人斬り松左衛門(17)京に帰る | またしちのブログ

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横井小楠の暗殺に “失敗“ した堤松左衛門は、そのまま京都に帰って来て河原町二条下ルの長州藩邸内に匿われていました。それから間もない文久三年(1863)の正月はじめのことです。京都に滞在中であった松左衛門の師・宮部鼎蔵のもとに長州藩士の瀧猶太郎という人物が訪ねて来て面会を求め、松左衛門が江戸で横井小楠らを襲撃したものの、失敗に終わったことを告げました。

 

 

※.堤松左衛門が江戸から戻った後に匿われていた長州藩邸跡(現・ホテルオークラ京都)

 

 

宮部鼎蔵は大いに驚き、同じく松左衛門の師である轟武兵衛に相談してただちに松左衛門に会おうと決めました。しかし松左衛門は「面会相断わり一切出会い申さず」、二人は空しく帰ったといいます。(『肥後藩国事史料』~「轟武兵衛引取書」)

 

 

ここで訂正しなければならないことがあります。以前の記事で松左衛門が江戸に出立した時が轟・宮部との最後の面会であったと書いてしまいましたが、実は史料の読み落としをしてしまいました。ここまでの記述から二人は松左衛門に会えなかったものと早合点してしまいましたが、実際にはこのあとの某日、宮部鼎蔵と轟武兵衛は松左衛門が頑なに断わるのを強引に部屋まで押しかけ、松左衛門と面会を果たしたのでした。そのため、江戸檜物町における襲撃事件の顛末は堤松左衛門本人の口から轟武兵衛に伝えられ、武兵衛が残した「轟武兵衛引取書」によってその詳細な証言が後世に残されることになったのです。

 

 

この時、堤松左衛門は既に覚悟を決めていました。