藤田五郎とイタタ剣(9)奇人 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

矢島昌郁は雑司が谷の屋敷に一人で暮らしていました。家族はいなかったわけですが、実は親戚がひとりいました。隣の家に姪夫婦が住んでいたのです。

 

 

姪の名はおいねさんといい、こちらは薙刀の名手だったと伝わります。キリッとした顔立ちの美人で、なかなか洒落た人で酒好きでもあったので、色恋の噂も少なからずあったようです。なんでも、いっとき雑司が谷を離れて京橋で煙草屋をやっていた時分には、『金色夜叉』の尾崎紅葉が、おいねさん目当てに足しげく通っていたとか。

 

※.尾崎紅葉(ウィキペディアより転載)

 

 

その矢島昌郁の姪のおいねさんの夫というのが他でもない。明治十八年十月十四日の弥生神社創建記念の武術大会で、藤田五郎(斎藤一)と剣術の試合をした小泉則忠その人なのでした。

 

 

『大鳥神社 神社を中心としたる雑司谷郷土史談』の座談会には、その小泉則忠とおいねさん夫婦の孫にあたる人も参加しているのですが、小泉則忠に関してはその人柄や変わった風采の方に話題が向いてしまっていて、肝心の出自や経歴に関しては、残念ながらほとんど触れられていません。なので維新前、どこに住んでいて何をしていた人なのか、さっぱりわからない。ただ、おそらくは武州の人であったのは間違いなさそうです。

 

 

ともかくもこの小泉則忠という人、ちょっと変わった人だったようです。警察官らしからぬ温厚な性格でお人好しだったといわれる一方で、何しろ着るものに無頓着で、年中同じ着物ばかり着るものだから、襟や袖口に垢が染みついてテカテカ光っていたらしい。しかも羽織の家紋はあとから縫い付けたものらしく、それが糸がほどけてしまってヒラヒラとなびいているのを近所の子供たちに笑われても一向に気にしない。

 

 

「袴でも折り目なんかありはしない。袴全体がしわだらけになっている」「衣物だか襦袢だかわからないような物を着て、一向に頓着しない。汚い風采は小泉さんと言ったものです」と、孫の代になっても人々の記憶に残るほどだった小泉則忠でしたが、その汚い格好のまま、真っ黒な足駄(高下駄)を履いて警察署に通勤していたといいます。

 

 

ただ植物に関する知識は学者並みだったそうで、近所の子供たちが草を摘んでくると「それは何々」と和名と洋名を即座に教えてくれたといいます。本草学のような学問を修めたわけではなかったようですが、実際に「武蔵野の草という草、木という木を知らないものはないくらい」の知識を有していたといいます。

 

 

そして近所の子どもたちを連れて、よく植物採集に行ったらしい。『~雑司谷郷土史談』の座談会にいわく、牧野富太郎(※.日本の植物学の父といわれる)の研究には小泉則忠の採集実績がかなり貢献しているのだとか。