人斬り松左衛門(16)小楠活かすべし | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

堤松左衛門らが横井小楠を狙ったこの事件ですが、どうも不可解な点が多いように思います。松左衛門は二階から駆け下りてきた小楠をなぜ見逃したのでしょう。或いは玄関前で待ち構えていた長州・土佐の志士たちは、どうして料亭から出て来た小楠をそのまま素通りさせたのでしょう。

 

 

そもそも、横井小楠が命を狙われたのは小楠が「和議開港を主張」していたからだと松左衛門は言っているのですが、果たしてそれは本当だったのでしょうか。実は事件のあった文久二年(1862)十二月十九日の少し前、十二月三日に小楠は松平春嶽に対して建白書を提出しています。

 

 

その中で小楠は幕府の外交政策を「恐怖して容易に条約を結び」「神州未曾有の汚辱を引き出し、上は天子を悩まし奉り、宸襟下の万民の憤怒を醸し出し」「己の利栄を謀り姑息因循の国家をこの極みに至らしめ候」弱腰外交だと痛烈に批判しており、断然攘夷の処置を取るべきだと述べています。

 

 

具体的な方策としては、現在日本に在留している外国人たちは、それぞれの国から使命を託されてやって来た者たちなので手荒に扱うべきではないが、勅許のないままの開国は断じて認められないので、在留外国人たちには一旦それぞれの国に帰ってもらい、その上で将軍は速やかに上洛して天皇に謁見し、勅許を得た上で改めて諸外国と条約交渉を行なうべきだとしています。

 

 

こうした考えが実現出来得たかどうかはさておき、幕府政治総裁職である松平春嶽がこうした方策を幕府に建白することで、攘夷派の反発を抑える効果は期待出来たのではないかと思われるし、おそらくそれこそが小楠の狙いだったのではないかと思われます。

 

 

いずれにせよ、こうした考えは長州や土佐の過激攘夷派とほとんど変わらないものであり、ならば小楠が命を狙われる理由自体がおかしいということになります。しかし、松左衛門は小楠に何度も面会を申し込んだものの、警戒されたのか会うことが出来なかったと言っています。ならば小楠の真意を理解することが出来ずに、誤解したまま襲撃を決行したと考えられることは出来ます。が、そこに疑問を感じるのです。小楠は本当に松左衛門との面会を拒否したのでしょうか。実は二人、会って話し合ったのではないでしょうか。

 

 

実は横井小楠、同じ文久二年の秋頃に、土佐脱藩浪士の坂本龍馬と岡本健三郎に面会しています。松平春嶽の回顧談によれば「両士(龍馬と岡本)の東下せるは、勝安房、横井平四郎の両人暴論をなし、政事に妨害ありとの与論を信じたるゆえなりと聞く」とあり、更に龍馬たちは小楠が廃帝論者だと思っていたようで、かなり敵意を持って小楠と面会したようですが、実際に面会してみると小楠は「尊王の志厚く、廃帝などの事はいささかもこれなく、横井の忠実にすこぶる感佩(※)」したといいます。

 

 

こう言ってしまっては身もふたもありませんが、当時の坂本龍馬はどこの馬の骨かもわからない一介の浪士に過ぎません。それでも小楠は面会して、お互い腹蔵なく意見を交換しているのです。ましてや同郷の肥後出身で、肥後勤王党の一員であった松左衛門がわざわざ江戸まで訪ねて来て、会わないということがあるでしょうか。

 

 

実は会ってたのではないか、と考えると安田喜助と黒瀬市郎助が上座に座っていた小楠に斬りかからなかったことも、松左衛門が階段で小楠にすれ違ったことも納得出来ます。松左衛門、小楠と面会してその考えを聞き、「この人は殺してはいけない人だ。今の日本に絶対必要な人だ」と考えたのではないでしょうか。だから玄関先で待ち構えていた長州・土佐の同志たちにも「誰かが出て来ても一切手出し無用」だと念を押していたのではないでしょうか。

 

 

ただ、言うまでもないことですが、横井小楠を助けるということは長州や土佐の同志を裏切ることであり、その決心をした時点で、おそらく松左衛門は死を覚悟したのだと思われます。ちなみに小楠の身代わりのような形で殺害されてしまった吉田平之助ですが、小楠の証言(『肥後藩国事史料』~「横井小楠の半面」)によれば、吉田はかつて大老井伊直弼の専制時代に「大老方に相成り、色々取り計らい」したので尊王攘夷派から憎まれていたといいます。つまり、襲撃直前になってターゲットを横井小楠から吉田平之助に変えたのではないかと思われるのです。

 

 

また、小楠は過激攘夷派から命を狙われていることを事前に知っていましたが、「横井小楠の半面」での本人の証言によれば、その情報を知らせたのは意外にも「長州の桂小五郎と申す人」だったそうです。

 

 

 

※.感佩…かんぱい。心から感謝すること。感銘を受けること。