お梅という女(9) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

『新選組遺聞』収録の「八木為三郎老人壬生ばなし」ですが、図と照らし合わせながら読んでみると、実情と合っていなかったり、文中に矛盾する点があることに気づきます。

 

 

 

 

たとえば、「私と弟の勇之助と二人がもう寝ようというて、玄関の左手にある寝部屋へ行くと、真っ暗な中で、私達の床の中に、女が一人しゃがんでいるのです」とあるのに、そのあと「式台の玄関から障子を開けて入ると天井の低い四畳半、右に為三郎のはじめ寝ようとした寝室、左手にまた四畳半、これにつづいて右手に八畳」と、今度は為三郎たちの寝部屋は玄関の右手になってしまっています。

 

が、上図のように、玄関の右手にはそもそも部屋などありません。また式台の玄関から障子を開けて入る部屋は四畳半ではなく六畳間です。そして、その左手に四畳半の階段部屋があるのですが、どうもこの「式台の~」の文章は、本来左側の三つの部屋のことを指しているように思われます。つまり玄関脇から天井の低い四畳半(為三郎たちの本来の寝室)→四畳半(階段部屋)→八畳間(実は六畳)ということです。

 

おそらくは子母澤寛が何か記憶違いか、メモの書き間違いでもしてしまったのでしょうが、そのあとにも「平間は、そのまま私達がはじめに寝るつもりであった右側の室へ入って寝てしまいました」と、右と左を間違えて書いています。

 

ちなみに、「そうしている中に、十二時頃に、誰か玄関の障子を開けて静かに入って来るものがあるのです。母はもう床へ入っていましたが、それは私達の寝ている部屋の南で、つまり玄関の左手の室」とあって、母のまさが寝ていたのは為三郎たちの寝ていた部屋の南側だとしています。この話だけでは曖昧さが残るのですが、こうしたことから上図のように南から平間と糸里→まさ→為三郎と勇之助が寝ていたと判断したのですが、それでもまだおかしなところはあります。

 

母はまだ寝入っていなかったので、

「今時分誰だろう」

ひょっとしたら父が戻ったのかしらと思って、気をつけると、入って来たのはどうも体つきの様子で土方歳三のようなのです。その土方が、足音を忍ばせて芹沢の寝ている室の唐紙を細目に開けて、中を覗いている。

 

まさが寝ていた四畳半の部屋と隣の六畳間との間に階段がありました。そのため二つの部屋は人ひとりが出入り出来るスペースこそあるものの、部屋の間にある階段が壁の役割を果たしてしまっています。なので、寝入ってはいなかったにしても、布団には入っていたであろうまさが、隣の部屋に忍び入り、芹沢たちの寝ている奥の十畳間を覗き込んでいる土方らしき人物の姿を見ることは不可能なのです。もし、まさが寝ていたのが玄関脇の四畳半だとしたら、なおさら見えないはずです。

 

また、仮にまさが立ち上がって階段の横あたりから覗いていたのだとすると、土方が振り返った瞬間に絶対にバレてしまいます。何しろ六畳しかない部屋なのですから。芹沢たちの殺害を長州のしわざにしてしまおうと考えていたのなら、まさに顔を見られてしまうのは非常にまずいわけで、まさも巻き添えで殺されてしまったとしてもおかしくありません。なのに、なぜそうならなかったのでしょう。

 

 

おかしいのはそれだけではありません。そもそも、主(あるじ)の源之丞は京都の方に用事があって出かけたまま帰って来なかったとされるのですが、文久三年の京の話です。血生臭い天誅騒ぎが横行していた頃です。出かけた主人が夜になっても帰って来なかったら、ましてやそれが壬生浪士組に屋敷を貸している八木家の主人だったら、それこそ一大事ではありませんか。島原で芸妓総揚げでどんちゃん騒ぎしている浪士たちに報せて、源之丞を捜索してもらうべき事態のはずですが、そんなに慌てた様子も心配している感じも、この話を聞くかぎりありません。これはなぜなのでしょう。

 

それに加えて、そもそも為三郎と勇之助は二人兄弟ではありません。長男秀二郎、次男道之助、三男為三郎、四男勇之助、長女たかの五人兄妹なのです。秀二郎ら他の子供たちはどこに行ったというのでしょう。

 

そして子供といえばもうひとつ。日暮れ頃にはお梅や吉栄や糸里が八木邸に来て芹沢たちが島原から戻って来るのを待っていたのです。その時分から来て男たちが帰って来るのを待っているとなれば、「お泊り」になるだろうことは大人なら誰だって察しがつきます。

 

そんな中に、芹沢たちが寝る十畳間と壁一枚隔てただけの隣の部屋に、十歳をいくつか過ぎたばかりの子供たちを寝かそうと、母親が普通思うでしょうか。他に寝る場所がなかったのならいざ知らず、八木邸には母屋の二階にも部屋があるし、離れもあります。何だったら、浪士たちが勝手に建てた八畳一間の道場だって、子供二人が寝るには十分な広さです。わざわざ二組の男女がそれぞれひとつの布団で寝る、そのとなりの部屋に子供を寝かせる必要はなかったように思います。

 

 

こうした、八木家にまつわる疑問の数々が一挙に解消されるような言葉を、実は先日の八木邸訪問の際に聞くことが出来たのですが、それについてはまた次回に。