御陵衛士の足跡を訪ねて ~七条油小路編(前) | またしちのブログ

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慶応三年(1867)十一月十八日の夜亥の刻(午後十時)頃、近藤勇の妾宅を出た伊東甲子太郎は、木津屋橋通油小路の辻に差しかかったところで、新選組の手により殺害されてしまいました。

 

 

御陵衛士に賄い方(食事係)として雇われていた岡本武兵衛による、事件後の証言とされる『編年雑録』の「山陵の衛士闘死の聞書」によれば、この夜月真院の屯所にいたのは

 

三樹多門(三木三郎)、服部三郎兵衛(武雄)、南部与七郎(藤堂平助)、加納鵰雄、藤井弥七郎(勇七郎=橋本皆助)、毛内監物(有之助)、富山弥兵衛、篠原泰之助(泰之進の誤り)

 

の八人だったといいます。このうち橋本皆助に関しては既に御陵衛士を脱退して土佐の陸援隊に加わっていたことから、実際はいなかったろうと考える人も多いのですが、そもそもの話、陸援隊は来たるべき倒幕戦争に備えるべく浪士を集めていたものであり、この頃は特に任務らしい任務もなかったはずで、ましてや敵対しているわけでもない御陵衛士屯所を、この夜たまたま訪問していたとしても特に矛盾はないと思われます。いや、つい三日前に陸援隊長の中岡慎太郎が殺害され、その犯人は新選組ではないかと疑われていたわけですから、むしろ何か情報はないか、月真院を訪れて話を聞いて来いと命令されていたとしても不思議ではないと僕は思います。

 

 

それはさておき、月真院の屯所にいた隊士たちは伊東の帰りが遅いのを「宮川町二丁目に摂津(伊東甲子太郎のこと)の妾宅これ有り。例の如くその方へ罷り越し候やと存じ居り候」と、特に心配もせず、くつろいでいたようです。

 

 

そこへ油小路七条上ルの町役人と名乗る者たちがやって来て、「何者か前刻伊東氏へ深手を負わせ候間、早々御引き取り下さりたき段、届け申し出」たといいます。隊士たちは仰天し、武兵衛に駕籠を持たせると、おっとり刀で月真院を飛び出して行きました。

 

 

七条油小路に到着すると、無残にも伊東甲子太郎の遺体が横たわっていました。その遺体を藤堂と毛内が駕籠の中に納めようとした時、四方に潜んでいた新選組隊士たちが一斉に襲いかかって来ました。

 

 

※.七条油小路の辻(南側から撮影)

 

 

ちなみに、この事件は俗に「油小路の変」や「油小路事件」などと呼ばれ、ドラマなどでも「伊東先生が油小路でやられた!」などのセリフをよく耳にしますが、油小路通は京都の南北を縦断する長い通りなので、「油小路で伊東先生が」などと言われると、「油小路のどこだ」ということになってしまいます。本来は「七条油小路の変」などと言うべきなのでしょうが、まあ、別にテストに出るわけでもなし、既に世に広まっている呼び方を変えるべきとまで言うつもりはありません。知識として知っておいてもらえたらと思います。

 

 

また、ドラマや映画などでは周りに土塀ぐらいしかない人通りのない場所だったりしますが、実際は当時も今も住宅街のど真ん中であり、事件の夜は月明かりで民家の二階から戦闘の様子を覗く者もあったといいます。

 

 

※.七条油小路の辻(西側から撮影)

 

 

壮絶な斬り合いも多勢に無勢、御陵衛士側はまず伊東の遺体を駕籠に納めようとしていた藤堂平助がいきなり斬られ、毛内有之助は奮戦するも足を払われて転倒したところを散々に斬られ、三木三郎、加納鷲雄、橋本皆助、篠原泰之進は危地を脱したものの、最後に一人残された服部武雄は民家の門柱を背にして大いに戦いましたが、やがて力尽きました。『鳥取藩慶応丁卯筆記』によると

 

一、七条通油小路南西手に倒れ居り候もの

   南部弥七郎(藤堂平助)

一、同所辻北東手に倒れ果て居り候もの

   三宅安兵衛(服部武雄)

一、油小路通七条少し上ル東側へ寄り倒れ果て居り候

   寺内監物(毛内有之助)

 

 

つまり、藤堂平助は七条油小路の辻の南西角に、服部武雄は北東角に、そして毛内有之助は辻の少し北の(油小路通の)東側に寄りかかるようにして、それぞれ倒れていたことになります。

 

 

ただ、ここで気になるのが七条通のことです。現在は片側二車線の四車線の車道に、南北にそれぞれ歩道があって全体で25mほどの道幅があるようですが、幕末当時にこんなに広かったはずがありません。そう考えて調べてみたところ、大正二年(1913)に市電を通すために道幅を広げたことが分かりました。ではどんな広げ方をしたのか、北か南、どちら側に道幅を広げたのか、市内の図書館をあちこち巡ってみたのですが、そのことが書かれている本は残念ながら見つかりませんでした。

 

 

そこで最後の手段、現地付近の古そうなお店を探し、ダメ元で尋ねてみることにしました。