通の道幅のことを聞いてみたところ
「昔は細い通りだったそうですよ。私がこの家に嫁いできた60年前には、もう今の広さでしたけど」
「北か南か、どちら側に道を広げたのか、ご存知ですか?」
「北ですよ。ほら、北側の建物、みんな奥行きが狭うなっておまっしゃろ」
・・・いや、よそから来た人間からしたら、ごく普通の奥行きのように見えるのですが、たしかに言われてみれば「ウナギの寝床」と形容される京都の細長い町家にしては、七条通北側に面した建物は奥行きが狭いようです。つまり、当時の七条通は北側が今より狭かったことになります。京都の古くて細長い家屋の形を考慮すれば、現在の道路の中央ぐらいまでは家屋だったのではないでしょうか。
一方、南側は昔から変わっていないということだったので、藤堂平助が倒れていた南西の角は現在と同じだと考えて良いのではないかと思われます。
※.藤堂平助が斃れた七条油小路の南西角
一方、服部武雄が倒れていたのが北東の「角」だとしたら、現在は道路上になる可能性があります。
※.油小路通(北側)から撮影。服部武雄が斃れていたのは左側の電柱の前の路上あたりか。
また、毛内有之助が倒れていた場所に関しては、油小路通を「少し上ル(北に進む)」ということので、七条油小路の辻からせいぜい二軒目か三軒目ぐらいの場所だったのではないでしょうか。
※.油小路通を七条通から "少し" 上ったあたり。車がいるのが七条通で、画面左側が毛内が斃れていた東側になります。
グーグルマップを元に簡単な図を描いてみましたが、服部武雄の倒れていた場所はもう少し南になるかも知れません。
一方、新選組の包囲を切り抜けた三木三郎、篠原泰之進、加納鷲雄、富山弥兵衛の四人は、京の都を駆け抜けて洛北今出川の薩摩藩邸に逃げ込みました。彼らを含む御陵衛士の残党は、その後薩摩藩の下で戊辰戦争を戦うことになるわけですが、その薩摩藩の士風は、命を惜しむことを恥とし、もし戦場で大将の首をとられ、その首を奪い返すことが出来なかったら、一隊ことごとく討ち死にするべしという苛烈な軍規を有していたことで知られています。
まさに御陵衛士の大将であった伊東甲子太郎の亡骸を七条油小路に置き去りにして、命からがら逃げ延びてきた彼らを、薩摩藩士たちがどのような目で見ていたのかは想像に難くありません。だからこそ、なんとしても名誉挽回しなければという焦りが赤報隊の悲劇へとつながっていってしまったのかも知れません。