人斬り松左衛門(22)横井小楠の死 | またしちのブログ

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江戸檜物町の襲撃事件で「仲間を助けずに逃げたのは武士にあるまじき行為」であるとして士籍を剥奪され、平民に落とされた上で蟄居生活を余儀なくされた横井小楠は、その後熊本に逼塞していましたが、その間も同じ肥後藩士で、のちに大日本帝国憲法や皇室典範、教育勅語などの起草に携わることになる井上毅(いのうえ こわし)や、土佐脱藩の坂本龍馬等の訪問を受け、様々な提言を授けています。

 

 

そして慶応三年(1867)、王政復古の大号令が発せられ(十二月九日)、天皇を頂点とした新政府が立ち上がると、朝廷は肥後藩に対し小楠を新政府に出仕させるよう打診します。しかし、肥後藩は小楠が病がちであるとして、この要請を断わりました。

 

 

新政府はそれでも小楠の出仕を求め、結局肥後藩側が折れる形で慶応四年(1868)三月に小楠の士籍を回復した上で上京を命じます。こうして新政府に加わった小楠は同年閏四月に従四位下参与に任じられ、制度事務局判事となりますが、病がちであったというのは、あながち嘘でもなかったらしく翌五月には体調を崩し、一時は重篤な状態に陥っていまいます。

 

 

九月にようやく職務に復帰しますが、それからわずか三ヶ月あまりの翌明治二年(1869)一月五日の午後、御所に参内した帰り道のことです。小楠を乗せた駕籠は、彼を「夷賊に同心し、天主教(キリスト教)を海内(日本国内)に蔓延せしめん」とし「廃帝の儀など相唱え」ている奸物だとする過激派浪士たち(上田立夫、前岡力雄、鹿島又之允、中井刀禰尾、柳田直蔵、津下四郎左衛門)の襲撃を受けました。

 

 

従者たちと共に、小楠自身も駕籠から飛び出して、斬りかかってきた刺客たちに短刀一本で応戦しますが、前岡力雄と組み合っている間に鹿島又之允に横合いから首を斬られ、ついに絶命してしまいました。享年六十一歳。その才覚を思えば、残した業績はあまりにも少ないといえます。

 

 

 

 

※.横井小楠殉節地の碑(京都市中京区寺町通丸太町下ル)。奥に見える石垣は京都御苑(御所)の東南角。