人斬り松左衛門(23)南季四郎の墓 | またしちのブログ

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文久三年(1863)三月二十三日、堤松左衛門は南禅寺の裏手にある大日山に登り、切腹して果てました。その遺体は翌日の二十四日に、仲間の長州藩士たちの手により、東山の正法寺霊明社に神式にて埋葬されましたが、松左衛門らに襲撃され、命を落とした吉田平之助や、士籍を剥奪された都筑四郎の親族や同志による報復を避けるため、墓石には南季四郎と彫られ、長州人として葬られたと伝わります。

 

 

松左衛門の師・轟武兵衛はその頃肥後に帰国していて、のちに御親兵に加わり再上洛しましたが、その時に松左衛門の墓参りをしています。

 

武兵衛儀も親兵にて再び上京致し候節、墓参致し候ところ、印は南季四郎と書き記しこれ有り。右は松左衛門変名にてこれ有り候。(『轟武兵衛引取書』)

 

 

南季四郎の墓の主が実は堤松左衛門であるということは無論秘密にされましたが、轟武兵衛が再上京した頃には、南禅寺に逗留する肥後藩士の一部には知られていたようです。

 

 

そしてその南季四郎の墓があった場所について、以前、霊明神社の村上宮司様とお話する機会があったのでお尋ねしてみました。すると維新前の霊明社(現在の霊明神社)の神葬墓地は、現在の霊山墓地のうち、霊明神社の裏手に当たる一画に限られていたそうで、つまり現在熊本招魂社がある付近に南季四郎の墓があったのは間違いないようです。

 

 

その熊本招魂社は明治三年(1870)に創建されたのですが、現在、いやその当時にも既に南季四郎の墓はなくなっていたようです。そのあたりの話を続けて書き切ってしまおうと思ったのですが、相当長くなってしまいそうなので、今回はここで一旦区切りにしたいと思います。

 

 

※.霊山墓地全体図。右下の青色のあたりが旧霊明社墓地に当たる。