藤田五郎とイタタ剣(12)箱館戦争 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

戊辰戦争の際に小泉則忠が何をしていたのか、『大鳥神社 神社を中心としたる雑司谷郷土史談』の中に、そのヒントになりそうな話があります。語っているのはやはり秋田雨雀です。

 

 

何でも、はっきりは覚えないけれども、榎本武揚が函館から降参して帰順して帰る時に、あの人が連れて来た。そうして弘前の牢へ榎本武揚を入れたという話を聴いたように思います。

 

 

説明するまでもなく、榎本武揚は戊辰戦争時の幕府海軍副総裁であり、江戸開城による幕府艦隊の引き渡しを拒否して脱走、蝦夷箱館を拠点に新政府軍を迎え撃ちましたが、明治二年(1869)五月に降伏しました。その榎本武揚を弘前まで連行してきたのが小泉則忠だったというのです。

 

 

ただ、調べたところ、降伏した榎本武揚ら箱館政府軍幹部は、箱館から東京まで志水一学を隊長とする肥後藩の兵が移送を担当したことがわかっています。では小泉則忠は肥後藩士だったのかというと、その可能性はまずないと思われます。

 

 

そこで「はっきりは覚えないけれども」という秋田雨雀のお言葉に甘えて、榎本武揚ら箱館政府軍幹部たちが東京へ移送されるまでの間と拡大解釈をして、小泉則忠が関わっていそうな「何か」はないかと探してみたところ、興味深いものを見つけました。それは箱館政府軍の陸軍奉行だった大鳥圭介が著した『幕末実戦史』です。

 

 

※.大鳥圭介(『人物写真帖』より)

 

 

明治二年六月三十日に江戸(東京)まで移送されて来た榎本武揚、大鳥圭介、松岡磐吉、荒井郁之助、永井玄蕃、松平太郎、相馬主計の七人は軍務局糾問所の牢に入れられました。

 

 

さっそく取り調べが始まったのですが、取り調べに当たった二人の役人に関して同書には以下のように記されています。

 

 

昨日高座にありし役人は小栗(この人元富沢町に住居せし撃剣家にて近来壬臣となれり)と月岡の由。

 

 

「栗」と「泉」は字体が若干似ています。考えてみると「壬臣」というのはおそらく「王臣」の誤記だと思われ、「栗」も「泉」の誤記という可能性があるのではないでしょうか。実は『幕末実戦史』のあとがきには、同書の校正の段階で大鳥圭介自身が病に臥せってしまったため、チェックが行き届かないまま出版せざるを得なかったことが敢えて書かれているのです。

 

 

また富沢町とは現在の日本橋富沢町のことと思われ、明治期には京橋区に属していました。警視庁を退職し、雑司が谷を離れた小泉則忠は、実家に帰って煙草屋を始めたと考えると、この取り調べを行なった役人「小栗」を小泉則忠のことと考えても、矛盾はしないといえそうです。