御陵衛士の足跡を訪ねて ~伊東甲子太郎の暗殺編 | またしちのブログ

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慶応三年(1867)十一月十八日の午後、近藤勇に招かれた伊東甲子太郎は、高台寺月真院を出て醒ヶ井通木津屋橋の近藤の妾宅へと出かけました。

 

 

※.高台寺党月真院。御陵衛士屯所跡

 

 

 

金子(きんす)の相談だったとも、国事を議論するためだったとも、或いは特に用事はなく、ただ会って話がしたいということだったとも言われていますが、つい三日前に坂本龍馬と中岡慎太郎が殺害されたばかりであり、しかも御陵衛士に加わっていた斎藤一も数日前から姿を消している中、単身近藤宅を訪ねることに、御陵衛士の隊士たちは危険だと反対したといいます。しかし伊東は「彼が礼をもって招いているのに、応じないのは非礼である。彼に害心あらんかと怖れて行かぬのは卑怯である」と言って出かけて行きました。

 

 

その近藤勇の妾宅は『新選組高台寺党』(市居浩一)によれば醒ヶ井通木津屋橋下ル東側四軒目にあったといいます。醒ヶ井通は西隣の堀川通が戦時中の建物疎開で拡幅されたことにより、五条通以南は現在消滅していますが、近代京都オーバーレイマップを見ると、七条通以南は現在の堀川通の西側の歩道部分が、かつての醒ヶ井通にほぼ合致するようです。

 

 

また、同じく近代京都オーバーレイマップの、一軒ごとの区画割りまで詳細に描かれている「昭和2年頃京都市明細図」などの複数のマップを見ると、醒ヶ井通木津屋橋の辻(十字路)を(南に)下がった東側の四軒目は、周辺の家屋と比べてひときわ大きな敷地を有しており、おそらく庭付きの立派な家だったのではないかと思われます。おそらく近藤勇の妾宅の敷地がそのまま残っていたのではないでしょうか。

 

 

それらのことを考慮した上で、近藤勇の妾宅がどの辺りにあったのかを現在の写真に表示してみました。

 

 

 

堀川塩小路歩道橋に上って撮影しましたが、画面右側手前に見えているのが資生堂京都ビルであり、その北半分の前面の道路上になるのではないかと思われます。

 

 

近藤の妾宅には近藤のほか、土方歳三、山崎丞、原田左之助、吉村貫一郎らの隊士も待ち受けていて、元来酒好きの伊東は近藤の巧みな話術についつい心を許し、気がつけば時刻は亥の刻(午後10時)になっていました。

 

 

「それでは、そろそろ御免」

と礼を述べ、駕籠を呼びますかというのを「酔いざましにぶらぶら歩いて帰ります」と断って近藤の妾宅を出た伊東甲子太郎は、醒ヶ井通を北に出て木津屋橋通を右折すると、最初の辻である油小路通の辻に差しかかりました。近藤の妾宅からここまでせいぜい100mそこそこであり、この間、おそらく2分かかるかどうかという距離です。

 

 

※.木津屋橋通油小路の辻を東側から見たところ。伊東は画面奥から歩いて来たことになります。

 

 

当時この辺りは、京都の住宅街の南限であり、木津屋橋通の南は塩小路村の田圃や畑地でした。また慶応三年当時も、三年前に起こった禁門の変の「どんどん焼き」で焼けた家の跡が依然残っていたようですが、その焼け跡を囲っていた板塀に大石鍬次郎、宮川信吉、横倉甚五郎らが潜んでいて、伊東が目の前を通りかかると、おもむろに槍を突き出しました。

 

 

槍でいきなり喉を突かれた伊東は、瀕死の重傷を負いながらも抜刀して応戦しましたが、出血おびただしく、辻から北に15mほどにある本光寺の門前にあった石碑にもたれかかるようにして息絶えました。なおも迫る新選組隊士らを「奸賊輩(かんぞくばら)!」と大声で一喝して、そのまま絶命したと伝わります。御陵衛士隊長伊東甲子太郎、享年三十三歳(数え)。

 

 

※.伊東甲子太郎が門前で絶命した本光寺(下京区油小路木津屋橋上ル米屋町)

 

 

※.伊東甲子太郎が息を引き取る際に、もたれかかったとされる石碑(抱きかかえたとも)

 

 

※.周辺図(明治25年仮製図を元に作成)薄茶色が宅地。緑色は農地と空き地です。