渡邊昇談話を読む(10) | またしちのブログ

またしちのブログ

幕末史などつれづれに…

慶応三年(1867)一月三日、城での初謡の儀を終えて帰宅途中だった大村勤皇党の針尾九左衛門と松林飯山が何者かに襲われ、松林飯山は斬殺され、針尾も重傷を負わされました。この事件は藩内佐幕派のしわざとされ、「大村騒動」と呼ばれる大粛清が起きたことは前回お話しましたが、『もう一つの維新史』の著者外山幹夫先生は襲撃犯が佐幕派であったという通説に疑問を呈しておられます。

 

外山先生曰く、二人を襲ったのは他でもない、同じ大村勤皇党ではないかというのです。その理由として家老であった針尾九左衛門が襲撃されたというのに、藩庁に報らせもせずに渡邊兄弟を中心として勤皇党が独断で動いていること、そして松林飯山と渡邊昇がかねてより反目し合っていたことなどを挙げられています。

 

昇は頭脳明晰な松林飯山に対して強い劣等感を持っていたようで、松林を評して「予、常にこれに及ばざりしをもって遺憾となす」とその才を評しながらも、昇を見下すような態度に「予、恨み骨に徹し、秘かに思えらく、彼、ただ文事に敏なるのみ。武事に至りてはもとよりその能くするところあらず」と、松林を強く恨んでいたことを明かしています。

 

一方の松林飯山の方も渡邊昇のことを「暴客なり。我が同志たるに足らず」と、自分の同志と認めるには役不足であると言ってはばからなかったといいます。二人は方針で対立することも多く、そもそも藩主大村純熈のお気に入りであったことから同志に招いた松林でしたが、すでに勤皇党そのものが信任を得ていたので、もはや不要になったのだと考えることは出来ます。目の上のたんこぶであった松林飯山と、対立していた佐幕派を同時に消してしまおうという一石二鳥の謀計であったと考えると、たしかに納得出来る話です。

 

ちなみに『死生の境』の「子爵渡邊昇氏談」では松林飯山の死を以下のように述べています。

 

松林は肩からかけて大袈裟に真っ二つ、・・・真っ二つといえば左右分厘の相違も無いくらいの鮮やかなもので、針尾も肩から大袈裟に重傷(ふかで)を負うたのであった。もちろん刺客は我輩も刺し殺すつもりであったそうだが、とうとう我輩だけは刺し得なかった。

 

疑いの目で見ているからかも知れませんが、有能な同志を失った悲しみよりも、むしろ刺客の腕を褒め称えているように感じられるのは気のせいでしょうか。いや、そもそも歩いている生身の人間を、振り向く暇さえ与えずに真っ二つに叩き斬るほどの剛腕をもった剣客というのも、そうなかなかいるものではないと思われます。松林飯山を斬ったのは、実は渡邊昇その人だったのではないでしょうか。