人斬り松左衛門(24)祀られ過ぎる男 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

文久三年(1863)三月二十四日、長州の南季四郎として正法寺霊明社の墓地に葬られた堤松左衛門ですが、その墓に関してはその後紆余曲折があり、安らかな眠りについたとは決して言えなかったようです。

 

 

慶応四年(1868)三月、神仏分離令が出され、仏教(時宗)の正法寺と神道の霊明社が分離され、霊明社は霊明神社となりました。それからわずか二ヶ月後の五月十日(上野戦争の五日前)、今度は明治維新を迎えることなく志半ばで斃れた志士たちを祀るために、霊明神社裏手の山を新たに造成して墓地を創建するよう、明治天皇より勅旨が下されました。

 

 

この墓地(霊山墓地)がのちに霊山官祭招魂社となり、現在は霊山護国神社となっているわけですが、新政府によって霊山墓地が創建されるにあたり、勤王の志士の墓が数多く建っていた霊明神社裏手の墓地は霊山墓地に接収され、それに伴い同地に建っていた一般人などの墓は、霊明神社の別の墓地に移設されることになってしまったそうです。

 

 

こうして創建された霊山墓地の中心部に長州藩墓地があるのですが、その最上段の向かって左から二番目に、「南木四郎源義次之墓」が建っています。これは明らかに堤松左衛門の墓です。

 

※.霊山墓地・長州藩墓地の最上段に立つ南木四郎(堤松左衛門)の墓

 

 

この南木四郎の墓は、霊山墓地の創建当時の様子を伝える『隠玖兎岐集(おくつきしゅう)』(菊秀軒/慶応四年)にも既に描かれており、霊山墓地の創建と同時に他の長州藩士の墓や招魂碑と共に作成された可能性があります。しかし、そうだとすると、既に慶応四年の時点で、「南木四郎」が肥後脱藩の堤松左衛門の変名であるという事実は忘れられていたということになるのかも知れません。

 

 

それを裏付ける、とまでは言えないかも知れませんが、明治三年(1870)に霊山墓地内に熊本招魂社が創建された際に建てられた各名招魂碑の裏面に、堤松左衛門の名が刻まれています。

 

 

※.熊本招魂社内に立つ各名招魂碑

 

 

※.各名招魂碑の裏面。最上段中央に堤松左衛門の名がある。ちなみにその右に松田重助と宮部鼎蔵の名が刻まれている。

 

 

更に昭和四十三年(1968)、明治百年記念として熊本招魂社内に河上彦斎、樋口直次と共に堤松左衛門の墓が改めて建てられました。

 

 

※.熊本招魂社内に立つ堤松左衛門の墓

 

 

歴史上の人物は、出身地の他にゆかりの地など数ヶ所に墓がある場合が珍しくありませんが、堤松左衛門の場合、霊山墓地の中だけに複数の墓(と招魂碑)が存在することになります。